3. 第三排水が死んでいます
木曜の夜、雨は本降りになった。
軒を打つ音が、畳の上の空気まで湿らせてくる。仏壇の鈴を一つ鳴らしてから、私はタブレットを開いた。予告の通りなら、今夜、六人の隊が二十六層に入る。「谷戸区画・夜間探索スペシャル」という題がついていた。同接は八千。中堅どころの、名の知れた隊らしい。
野帳を開く。おとといの晩に写した、あの扇形の染み。上から来る水。この雨。第三排水系が生きていれば、さばける量だ。生きていれば、である。
配信が始まる前に、私は書き込んだ。
「本日の入坑はお控えください。二十六層は第三排水系の受け持ちです。竪坑の前を通るとき、水の音が聞こえるはずです。聞こえなければ、排水は死んでいます」
リーダーの男が、開始の挨拶でそれを読み上げた。
『出た、預言者様。ご忠告どうも。でもね、うちは六人とも二種持ちなんですよ。雨くらいで帰ってたら探索者やってられません』
悪い男ではないのだろう。コメント欄も『それな』と笑っている。祭りの空気に水を差す老人が一人。絵にすれば、そういうことだ。二種の資格は、腕の証明である。だが第七の水は、腕を見て量を決めてはくれない。
二十一時、入坑。七年目の隊だという。足並みは悪くない。装備も上物だ。ただ、彼らの地図には通路と部屋しか描かれていない。水の道は、描かれていないのだ。
二十二時十分、隊は竪坑の前を通った。私は音量を上げ、目を閉じて聴く。三十七年、坑道の音で設備の生き死にを聴き分けてきた耳だ。生きた排水系は、竪坑の底で常に低く歌っている。マイクは岩の反響と雨鳴りを拾うだけで――水の音を、拾わない。
「いまの竪坑に水音がありませんでした。第三排水は死んでいます。引き返してください」
『はいはい、預言者様』
二十二時四十分、画面が揺れた。
悲鳴とライトの乱反射。足元を、茶色い水が洗っていく。退路にあたる下り坂は、もう膝まで沈んでいる。誰かが転び、誰かがその襟首を掴んで起こす。
『水っ、うしろ、水――』
八千人のコメント欄が悲鳴で埋まった。『逃げて』『どうすんだよこれ』『預言者の言った通りじゃん』。
画面のこちら側の手は、誰のことも掴めない。掴めないなら、道を教えるだけだ。指が震える前に、打つ。
「戻らず、前へ。いま居る坑道を二百メートル直進。左手に退避壕〈七-二六-壕九〉。扉は手回しです。中に毛布と手回し発電の灯りがあります」
『前って、奥に行けってこと?』『罠だろ』『いや烏口だ、烏口を信じろ』
リーダーはギリッと歯を鳴らし、しばし逡巡した後、叫んだ。『荷物は捨てろ! 前だ、走れ!』
水音の中の二百メートルは、長い。私は座椅子の上で、彼らと一緒に数えていた。健脚なら三分。膝まで水なら、五分。壕の扉のハンドルは右回り。固くても、六人の腕なら回る。
――五分では、着かなかった。転んだ一人が足首を痛め、二人がかりの肩貸しになったのだ。流れに逆らう二十分。それでも道は一本きりで、迷いようだけがない。
二十三時五分、六つのライトが鉄の扉の前に集まった。ハンドルの軋む音。開く。八千人が、退避壕の中を初めて見た。
棚に畳まれた毛布。手回し発電の灯り。壁の点検票。最終記入の日付は、六年前である。
六年、誰もここを開けていない。それでも毛布は、四つ折りの角を揃えて客を待っている。畳んだ誰かの手つきを、私は知っている気がした。公団の備蓄係は、毛布の角で仕事を覚える。角が揃っていれば、数がすぐ数えられるからだ。
『毛布……あった……』
リーダーの声が、湿っていた。笑った声のまま泣くのは、生きて驚いた人間の声だ。手回しの灯りが点って、六つの顔が橙色に浮かぶ。誰かが『あったかい』と言って、誰かが笑って、それきり配信は、静かな雨音の箱になった。
六人は朝まで壕で持ち堪え、六時に保安課の救助が届く。全員、自分の足で地上に出たという。
私は朝の茶を淹れ直す。間に合った。それだけのことが、湯呑みを持つ手を少し温かくする。雨戸の外で、紫陽花が昨日より濃い。
昼過ぎ、翔真から連絡が来た。切り抜き動画が五十万回再生されているらしい。題は「壕、実在した」。
実在も何も、あれは私が位置を決めた壕である。五百メートル間隔。歩ける距離に、必ず一つ。そう引いた線の上で、昨夜、六人が朝を待った。
◇
同じ朝。ディグリード社、保安管理課の詰所。
課長代理の瀬川は、モニターに並ぶ「烏口」の二文字を見つめていた。
壕九。手回しの扉。毛布の棚。どれも合っている。合っていることが、おかしい。壕の配置図は社外秘で、日常の業務で開くのは、この部屋の人間くらいのものだ。
若い部下が、モニターを覗き込んで言う。
「課長代理。この烏口って、うちのOBですかね」
「……分からん。だが〈壕九〉の位置も、手回しの扉も、毛布の棚も合っている。なぜ、外の人間が知っている?」
答える者のない問いは、詰所の雨音に消えた。




