1. 行き止まりです
「安全第一は、時代遅れです」
三年前、本社の会議室で、私より二回り若い役員がそう言った。よく冷えた部屋で、配られた資料の表紙には「レガシー資産の整理について」という題字が並んでいる。レガシー。遺産。四十年、山の腹の中で人を死なせないために引かれてきた線の束は、その横文字一つに畳まれている。
異論は、出なかった。設計部門は廃止。図面は資産管理部の預かり。私は段ボール一箱を抱えて、三十七年勤めた職場を後にする。箱の中身は湯呑みと、製図の道具と、妻の写真立てだけである。三十七年は、箱一つに納まった。
あの日から、私の午後は静かだ。
六月の縁側には、雨上がりの匂いが満ちていた。軒先の紫陽花が重たげに揺れて、葉先の水滴が光る。妻の三回忌を先週済ませて、家の中の用事が尽きた。湯呑みの茶が冷めていく速さだけが、今日の予定である。妻の佳代がいた頃は、茶が冷める前に必ず誰かの声がした。いまは、冷めてから気づく。
「じいちゃん、これ見て。モグって人の配信」
孫の翔真が、麦茶を勝手に注いで、タブレットを膝にのせて隣に座った。中学一年になる。娘の千夏が夕飯を作りに来る日は、こうして宿題を持ったまま縁側に流れてくるのだ。
画面の中は、暗い坑道だった。ヘッドライトの丸い光が岩壁を舐めていく。
『どうも、モグです。本日はですね、登録者三百人記念、ついに、第七迷宮の自然区画に挑みます』
若い男の声が弾んでいる。画面の隅に、小さく「八十二」と数字が出ていた。
「この数字は何だ」
「同接。いま見てる人数。モグさん、いっつもこれくらい」
八十二人。翔真は「弱小」と笑うが、私は別のものを見ていた。
ヘッドライトが撫でた岩壁。ノミの跡が、右上がりに揃っている。あれは手掘りの癖だ。機械の入らない狭さで、右利きの削岩手が上から刻んだ跡である。
――知っている壁だ。
十二層の旧作業支坑。三十九年前、見習いだった私が巻き尺と野帳で測った道だ。巻き尺の金物が岩に当たる硬い音や、坑内の、土と水と石の粉が混ざった冷たい匂いまで、体のほうが先に思い出す。いまは「手つかずの自然迷宮」の看板で客を入れているらしい。手つかずも何も、あそこは人が掘って、人が埋めた穴なのだ。
『えー、分かれ道です。左、行ってみましょうか。なんか奥が広そうなんだよな』
左。
左は駄目だ。あの先は袋小路で、突き当たりは埋め戻しの盛土になっている。しかも今日は雨上がりで、あの天井の上には沢筋が通っている。緩んだ天井の下で、行き止まりに突き当たる――素人が一番死ぬ形である。
気づいたら、孫のタブレットを取り上げていた。
「じいちゃん?」
「打ち方を教えなさい。早く」
人差し指の一本打ちで、私は生まれて初めてコメントというものを書いた。
「左は行き止まりです。三十九年前に埋め戻しました。右へ十五分で水場があります。根拠: 右壁の高さ一・二メートルに埋め戻しの銘板。ご確認ください」
送信すると、画面の端を私の文字が流れていく。名前の欄は「しょーま」。孫の名前で、点検記録である。
『なんだこのジジイw』『しょーまくん、おじいちゃん借りてきたの?』『埋め戻しましたってなんだよ』
流れる文字は容赦がない。だがモグは、分かれ道の前で足を止めている。
『三十九年前って、具体的すぎて逆に怖いんですけど……ちょっとだけ、右、見てみます?』
ライトが右の坑道へ入る。私は湯呑みを持ったまま、冷めた茶を飲むのも忘れていた。隣で翔真が、私の顔と画面を何度も見比べている。
十五分後、画面が明るくなった。岩の窪みに、澄んだ水が溜まっている。ライトの輪の中で、水面が細かく息をしていた。
『水場、ほんとにあった』
声が裏返っている。ライトが壁を舐め、古びた金属板を照らした。モグの指が錆を拭う。読み上げる声が震えている。
『めい、ばん? 「埋戻工事 完了」……うわ、床になんか打ってある。七の、十二の……鋲三四?』
基準の鋲まで見つけたか。いい目だ。あの鋲は、私が二十四の年に打った列の一本である。
コメント欄の流れが変わった。『は?』『ガチのやつじゃん』『しょーまって何者だよ』。八十二人の坑道が、少しだけ騒がしい。
『しょーまさん……じゃないな、たぶん。じいちゃん、あんた何者ですか?』
私は答えなかった。タブレットをそっと翔真に返し、冷めた茶を飲む。
何者ということもない。ただの、隠居した年寄りである。
――だってあれは、私が掘った迷宮だ。
誰にも言わずにそう思うくらいは、許されるだろう。
湯呑みを置くと、翔真がこちらをじっと見ていた。台所から千夏の「ご飯よ」という声がして、それでも孫は目をそらさない。
「じいちゃん。今の、どういうこと?」




