24. 数字
その日の夕方、私は監督局の代表番号ではなく、一枚の名刺の直通にかけた。
「真柴です。実測を、持ってきました」
電話の向こうで、椅子が跳ねる音がする。
「……何時に来られますか?」
「一時間で行けます」
「待ってます」
技官は、それだけ言って切った。
◇
測定の記録は、四枚である。
水位の実測値、三回分。測定の日時と方法。鋼扉の設計水頭。撮影した写真。そして、上昇速度と超過日の算定。
技官は、それを立ったまま読んだ。読み終えると、机の電話を取る。
「室長。真柴さんの実測が来ました。……はい。数字です」
受話器を置いて、こちらを向く。
「起案します。今夜中に」
「一人で、ですか?」
「一人です。二人でやると、二人とも止められますので」
「間に合いますか?」
「規則は、実測を却下できません」
若い技官が、少しだけ笑う。この人が笑ったのを、私は初めて見た。
「却下できないんですよ、ほんとに。そう書いてあるんです」
「……そう書いてあるものを、私は三十七年、信じてきました」
「じゃあ、今回も信じてもらえますか?」
技官は、そこで一度だけ声を落とす。
「……真柴さん。命令だけ出しても、工事は始まりません。掘るものの概略を、明日の朝までに出せますか? 位置と、延長と、断面と、吐き量。それだけあれば、条件付きで認可まで通します」
「引きます」
私は、その場で答える。
「今夜のうちに」
◇
その夜、三年ぶりに製図板の前へ座った。
物置から出した道具箱を、翔真が抱えてついてくる。中身は、烏口と、三角定規と、コンパスと、擦り減った消しゴムだ。
「じいちゃん、いまどきパソコンじゃないの?」
「清書は、若い人がやる」
私は、烏口の刃を布で拭く。
「最初の一本は、手で引く。手で引くと、間違いが手に残るからな」
「間違いが手に残るって、なに?」
「消したところが、指に覚えとして残るということだ。……画面で消すと、消えたことまで消える」
白い紙を留めた。
三十六層相当の高さ。そこから〈大裂け〉の縦穴へ、五百八十メートル。設計吐き量は毎分八十立米――観測された最大が毎分六十だから、余裕を二割以上取ってある。
取水口には、除塵スクリーンを付ける。流れてくる土砂や木片を止める柵だ。そしてその横に、点検桁を渡す。人が立って、詰まりを掻き出せる足場である。
二十二年前、私はこれを付けていない。応急だからと言って、点検できない形で埋めた。その結果が、二十二年後の閉塞である。
私は、桁の線を引きながら、声に出した。
「点検できない構造を、二度と作らない」
烏口の先から、線が出る。真っ直ぐに出た。手は、まだ覚えている。
――問題は、日数だ。
五百八十メートルを、切羽一つで掘れば、日進十四メートルとしても四十日を超える。四十日は無い。
私は、二十二年前の図面をもう一度開く。
あった。仮排水路を掘ったときの作業坑が、三十四層から三十六層にかけて、まだ残っている。埋めていない。埋める予算が下りる前に、工事が凍結したからだ。
私は、その坑を鉛筆でなぞった。
――取り付けば、切羽が増える。
「じいちゃん、線、増えてない?」
「掘る口を、四つ取る」
私は、四箇所に丸を打った。
「三十六層側の坑口から一つ。〈大裂け〉際の旧作業坑から一つ。途中に残っている二十二年前の作業坑から、横に取り付いて、左右へ二つ」
「四か所から掘るってこと?」
「そうだ。一つの切羽で日進十二から十四なら、四つで一日およそ五十三メートル。五百八十メートルを、十一日で貫通させる」
鉛筆の先が、止まる。
二十二年前、あの作業坑を掘れと言ったのは私である。導坑を掘るために掘った、ただの作業用の穴だ。あれが二十二年、埋められないまま残っている。
――辰巳。あんたの掘った穴が、時間を貸してくれるとはな。
「覆工は、掘進の後を追って巻く。最後に、養生を五日」
「よう、じょう?」
「コンクリートが固まるまで待つ日数だ。ここは、待つ以外にやりようがない」
紙の隅に、私は工程を書いた。
掘進十一日。覆工は追いかけ。養生五日。締めて十六日。
◇
監督局が動いたのは、入坑から二日目の朝である。
保安命令。第七迷宮・三十三層以深の入坑禁止。期限は、対策工事の完了まで。
同じ日に、緊急放流工事の認可が下りた。条件付きである――詳細の図面は、着工後に順次提出でよい。概略が先に出ていたから、そういう形が取れた。
『命令出た』『二日で出たぞ』『実測って強いんだな』
コメント欄は祭りだが、私は嬉しくない。二日で出せる命令が、なぜ十七日出せなかったのか。答えは分かっている。誰も測らなかったからだ。
測るというのは、それだけのことである。テープを降ろして、目盛りを読んで、三回やって、紙に書く。誰にでもできる。誰にでもできることを、誰もやらずにきた。
◇
ディグリードの役員会が割れたのは、その日の午前だと聞いている。
瀬川が保安管理課の総意として、直に上げたのだという。あとで本人に聞いた文句は、短い。
「これは営業対保安ではありません。会社の存続の話です」
役員会は、二時間で全面協力を決めている。
謝罪の文は出ていない。代わりに出たのは、予算と重機である。特別対策費、坑内用の小型掘削機二台、二交代の人員、資材輸送の専用便。営業本部長が自分で坑内輸送の段取りを組んだと聞いて、私は少しこの会社を見直している。
人が本気になったかどうかは、言葉ではなく、金と物の動き方で分かるものだ。
◇
「保安設計室(仮)」の看板が、坑口の仮設事務所に掛かった。
仮、の一字が付いているのは、正式な組織にする手続きが間に合わなかったからである。室員は五名。瀬川と、整備子会社から戻った若手が二名と、OB会から出てきた元・軌道班の爺と、私。
私の肩書きは、無い。
「非常勤の外部協力者、で通します」
「それで結構です」
「本当は、室長でお願いしたいところですが」
「肩書きは、水を止めません」
瀬川は少し笑って、看板の傾きを直した。
◇
詳細の図面は、若手二名が引く。私は、その線を検める側に回る。
「……じいちゃん、昨日の線、めっちゃ速かったね」
翔真が、製図板を覗き込んでいる。
「線を引くのは、速さではない。止めるところで、きちんと止まることだ」
私は、鉛筆を置いた。
工程は、昨夜の紙のまま通っている。
「養生は、五日取ります」
「詰められませんか?」
「詰めません。そこは、詰めるところではありません」
着工は、認可の出たその日の午後。覆工の養生五日を含めて、通水は入坑から十八日目。前線の予報は入坑から十六日目に雨、湧き込みの立ち上がりは十八日目からになる。
余裕は、二日と半日である。
薄い。薄いが、削らずに済む厚さだ。
◇
着工の午後、坑口に人が並んだ。
工事の作業員、黎明の隊員、OB会の爺たち、保安設計室の五人。全部で三十人ほどである。
瀬川が、前に立つ。
「本日より、第七迷宮・緊急放流工事に着手します。工期十六日。作業は二交代」
言葉を切って、深く息を吸う。
「――ご安全に」
「ご安全に」
三十人の声が、坑口の岩に反響した。
四十年前、私が二十三で初めて聞いた挨拶である。三年前、この山から消えた挨拶でもある。挨拶というのは不思議なもので、人が声を揃えた瞬間だけ、そこが現場になる。
喉の奥が、また熱くなった。年を取ると、涙腺だけが若返るらしい。
仮設事務所の画面に、配信の窓が開く。定点カメラが坑口を映していた。タイトルが、そこに出る。
『第七迷宮・緊急放流工事』




