29. 名前
工事が終わって、制度のほうが動き出した。
ディグリードに「保安設計室」が正式に新設される。仮の一字が取れた。室員は十二名、来年度は十八名。整備予算は三年前の水準まで戻り、公団OBの再雇用枠が五つ設けられる。
監督局も動いた。年次保安報告の書面審査に、実地の確認が加わる。保安室は六人から八人になり、十七のうち三つを毎年選んで実地に入る――重点抽査という。要領には、こう書かれている。点検の実施状況は、現地で確かめる。
担当は、あの若い技官である。
「異動、断ったんですか?」
私が訊くと、技官は少し笑う。
「断りました。……第七の担当、やりたかったので」
「一人でやると、一人で潰れますよ」
「そのときは、烏口さんに書いてもらいます」
この人は、こういう冗談を真顔で言う。
◇
瀬川が封筒を持って縁側に来たのは、十二月の初めだった。
「保安設計室長を、お願いしたい」
私は、封筒を開けずに返す。
「やりません」
「……理由を、うかがっても?」
「線を引くのは、若い人がやることです」
湯呑みを、両手で包む。
「三十七年ぶんの図面は、もう頭の外に出しました。野帳も渡してあります。ここから先、第七に要るのは私の線ではない。……私は、検める側でいます」
「検図係、ということですね?」
「非常勤で。週に二日」
瀬川は、しばらく黙っていた。それから、封筒を鞄に戻す。
「……真柴さんらしい」
「褒めていますか?」
「褒めています。二度目です」
一度目がいつだったかは、訊かなかった。たぶん、あの羊羹の夜である。
◇
妻の墓に行ったのは、その週の日曜だった。
水をかけ、花を替え、線香を上げる。ここへ来るのは、いつも五分で済んでいた。話すことが、無かったからだ。
今日は、少し長くなる。
「佳代」
石は冷たい。冬の墓は、そういうものである。
「あんたに任せきりだった孫と、チャンネルをやることになった」
言ってから、自分で照れて、咳をした。年寄りが咳をするのは便利である。たいていの間が、それで持つ。
「配信、というやつだ。……いや、分からんだろう。私も、半年前まで分からなかった」
風が、線香の煙を横へ流していく。
「翔真が、機械を全部やる。私は庭を映して、第七の映像を見て、それで終わりだ。誰も見んと思う」
――そう言いながら、私は少し楽しみにしている。
それは、墓の前で言うには、少し照れくさい。
「あんたのいない六月から、二年半だ。……朝、起きる理由が、また出来た」
しばらく、手を合わせている。
「……また来る」
◇
家に戻ると、縁側に段ボールが積んであった。
三脚。照明。マイク。翔真が床に座り込んで、配線を引いている。
「じいちゃん、遅い」
「墓に行っていた」
「ばあちゃんに報告した?」
「してきた」
孫が、配線から顔を上げる。
「なんて?」
「……孫と、配信をやることになった、と」
孫は「よし」と言って、三脚を立てた。
「じいちゃん。初配信、明日の朝ね」
「明日か」
「明日。朝の光がいいんだって。母さんが言ってた」
私は縁側に座って、庭を見る。
紫陽花は葉を落として、枝だけになっていた。剪定をしなければならない。妻がやっていた仕事である。




