28. 放流
入坑から十九日目。
養生明けの朝は、よく晴れていた。
通水は、段階を踏む。いきなり毎分八十を通せば、巻いたばかりの覆工が持たない。まず十、次に三十、様子を見て八十へ。
「一段目、開けます」
「どうぞ」
ゲートが、ゆっくり上がる。
音から先に来た。細い、頼りない水の音である。バイパスの音と、あまり変わらない。
「二段目」
「二段目、開きます」
音が太くなる。
毎分三十立米。坑道の空気が動いて、頬に風が当たった。
「……三段目、行きます」
最後のゲートが上がったとき、音は、私の知っている音になる。
二十二年前、仮排水路に水を通した日の音である。あのときは、逃げ場を作るための水だった。今日は、逃がしきるための水だ。
毎分八十立米。
私は目を閉じて、聞いた。
水は、正しい音を立てている。
高すぎず、暴れず、詰まらず。設計の断面を、設計の量が通っているときの音である。三十七年、私はこの音を聞き分けるためだけに図面を引いてきたようなものだ。
『烏口さん、泣いてます?』
「目を閉じているだけです」
『泣いてる』
『泣いていいですよ、今日は』
「……年寄りは、目が乾くんです」
◇
水位が、下がり始めた。
吐きは本設の八十と、バイパスの二十五で、合わせて百五。湧き込みは雨のあとで六十。差し引き四十五が、毎分、山の腹から出ていく。
一日、およそ一・一メートル。
私は測定孔に一日三度テープを降ろし、そのたびに数字が減っていくのを見た。減る数字というものが、これほど気持ちのいいものだとは知らない。
一日で一・一メートル。十二・七メートルを抜くのに、十二日かかる。
その十二日が、いちばん長い。
通水から十二日目、水位はとうとう仮排水路の敷高を割った。二十二年、この山の腹は、あの高さでいっぱいだったのである。
翌朝、鋼扉の前で足が止まる。
軋みが、止んでいた。
二十二年、あの扉は水に押されて鳴り続けている。水面が扉の下まで退いた鉄は、こんなに静かなものらしい。
「瀬川さん」
「はい」
「聞こえますか?」
「……何も、聞こえません」
「それが、正解です」
◇
観光橋から〈大裂け〉を見下ろしたのは、その日の午後である。
三十四層の落ち口は、乾いていた。土砂に埋もれた口の縁に、濁った滲みが残っているだけだ。あの滝は、もう戻らない。
だが、二層下の暗がりに、白いものが見えた。
細い。十メートルの幅も無い。岩壁の陰を伝って、静かに落ちている。
『……あれ、水ですか?』
モグの声が、震えていた。
「新しい放流口です。三十六層。あそこから出て、〈大裂け〉へ落ちます」
『前の滝より、ずっと細いですね』
「そうです。前のは、四十メートルありました」
『ぜんぜん違いますね』
「違います。あれは、あふれていた水です。これは、通している水です」
私は、手すりに手を置く。
「観光の看板には向かないでしょう。……ですが、これが正しい水の通り道です。点検桁が付いていて、人が立てて、詰まれば掻き出せる。二十二年前に、私が作らなかったものです」
コメント欄が、静かになった。それから、ゆっくり流れ出す。
『地味だけど、こっちのほうが好きだ』
『点検できる滝』
『四十メートルの滝より、この十メートルのほうが偉い』
『烏口さん、これ名前つけないんですか?』
「要りません。名前が付くと、人が見に来ます」
偉くはない。ただの、水の道である。
だが、この道は、誰にも見られないまま、二十年でも三十年でも落ち続けることができる。それが、いちばんいい。
◇
帰りに、三十三層へ寄った。
鋼扉の右上の金物を、軍手で拭く。埃が落ちると、三つの名前が出てくる。
石動辰巳。ほか二名。
「辰巳」
誰も聞いていないところで、私は言った。
「あんたの掘った所で、もう誰も死なせなかった」
返事は無い。二十二年、返事は無い。
それでも私は今日、この扉の前に立って、それを言うことができた。言うために、二十二年かかったのである。
軍手を外して、指で日付をなぞる。金属は、あの日より少しだけ温かい気がした。気のせいだ。気のせいでいい。
◇
地上へ出たのは、夕方だった。
ゲートの向こうが、白く光っている。工事を終えて見る、外の光である。
目が慣れると、人垣が見えた。
工事の作業員。黎明の隊員。OB会の爺たち。保安管理課の面々。報道のカメラ。
その先頭に、千夏と翔真が立っている。
娘は何も言わずに、私の作業帽の埃を払った。母親がやっていたのと、同じ手つきである。
「おかえり」
「……ただいま」
翔真が、へへ、と笑う。
「じいちゃん、髭。伸びてる」
「数日、剃っていない」
「めっちゃ現場の人じゃん」
現場の人である。ひと月あまり、そうだった。




