30. 今日の点検
朝の光が、縁側の板の間に落ちている。
三脚の上で、小さなランプが赤く点く。
「はい、始まった。じいちゃん、なんか言って」
「……何を言えばいいんだ?」
「挨拶」
私は、カメラを見る。
「おはようございます。烏口です」
画面の隅に、同接の数字が出ていた。
十二。
「本日から、この時間に、庭の手入れと、第七の定点の映像を見ます。それだけの放送です。何も起きません」
翔真が、横で吹き出した。
「宣伝が下手すぎるって」
「嘘は言えん」
◇
紫陽花の枝を、鋏で落としていく。
どこで切るかは、決まっている。花のついた枝は、二つ目の芽の上。来年の花は、そこから出る。
三十七年、私は同じことをしてきた。どこで切るか、どこを残すか。残したものが、次の年に効く。
『枝の切り方、丁寧すぎて草』
『じいちゃんの手つき、検図してる手だ』
「――失礼。剪定にも、確度があります」
『出た』
『烏口構文だ』
鋏の音が、二つ三つ続く。
『【所見】この枝は切ってよい。根拠: 芽が二つ』
同接が、三十を超えている。
◇
昼前に、モグが来た。画面の中に、である。
『おはようございます! 記念すべき初回に一番乗りしたかったんですけど、寝坊しました』
「四番目です」
『四番!』
『モグさん、四番』
大峰が入ってくる。ノギスが入ってくる。
「視聴を開始した。以上」
OB会の爺たちが、順に入ってくる。
「庭が映っとる」
「紫陽花か。うちのは去年枯らした」
「切りすぎだ。切りすぎると来年出ん」
「二つ目の芽の上で切っています」
「なら、いい」
瀬川が来た。ハンドルを隠していない、本名である。
昼過ぎに、見覚えのある名前が流れた。あの中堅六人隊のリーダーだ。
『あの夜の壕、六人で入りました。あれから毎回、水音を聞いてから潜ってます』
「それが、いちばん嬉しいです」
『こっちのほうが嬉しいですよ。生きてるんで』
◇
午後、第七の定点の映像を出した。
三十六層の放流口。細い水が、静かに落ちている。今日も、落ちている。
『今日も出てますね』
「出ています」
『これ、毎日見るんですか?』
「毎日見ます。何も起きない日を毎日確かめるのが、点検です」
『何も起きないのを見る配信……』
翔真が、画面の数字を指で示す。
『地味すぎて逆に見ちゃう』
同接は、二百を少し超えたところで落ち着いた。
四十二万ではない。二百である。
だが、この二百は、毎朝ここへ来る二百だ。三十七年、私が納めてきたものは、こういう数の中にある。誰も気づかない場所で、何も起きない日が続く。それを、二百人が一緒に見ている。
◇
夕方の光が、縁側を横に伸びていく。
六月の、あの日と同じ光である。
あの日、私は冷めた茶に気づいて、それだけが一日の予定だった。自分はもう終わった人間で、三十七年ぶんの図面は、誰にも読まれない紙になったのだと思っている。
読まれない図面は、ただの紙だ。あの日の私は、そう思っていた。
いまは、隣に孫がいて、画面の向こうに二百人がいて、明日の朝も同じ時間に始まる。
湯呑みに手を伸ばす。
まだ、温かい。
「じいちゃん、そろそろ締めて」
「締める言葉が要るのか?」
「要る。毎回のやつ、決めといたほうがいいって」
私は、少し考えた。
考えるまでもない。三十七年、私はそれしか言ってこなかったのである。
「えーー……」
カメラのほうへ、背筋を伸ばす。
「――本日も、ご安全に」
ぶっきらぼうだとは思うが、これ以外言いようがない。
「お疲れさまでしたー!」
ニコニコ笑いながら翔真が、パチパチと手を叩く。
『88888888』『乙』『ご安全にーー!!』
コメントが画面を流れた――――。




