6. コメント欄から失礼します
月曜の朝の情報番組が、第七迷宮の名を呼んでいる。
流れているのは昨日の切り抜きである。白い水柱、割れた音声、階段を駆け上がる六つの背中。スタジオの誰かが「奇跡的ですね」と言い、別の誰かが「コメント欄の予言者」と呼ぶ。私は台所で湯を沸かしながら、それを背中で聞いていた。
予言ではない。図面だ。
――と、この台所から言ってみたところで、電波は逆流しない。
同じ朝、ディグリードが滝裏一帯の立入禁止を発表する。理由は「地質調査のため」。二十二年前から禁じられているべきだった場所が、二十二年遅れで閉まる。遅い。遅いが、閉まったことに変わりはない。私は湯呑みを両手で包んで、ゆっくり息を吐いた。
あの会社を責める気は、不思議と湧いてこない。滝裏を売り出した担当者は、貸された図面の通りに仕事をしただけだろう。図面に書かれていないものは、この世に無いことになる。三十七年、線を引く側にいた私が、いちばんよく知っている理屈である。
九時、翔真の端末が短く鳴る。
『アカウント「烏口」の利用停止措置を解除しました。通報内容の再審査により、当社の判断に誤りがあったと確認しております。深くお詫び申し上げます』
「じいちゃん、戻った! 戻ったよ、烏口!」
縁側に駆けてきた孫が、端末を両手で高く掲げる。日曜からずっと張り詰めていた顔が、そこでやっと十三歳のものに戻っていた。
たった一週間である。
その七日のあいだ、私は毎朝きちんと六時に目を覚まし、それから、起き上がる理由を天井に探していた。妻を送った年の朝と、同じ天井だ。二年かかっても戻らなかったものが、七日で戻ってくる。名前というのは、ずいぶん妙な形をしている。
「なんか言ってよ、じいちゃん。復活の第一声。歴史に残るやつ」
「……ご安全に」
「渋っ。渋すぎでしょ」
孫が畳に転がって笑う。
「公団の朝の挨拶だ。私はこれで、三十七年間朝を始めた」
「へえ。……じゃあ俺も使お。ご安全にー」
「語尾を伸ばすな」
笑い声の置き場所が、この家にできている。二年、無かったものだ。
昼過ぎ、烏口宛てに一通の私信が届く。差出人は、ディグリード株式会社・広報部。
「烏口様。この度のご指摘に、心より感謝申し上げます。つきましては貴殿を弊社『公式セーフティアドバイザー』としてお迎えしたく、ご検討をお願い申し上げます。報酬・体制はご希望を伺います」
文面は丁寧で、そして本気だった。書いた人はきっと、真面目な人である。
三年前、同じ社名の会議室で、私の部門は畳まれた。恨みが無いと言えば嘘になる。だが、断る理由はそこではない。
顧問になれば、私の書き込みは会社の見解になる。会社の見解には、営業という上流がつく。上流のついた水は、必ずそちらへ曲がるのだ。そして曲がった線の上で、人が死ぬ。
肩書きは、水を止めない。
人差し指の一本打ちで、一行だけ打つ。変換を二度直して、送信した。
「顧問はやりません。コメント欄から失礼します」
夕方、もう一通。差出人は大峰旭。
「昨日は、ありがとうございました。うちの若いのが四人、今日も飯を食っています。何かお返しをさせてください」
四十万人の前でカメラを見た男が、いまは一行ずつ、ゆっくり打ってくる。
「返礼は不要です。装備の点検を、これからも二重のままにしてください。それで十分です」
「……会社から、顧問の話が行ってると聞きました。受けるんですか?」
「断りました」
「理由を、聞いてもいいですか?」
私はしばらく画面を見て、それから、さっき送った一行をそのまま打ち直す。
「顧問はやりません。コメント欄から失礼します」
既読の点だけが並ぶ時間があって、返事が来た。
「それ、配信で言っていいですか?」
「事実ですので、どうぞ」
その晩、黎明の配信で、大峰が濡れた前髪のままカメラに向かう。
『昨日、烏口さんに礼を言いに行ってきました。ついでに聞いたんです。会社の顧問になるんですかって。……返事、読みます。「顧問はやりません。コメント欄から失礼します」』
画面が一瞬静まり、それから壊れる。
『かっこよすぎるだろ』『コメ欄の主』『名刺に刷れ』
切り抜きは翌朝までに百万回再生を超えたと、翔真が朝食の席で報告してきた。
夕飯どき、その孫が箸を止める。
「今日さ、クラス、烏口の話しか出なかった」
「そうか」
「俺、ずっと『へー』って言ってた。……じいちゃん。俺、演技うまくなったと思う」
「そんなの、うまくならなくていいの」
千夏が味噌汁の椀を置いて言い、それから私を見る。娘の目は、心配の底に少しだけ誇らしさを沈めていた。母親という人種は、そういう混ぜ方が上手い。
「お父さん。あの人たち、いつまで探すの?」
「さあ。探されて困るものも、もう無い」
「……そうやってはぐらかすの、昔から変わらないよね」
千夏が箸を置く。
「私、怒ってるんじゃないの。ただ、お父さんの声が変わったから、余計に心配なだけ」
「いい声になっただろう?」
「なったよ。……なったから、困ってるの」
夜、モグが新しい企画を告知する。
『えー、「烏口さんの言う通りに潜ってみた」。本人の許可、もらいました。ガチでやります。……あの、一個だけ言わせてください。俺、十二層で死にかけてたんです。あの日あの分岐を左に行ってたら、たぶん、いまここで喋ってません』
◇
ディグリード本社、保安管理課の島。
瀬川は切り抜きを三度、頭から見返していた。音を消し、字幕だけを追う。
工事用の導坑。壁一枚の向こうを、大瀑布の水が全量。
貸与された現況図に、そんな一行はない。あの一帯は、白抜きの旧作業坑として印刷されているだけである。
「二十二年前の工事用、と言い切りましたよね」
若い部下が、恐る恐る口を挟む。
「うちのOBだとしたら、何年前の人ですかね。埋め戻しは三十九年前って書いてましたよ」
「……あの工区の綴を読める人間は、この会社にいない」
瀬川は答えらしい答えを返さず、机の端に積んだ紙の背を指で叩いた。
週の半ば、モグの企画初回が始まる。
同接は、はじめから四桁ある。モグの声が、少し裏返っていた。
『行きます。十二層、あの日の分岐からです』
ライトが濡れた壁を舐めていく。私は湯呑みを置き、老眼鏡を押し上げる。
右壁の腰の高さ、埋め戻し銘板の隣。苔をかぶった小さな金物が、光を返した。
モグの指が、そこを拭う。
『……なんか、書いてありますね。えっと――「施工 迷宮公団 第七設計課」』
三十七年、私が席を置いた課の名前である。
誰も読まない名前だと思っていた。読まれないことこそ、私たちの仕事が正しく回っている証拠なのである。
――喉の奥が、妙に熱い。




