26. 工事(二)
入坑から十三日目、九時十二分。
仮設事務所の画面が、白くなる。
坑口のカメラに、土煙が噴き出していた。切羽のカメラは生きていて、こちらは何も起きていない。定点配信に音は無いから、事務所の中で最初に鳴ったのは、坑内電話の呼び出し音である。
瀬川が受話器を取り、二言で顔色を変えた。
「旧作業坑、崩落!! 増し打ちの班が中です!」
「くっ……」
――昨日、私が止めた場所だ。
白い粉と、角の立った割れ。あれを見て、私は通行止めを書いている。運搬の便は迂回へ回り、専門の点検が入り、支保の増し打ちが決まった。そのために入っていたのが、工区班の六名である。
机の縁を、掴んでいた。
「人数と、位置」
「班長以下、六名。九時の入坑記録では、口から二百メートル付近です」
「崩落は?」
「口から六十メートル。……手前が落ちました。六人は、向こう側です」
地図の上でいえば、指二本ぶんの距離である。その二本の間を、土が塞いでいる。
「保安管理課、救助本部を立てます。指揮は課長代理の私」
「烏口さんは?」
「図面を出します。……走るのは、若い人にお願いします」
◇
坑内電話は切れた。無線は岩を回らない。
向こう側の六人が生きているかどうかを、私たちは知らずにいる。
「鋼を、叩いてもらえますか?」
私が言うと、事務所の若い社員が顔を上げた。
「叩く、というのは」
「支保工の鋼を、金づちで三回。それが公団の合図です。生きていれば、三回返ってきます」
「……そんなの、聞いたことないです」
「規程にありました。三年前までは」
言いながら、自分の声が固いのが分かる。
打音の合図は、無線の無かった時代の名残りだ。私が入団した年には、もう古いやり方だった。それでも規程に残っていたのは、電気が死んでも岩は音を通すからである。
保安管理課の若手が崩落面まで走り、鋼を三度叩いた――――。
事務所のスピーカーに、坑内マイクの音が乗る。
三十秒――――。
何も返らない。
「むぅっ……」
私は老眼鏡を外し、拭いて、また掛ける。手が、そういう無意味なことをしたがる。
――返ってこい。
その時だった――――鈍い音が、三つ。
『返ってきた』『三回鳴った』『聞こえた聞こえた』
コメント欄が沸いた。私は、次を書く。
「人数を、打数で返してもらってください。続けて、歩けるなら二回来るはず」
六つ。間。二つ。
「六人、生きています。全員、歩けます」
『よかった』『六人全員だ』『歩けるって』
「もう一度、叩いてください。三回。……返せる者がいる、と向こうに伝わります」
鋼を打つ音が、三つ。
少し置いて、向こうから三つ返ってきた。
事務所の空気が、一度に緩む。
緩んでいる暇は、無い。
◇
「掘って開けるには、何時間かかりますか?」
私が訊くと、工事の主任が首を振った。
「土砂の量が読めません。半日か、二日か」
「半日でも、待てませんか?」
「無い。向こうの空気が、どれだけ保つか分かりません。……別の道から行きます」
私は図面を広げる。三十五層。二十二年前の作業坑の枝道。そして、その先の旧通気坑。
「【所見】三年前の現況図では、崩落の向こう側と、三十五層の旧通気坑が接続していました。根拠: 公団の換気系統第五号。通気坑の下端が、あの枝道に開いていました。確度: 三年前の記録までです。現況は、私には分かりません」
書いてから、必ず添えるべき一行を足す。
「【勧告】通気坑は、退職後に人の手で塞がれている可能性があります。行かれる方は、口が開いていることを目で見てから入ってください。三年前の記録は、記録でしかありません」
八話で覚えたことである。人が造ったものは、人が消す。
OB会の返事が、早い。
「あの通気坑は肩が引っかかる。装備は先に押して通せ」
「風を見ろ。風が来てるなら、向こうは開いてる」
「風が止んでたら入るな。空気が回っとらん」
私は、その三行をそのまま写した。
「いまの三つ、現場へ貼ります」
「貼れ」
「……あんたら、四十年前と同じことを言っとるな」
「同じことしか、言えんのだ」
どれも、図面には書いていないことである。四十年ぶんの現場が、コメント欄に並んでいる。
◇
そして、四十二万人が動く。
『着工三日目の運搬便、九時四十分あたりで分岐が映ってる』
『静止画上げました。口、開いてる』
『十日前の画です。念のため』
ノギスが整理して貼る。
「アーカイブより、当該分岐の口が開いていた画を確認。撮影は十日前。現況の証明ではない。以上」
最後の一文が、この人らしい。
十日前の画である。今日の話ではない。
「開いていた、まではです。行った人が、目で見て確かめること。……十日前の画で人を通したら、私は八話と同じ間違いをします」
私が書くと、大峰の返事が一行で来た。
「行きます」
「装備は」
「二人で、四十キロ。……荷運びで慣れました」
この十日あまり、彼らが運んでいたのは資材である。今日運ぶのは、六人ぶんの帰り道だ。
◇
黎明が先行する。
三十五層の旧通気坑の口は、開いていた。風が、向こうから来ている。
装備を先に押して、肩を斜めにして通る。OBの言った通りだったと、あとで大峰が笑っていた。
『口、開いてます。風、来てます』
「入ってください。装備は先に」
『肩、引っかかりますね。……ほんとだ、爺さんの言う通りだ』
枝道に出たのが、十三時四十分。
六人と合流したのが、十四時五分。
全員が地上に出たのは、十六時十分である。
孤立から、七時間。擦過傷が二名。死者は、無い。
班長が、地上に出るなり言ったそうである。
「叩いたら、返ってきたんですよ。あれで、全員、腹が据わりました」
画面の向こうで、四十二万人が同じ言葉を流していた。
『よかったぁ』『よかったよぉ』『よかった』
同じ言葉が、どこまでも続く。
◇
その夜、私は野帳に三行だけ書いた。
崩落は、止めた区画で起きている。止めていなければ、あの時刻、あそこには運搬の便が通っていた。一日十八便である。
「真柴さん」
瀬川が、隣に立っている。
「あそこには、一日十八便が通っていました。いま入っていたのは、六人です」
「……分かっています」
「顔が、分かっていない顔です」
私は、野帳を閉じる。
分かっている。分かっているが、私が止めた場所へ人を入れる決裁を、私は止めなかった。増し打ちは要る。要ると分かっていて、六人を入れたのである。
安全というものは、いつも誰かを中に入れる。誰も入れずに済む安全は、この世に無い。三十七年、私はそれを承知で線を引いてきた。承知していることと、慣れることは、別だ。
◇
工程は、一日遅れた。
通水は、入坑から十九日目になる。
そして、その夜の予報が変わる。
前線が、二日前倒し。雨は入坑から十四日目。七ツ峰の水は二日遅れて来るから、湧き込みの立ち上がりは十六日目からだ。
私は野帳に線を引いた。
十六日目、水位は敷高から一一・四メートル。残りは四・八メートル。一日一・四四メートルで上がれば、超過は十九日目の朝である。
通水も、十九日目。
――差は、八時間しかない。




