4. 営業妨害
的中は、積もる。
積もると、困る人たちがいる。
週明けの朝、それを教えてくれたのは翔真の電話だった。学校へ行く前の、上ずった声である。
『じいちゃん、烏口が消えてる! ログインしてみて!』
言われた通りに開いてみると、画面には「利用規約違反の通報を受け、調査中です」とだけある。理由は昼に分かった。「虚偽の危険情報の流布による営業妨害」。通報したのは、第七の運営会社ディグリードだという。
異議の申し立ては専用フォームから受け付けます、と画面は言う。その専用フォームの場所が、どこにも書いていない。私は老眼鏡を二度拭き、三十分探して、諦めて、湯呑みを洗った。三十七年、書類の様式には自信があったのだが、様式より先に、入口が見つからないのでは勝負にならない。役所の窓口なら、少なくとも窓口はある。
筋は通っている、と私は思う。三連休を前に、「あの迷宮は危ない」という動画が五十万回も再生されては、客足に障る。営業には営業の帳尻があり、彼らは彼らの仕事をしただけだ。
二十二年前、私も、そういう帳尻の中で判を押した側である。人のことを、言えた義理ではない。正しさというものは、置く場所を間違えると、よく切れる刃物になる。それを知っているから、私は運営を憎む気になれない。
ただ――書き込めない夜は、静かだった。
九時に座椅子へ座り、老眼鏡をかけ、湯呑みを置く。それから、することがない。画面の中では今夜も誰かが潜っている。二十六層の染みは広がっただろうか。あの隊の膝の傷は塞がっただろうか。見えているものに、言葉を届ける口がない。手持ち無沙汰に烏口を研ぎ、研ぎ終えて、引く線がないことに気づく。道具箱の蓋を、静かに閉めた。
台所で水音がしない、あの静けさと同じだ。佳代を送った後、この家は音を一つずつ失っていった。炊事の音、電話口の笑い声、風呂を沸かす気配。二年かけて、静けさに慣れたつもりでいた。やっと埋まりかけた穴は、埋まった分だけ、深く戻ってくる。烏口という名前は、この二か月、思っていたよりずっと大きな場所を、私の中に占めていたらしい。
その晩、大きな予告が流れた。
『クラン黎明、次の日曜、生放送。三十四層・大瀑布――滝裏の未踏区画、完全攻略』
黎明といえば、同接四十万の看板クランである。翔真も「大峰さんとこじゃん」と身を乗り出した。リーダーの大峰は、この国で一番顔の売れた探索者らしい。「大峰さんはね、じいちゃん、デビューから七年、隊から一人も怪我人を出してないんだよ」と孫は自慢げに言う。いい話だ。頭数を守る頭目は、それだけで敬意に値する。
予告の映像は、暗闇に白く落ちる大滝を映している。第七観光の目玉、通称・大瀑布。落差をライトが貫き、飛沫が宝石のように光る。テロップが躍る。前人未到の、裏側へ。
私は、その白い水を見つめた。
湯呑みの茶が、冷め切るまで見つめていたと思う。
――あの滝は、自然ではない。
あの水がどこから湧いて、なぜ二十二年間、一日も涸れずに落ち続けているのか。知っている人間は、この国にもう、数えるほどしかいない。そして滝の裏へ回るということが何を意味するか、図面ごと正確に言える者は――たぶん、私しかいない。
耳の奥で、遠い音がした。二十二年前の、水の音だ。私はそれ以上、思い出すのをやめた。蓋というものは、開ける日を選ばないと、中身に呑まれる。
「じいちゃん、どうしたの。顔、こわいよ」
翔真が覗き込んでくる。私は答える代わりに、暗くなった画面を閉じた。警告する口が、いまの私にはない。
翌日の夕方、千夏が先に来た。台所に立つ前に、座卓の向かいへ座る。
「ネットで揉め事になってるの、お父さんでしょう。凍結って何。大丈夫なの」
「大丈夫だ。年寄りが一人、静かになっただけだ」
「静かになった、じゃないでしょう。お父さん、この二か月、声が明るかったのよ。電話の第一声で分かるくらい」
「……そうか」
「そうよ。お母さんの三回忌のあと、あんな声だったのに」
千夏はその先を言いかけて、やめた。心配の形が、母さんに似てきたと思う。似てきたと言えば、怒るのだろうが。
夕飯どき、翔真が自分の端末を差し出してきた。画面には、作りかけのアカウントがある。名前の欄は「からすぐち予備」。
「俺のサブアカ。……じいちゃん。俺のアカ、使う? 怒られたら、俺が怒られる。それでいいから」
千夏が台所から「ちょっと」と声を上げ――それきり、何も言わなかった。まな板の音だけが、少し強くなる。母親の許可というものは、ああいう音でも出るのである。
私は箸を置き、画面の「からすぐち予備」の五文字を見つめた。予備。四十年前の公団なら、本管の隣に必ず引いた、もう一本の管の名前だ。




