27. 判
入坑から十四日目の朝、会社側から提案が出た。
言い出したのは工事部の課長で、悪い人ではない。声も、申し訳なさそうだった。この人にも工程表があり、上があり、守るべきものがある。
「覆工の養生を、五日から二日に詰められませんか?」
事務所が、静かになる。
全員が、こちらを見ている。
私は湯呑みを置き、それから言う。
「二十二年前、私はそれに判を押しました」
課長の顔が、強張る。
「先進ボーリングを半分に減らす図面です。工期が足りないから、削れるところを削った。……三人、死にました」
「……真柴さん」
「あなたを責めているのではありません。あのとき削れと言った人も、悪い人ではなかったんです。書類の上では、正しい判断に見えました」
私は、指を組む。
「養生二日のコンクリートは、設計の強度に届きません。届かないものに、毎分八十立米を通す。通した先で剥がれたら、剥がれた塊が取水口を塞ぎます。……二十二年前と、同じ形です」
「では、どうすればいいんでしょうか?」
「時間を、別のところから作ります」
◇
私は図面を、二十二年前の一枚に替えた。
鋼扉の詳細図。左下に、口径三百ミリのバイパス管が描いてある。二十二年前、私が「開けておけ」と書き、水路の完成後に「閉じろ」と書いた管だ。
「これを、開けます」
「開けて、どうなるんですか?」
「吐きが、毎分二十五立米。平時の湧き込みと、同じ量です」
私は白板に線を引いた。
入る量、二十五。出る量、二十五。
「水位が、止まります」
事務所の何人かが、息を呑む。
「雨が来て、湧き込みが毎分六十に立ち上がっても、二十五を逃がし続ければ、上がるのは三十五ぶんです。一日〇・八四メートル」
私は数字を書き足した。
いまの水位、敷高から一〇・二メートル。限界まで、六・〇メートル。
「六・〇を〇・八四で割って、七日と少し。加速が十六日目からですから、超過は入坑から二十三日目です」
白板の前で、振り返る。
「通水は、十九日目。……養生を一日も削らずに、四日作れます」
「四日、ですか?」
「四日です」
瀬川が、鼻から息を吐く。
「弁は、半開までしか回らないと聞いてますが」
「二日前に、全開まで仕上げてもらいました。全開で毎分二十五。設計どおりです」
整備班の主任が、油の匂いのする手を挙げる。
「座面も直しました。回ります」
自分でも、少し可笑しくなる。
二十二年前、水路が完成してこの弁を閉じたとき、私は図面に「撤去」と書かなかった。撤去してしまえば、点検も要らない。維持の手間も消える。
書かなかったのは、いつか開ける日が来ると思ったからである。
あのとき削られたもの――掘る前の孔――が三人を殺し、あのとき残したものが、二十二年後の四日になる。
◇
弁を開けたのは、その日の午後だった。
整備班とOBの手が、四人でハンドルにかかる。錆を落とした弁棒が、軋みながら回っていく。
半回転。
鋼扉の下で、水の音が変わった。低く、太い音が、旧作業坑の排水溝へ落ちていく。
二十二年、閉じていた口が開いている。
「測ります」
私は排水溝に堰板を置かせ、越流の高さを読んだ。板を越える水の厚みが分かれば、流れる量が出る。公団の測り方である。
「毎分、二十四から二十六」
「設計どおりですね」
「設計どおりです」
◇
翌朝、私は測定孔にテープを降ろす。
敷高から、一〇・二メートル。
昨日と、同じ数字だった。
「止まりました」
私が言うと、事務所から声にならない声が上がる。上がり続けていた水の時計が、今朝は動いていない。
翔真からの短い文が、端末に入る。
「じいちゃん、時計止めたの?」
「止まった。私が止めたのではない。二十二年前の管が止めた」
「それ、じいちゃんが付けたやつでしょ」
「……まあ、そうだ」
「かっこよーっ!」
◇
変更図面は、その日のうちに上がってきた。
バイパス先行開放。覆工の養生五日、完遂。工程の変更なし。
私は、判を出す。
三年前、退職の書類に押したのが最後だった判である。朱肉の蓋を開けると、あの赤い脂の匂いが立った。
二十二年前、私はこの匂いの中で、言い切れないまま押している。
今日は、違う。
水位も、流量も、日数も、この手で測った。測って、割って、三度確かめている。分からないところは、分からないと書いた。
紙に、判を落とす。
指は、汚れなかった。それでいい。今日の私は、汚れない指で、正しいものを押している。
「――私の計算で、行きましょう」
自分の声が、思ったより低い。
「……真柴さん」
「はい」
「その一言、二十二年ぶりですか?」
「初めてです。……三十七年、言い切って押したことは、一度もありません」
◇
その夜、最終区画に発破がかかる。
硬い岩は、機械では喰えない。二十二年前と同じ場所で、同じやり方で、人は岩を割る。
仮設事務所の床が、腹の底から一度、揺れた。
貫通である。




