表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
27/30

27. 判

 入坑から十四日目の朝、会社側から提案が出た。


 言い出したのは工事部の課長で、悪い人ではない。声も、申し訳なさそうだった。この人にも工程表があり、上があり、守るべきものがある。


「覆工の養生を、五日から二日に詰められませんか?」


 事務所が、静かになる。


 全員が、こちらを見ている。


 私は湯呑みを置き、それから言う。


「二十二年前、私はそれに判を押しました」


 課長の顔が、強張る。


「先進ボーリングを半分に減らす図面です。工期が足りないから、削れるところを削った。……三人、死にました」


「……真柴さん」


「あなたを責めているのではありません。あのとき削れと言った人も、悪い人ではなかったんです。書類の上では、正しい判断に見えました」


 私は、指を組む。


「養生二日のコンクリートは、設計の強度に届きません。届かないものに、毎分八十立米を通す。通した先で剥がれたら、剥がれた塊が取水口を塞ぎます。……二十二年前と、同じ形です」


「では、どうすればいいんでしょうか?」


「時間を、別のところから作ります」


       ◇


 私は図面を、二十二年前の一枚に替えた。


 鋼扉の詳細図。左下に、口径三百ミリのバイパス管が描いてある。二十二年前、私が「開けておけ」と書き、水路の完成後に「閉じろ」と書いた管だ。


「これを、開けます」


「開けて、どうなるんですか?」


「吐きが、毎分二十五立米。平時の湧き込みと、同じ量です」


 私は白板に線を引いた。


 入る量、二十五。出る量、二十五。


「水位が、止まります」


 事務所の何人かが、息を呑む。


「雨が来て、湧き込みが毎分六十に立ち上がっても、二十五を逃がし続ければ、上がるのは三十五ぶんです。一日〇・八四メートル」


 私は数字を書き足した。


 いまの水位、敷高から一〇・二メートル。限界まで、六・〇メートル。


「六・〇を〇・八四で割って、七日と少し。加速が十六日目からですから、超過は入坑から二十三日目です」


 白板の前で、振り返る。


「通水は、十九日目。……養生を一日も削らずに、四日作れます」


「四日、ですか?」


「四日です」


 瀬川が、鼻から息を吐く。


「弁は、半開までしか回らないと聞いてますが」


「二日前に、全開まで仕上げてもらいました。全開で毎分二十五。設計どおりです」


 整備班の主任が、油の匂いのする手を挙げる。


「座面も直しました。回ります」


 自分でも、少し可笑しくなる。


 二十二年前、水路が完成してこの弁を閉じたとき、私は図面に「撤去」と書かなかった。撤去してしまえば、点検も要らない。維持の手間も消える。


 書かなかったのは、いつか開ける日が来ると思ったからである。


 あのとき削られたもの――掘る前の孔――が三人を殺し、あのとき残したものが、二十二年後の四日になる。


       ◇


 弁を開けたのは、その日の午後だった。


 整備班とOBの手が、四人でハンドルにかかる。錆を落とした弁棒が、軋みながら回っていく。


 半回転。


 鋼扉の下で、水の音が変わった。低く、太い音が、旧作業坑の排水溝へ落ちていく。


 二十二年、閉じていた口が開いている。


「測ります」


 私は排水溝に(せき)板を置かせ、越流(えつりゅう)の高さを読んだ。板を越える水の厚みが分かれば、流れる量が出る。公団の測り方である。


「毎分、二十四から二十六」


「設計どおりですね」


「設計どおりです」


       ◇


 翌朝、私は測定孔にテープを降ろす。


 敷高から、一〇・二メートル。


 昨日と、同じ数字だった。


「止まりました」


 私が言うと、事務所から声にならない声が上がる。上がり続けていた水の時計が、今朝は動いていない。


 翔真からの短い文が、端末に入る。


「じいちゃん、時計止めたの?」


「止まった。私が止めたのではない。二十二年前の管が止めた」


「それ、じいちゃんが付けたやつでしょ」


「……まあ、そうだ」


「かっこよーっ!」


       ◇


 変更図面は、その日のうちに上がってきた。


 バイパス先行開放。覆工の養生五日、完遂。工程の変更なし。


 私は、判を出す。


 三年前、退職の書類に押したのが最後だった判である。朱肉の蓋を開けると、あの赤い脂の匂いが立った。


 二十二年前、私はこの匂いの中で、言い切れないまま押している。


 今日は、違う。


 水位も、流量も、日数も、この手で測った。測って、割って、三度確かめている。分からないところは、分からないと書いた。


 紙に、判を落とす。


 指は、汚れなかった。それでいい。今日の私は、汚れない指で、正しいものを押している。


「――私の計算で、行きましょう」


 自分の声が、思ったより低い。


「……真柴さん」


「はい」


「その一言、二十二年ぶりですか?」


「初めてです。……三十七年、言い切って押したことは、一度もありません」


       ◇


 その夜、最終区画に発破(はっぱ)がかかる。


 硬い岩は、機械では喰えない。二十二年前と同じ場所で、同じやり方で、人は岩を割る。


 仮設事務所の床が、腹の底から一度、揺れた。


 貫通である。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ