2. 烏口
その晩、翔真は夕飯を三杯食べる間、ずっと質問を続けた。千夏が呆れて箸を止めるほどの食い下がりである。
私は仏壇の前に座り直して、少しだけ話した。迷宮公団という組織があったこと。顕現したばかりの第七に、最初の巻き尺を入れた測量班の端に私がいたこと。それから三十七年、穴を測って線を引いて、図面と現場の答え合わせをして生きてきたこと。
話しながら、妙な心持ちがした。この子と、こんなに長く話すのは初めてかもしれない。孫と何を話せばいいのか、私はずっと分からずにきた。話す言葉は、いつも佳代が持っていたからだ。運動会も、進級も、反抗期も、私は妻の言葉の後ろで頷いていればよかった。仏壇の写真の妻が、笑ったような気がする。お前さん、孫と話が続いてるじゃないの――そういう顔だ。
「なにそれ。じいちゃん、すごい人じゃん」
「すごくはない。図面の通りに掘るのは現場の人で、私は線を引いただけだ」
「その線の通りに水場があったんでしょ。もったいないよ。ねえ、じいちゃん専用のアカウント作ろうよ! アカウント名は……うーん……」
翔真は返事も待たず、私の道具箱を勝手に開けた。桐の箱の中で、年季の入った道具たちが油紙に包まって眠っている。孫の指が、黒い柄の製図ペンをつまみ上げた。
「これ何? ピンセットの親玉?」
「烏口。線を引く道具だ。二枚の刃の間にインクを含ませて、カラスのくちばしみたいな先で引く」
「烏口。いいじゃん、それで」
こうして私は「烏口」になった。フォロワーは九人。九人のうち三人は翔真と千夏と、なぜか千夏の夫である。娘婿は何も言わないが、律儀に全部の書き込みを読んでいるらしい。
その夜、久しぶりに烏口を研いだ。刃先を光にかざすと、まだ真っ直ぐに立っている。道具は、手入れをやめた日から死ぬ。迷宮も、同じである。
それから、毎晩の巡回が日課になった。
夜九時、縁側の座椅子。老眼鏡。湯呑み。タブレットの中の第七。配信者という若者たちは、実によく潜る。そして実に、何も知らずに潜る。見ていると、口ではなく指が動くのだ。
十九層の配信者が、隔壁の扉が開かないと騒いでいた。
「蝶番ではなく、敷居の砂です。扉の下の溝を掃いてから引いてください」
開いた。『開いたんだけどw』『扉に詳しいおじさん来た』。
十四層の配信者が、床から生えた金属片を「レアな鉱石かも」と抜こうとしていた。
「それは測量の基準鋲です。迷宮の産物ではなく、人間の道具です。持ち帰らないでください」
鋲は床に戻された。『点検おじさんまた来てる』『敬語が味』。
二十層の考察配信が、古い鉄格子の奥を「開かずの扉」と呼んで盛り上がっていた。
「格子の奥は、公団が休眠処理した落とし戸です。開けないでください。点検日は毎月第三月曜でした――三年前までは」
配信者は面白がって、自撮り棒の先の小型カメラを格子の隙間へ差し込んだ。奥の床に、岩ではない直線が映る。鉄の枠。太い蝶番。『うわ、マジで戸だ』。開けなかったのは、賢明である。
コメント欄が一拍止まり、それから流れが速くなる。『最後の一言こわい』『三年前に何があったんだよ』『烏口構文すき』。
構文、と呼ばれるようになったらしい。点検記録の書き方しか知らないのだから、仕方がない。翔真には「フォロワー増えないね」と笑われた。増えなくていい。書いた先で誰かが立ち止まれば、点検記録は仕事を終えている。
朝、起きる理由ができるというのは、妙なものだ。目が覚めて、今日はどこの層の配信があるかと考える。雨戸を開ける手が早くなり、茶を冷める前に飲むようになった。妻を送ってから二年、初めてのことである。仏壇の鈴を鳴らして、今日も行ってくる、と胸の内で言う。行き先は縁側の座椅子だが、それでも行き先は行き先だ。
ある晩、見慣れない書き込みが烏口のアカウントに届いた。
「ノギスと申します。貴殿の書き込みを集計しています。本日時点、言い切り十七件、的中十七件。継続を希望します」
箇条書きめいた、定規で引いたような文だった。烏口にノギスとは、道具箱が揃っていくらしい。
私は「ご安全に」とだけ返した。公団と、その後の子会社の朝礼で、三十七年使った挨拶だ。ほかに気の利いた言葉を、私は知らない。翌日、その四文字の返信が『尊い』と騒がれていて、若い人の言葉の使い方は、よく分からない。
週間予報は、木曜から大雨である。
その夜の巡回で、二十六層の配信の画面の奥――壁の水染みが、嫌な形をしていた。扇形に、下へ開いている。染みの縁が、まだ濡れて光っている。あれは上から来ている水だ。
私は老眼鏡を押し上げ、染みの形を野帳に写した。三十七年、そうしてきた手つきのままに。




