5. 三分、もって五分
日曜は、朝から晴れていた。
晴れているのが、一番悪い。この三日で、七ツ峰には百八十ミリの雨が降った。庭の土が乾いていても、山の中は別の暦で動く。岩の隙間をゆっくり沁みて、水は二日遅れて迷宮に届く。七ツ峰の水は、二日遅れて来る――現場で四十年言い慣らされた口伝だ。今日が、その二日目である。
昼前から、私は縁側に道具を並べた。野帳。鉛筆。湯呑み。老眼鏡。それから、翔真の端末。孫は隣で膝を抱えている。日曜だというのに、朝から一度も動画の話をしない。子供なりに、今日が何かの当日だと分かっているのだ。
昼、放送が始まる。同接は見る間に四十二万を超えた。四十二万人。公団の全盛期でも、第七の一日の入坑者は千人に届かなかった。いまは画面の中に、それだけの人間が一度に潜る。
『クラン黎明、大瀑布・完全攻略戦、開始します』
大峰という男の声は、よく通る。画面の奥で大滝が白く落ち、飛沫が照明に光っていた。観光橋を渡る隊列の足並みは、さすがに揃っている。装備の点検も互いに二重で、練度は本物だ。練度は、本物なのだ。それでも、彼らの図面には載っていないものがある。
十五時二十二分、歓声が上がった。
『裏、抜けられます! 通路発見! これ未踏でしょ!』
濡れた岩壁に、四角い坑口が開いている。人が切った角だ。彼らが「隠し通路」と呼んで沸いているそれの正体を、私は図面ごと覚えていた。
あれは、二十二年前に掘った導坑――工事用のトンネルだ。そして壁一枚、岩二メートルの向こうを、大瀑布の水が全量、通っている。
ライトが壁を舐めた瞬間、私の背中が冷えた。
壁のあちこちに、白いものが噴いている。染みではない。霧のように細かく、噴いている。圧のかかった水が、壁の弱いところから漏れる姿だ。壁が泣いている――音のない悲鳴である。
私は「からすぐち予備」で打った。
「その通路は、二十二年前の工事用の導坑です。壁一枚の向こうを、大瀑布の水が全量通っています。壁の白い噴きは、圧力の水です。三分で退がってください。もって五分です。戻って〈七-三四-鋲三七〉の分岐を右、階段を八段。上がった床は、計画高水位より一・五メートル上です」
四十二万人のコメントは、濁流だった。私の一行は、歓声の泡に呑まれて流れて消える。もう一度打つ。また流れる。人差し指の一本打ちが、こんなに遅いとは思わなかった。老いというのは、こういう夜に、指先から思い知らされる。
「じいちゃん、貸して。俺が打つ」
「いい。文面が、変わる」
そのとき、画面の中央に、赤い枠のコメントが躍り出た。
「【代読を求む】烏口氏の警告を全文貼る。『その通路は、二十二年前の工事用の導坑です。壁一枚の向こうを、大瀑布の水が全量通っています。壁の白い噴きは、圧力の水です。三分で退がってください。もって五分です。戻って〈七-三四-鋲三七〉の分岐を右、階段を八段。上がった床は、計画高水位より一・五メートル上です』。金は出す。読め」
ノギスだった。赤コメというのは、金を払って読み上げ枠に押し込む仕組みらしい。あとで翔真に教わった。
読み上げ係が、笑い混じりにそれを読んだ。『えー、点検おじさんが来てますね。工事用の導坑? 鋲三七を右で、階段八段……だそうでーす』
『烏口って本物?』『烏口は凍結されたろ』『偽物だろ』『予備って書いてあるが』
疑いの数十秒。長い。壁の噴きは、画面の中で増えている。隣で翔真が、画面に向かって「信じろって」と小さく言った。ノギスの赤コメが、機械のように続く。
「烏口氏の言い切りは四十八件中四十八件的中。凍結は運営の通報による。真贋は三分後に分かる。退がって外れなら、笑って済む」
画面の中で、大峰が立ち止まった。
ライトが壁の白い噴きを照らす。近づく。指をかざす。霧のような飛沫が、手の甲を濡らす。ライトを戻すと、白い噴きの数は、さっきより目に見えて増えていた。『……増えてる』。低い声が、マイクに残る。数秒の沈黙は、それで終わった。
『――全員、戻れ』
『えっ』『マジで言ってます?』
『戻れ。鋲三七の分岐を右、階段を八段だ。復唱して、走れ!』
十五時二十九分、最後の一人が階段を上がり切る。
十五時三十分、坑口の奥で、何かが裂ける音がした。
白い水柱が、さっきまで彼らの立っていた導坑を呑んだ。轟音がマイクを割り、画面が飛沫で白く曇る。水は観光橋の橋脚を洗い、それでも階段の上までは届かない。あの床は、計画高水位より一・五メートル上に切ってある。二十二年前の私が、そう引いたからだ。
死者ゼロ。四十二万人が、それを生で見ていた。
コメント欄は、もう祭りである。『烏口は本物』『予備が本物とか』『的中四十九』。翔真が両手で口を押さえて、それから声を殺して万歳をした。
私は座椅子の背にもたれる。手が、少し震えている。間に合った。今度は――間に合ったのだ。あの水は、二十二年前から、ずっとあそこで待っていたのに。
画面の中で、大峰が濡れた顔でカメラへ向き直った。四十二万人の前で、まっすぐにレンズを見る。
『烏口さん。あなた、いったい誰なんです?』




