23. 入坑
十月二十七日、月曜、午前八時十分。
セブンスパーク七ツ峰・第三ゲート。
入坑証を機械にかざすと、電子音が高く鳴った。三年前と、同じ音である。ゲートの向こうの空気の匂いまで、同じだ。冷たくて、金気を含んで、少し埃っぽい。
この匂いを、私は三十七年、毎朝吸っていた。
「真柴さん、大丈夫ですか?」
モグが、私の顔を覗き込む。
「歩けます」
「顔、白いですけど」
「これは生まれつきです」
嘘ではない。ただ、膝の裏に力が入りすぎているのは自分でも分かっていた。
同行は六人。瀬川と、保安管理課の若手が一人。私とモグ。黎明から大峰と、若手が一名。
「うちの記録係です。測るのは真柴さん、書くのはこいつ。会社の点検は、そういう形になります」
二十代の社員が、記録用紙を挟んだ板を抱えて頭を下げた。会社の点検として残すには、社内の人間の字が要る。
「志願してきまして」
大峰が、小さく言う。
「連れて行かないほうが、たぶん危ないです。こいつ、勝手に来ますから」
若手は、あの十九歳だった。ヘルメットの顎紐を、こちらの手つきを見ながら締め直している。
「……粉、見ます」
「見てください。今日はそれが、あなたの仕事です」
「……はい」
「返事は、大きく。坑内では、聞こえないほうが危ない」
「はいっ」
◇
昇降機で、三十三層まで一気に下りる。
耳の奥が詰まり、飲み込むと抜けた。この感覚も、体が覚えている。
扉が開いた瞬間、私は思わず声を漏らした。
――荒れている。
主坑の壁面に、錆汁の筋が幾筋も垂れている。支保工の継ぎ手が、茶色く泣いていた。床の側溝には土砂が溜まり、水がその上をだらしなく走っている。壁の点検票を照らすと、最終記入は四年前の日付だった。
三年で、こうなる。
人の手が離れた坑道は、たった三年で、こういう顔になるのだ。私が三十七年かけて押し戻していたのは、この顔である。押し戻していた間、誰もそれに気づかない。気づかれないことが、私の仕事の出来栄えだった。
「……真柴さん」
瀬川の声が、後ろで詰まる。この男も、実物を見るのは初めてなのだろう。書面で審査していた「実施予定」の四文字の、これが現物である。
「言葉に、しなくていいです」
私は、先に歩き出す。
「見たものを覚えて帰ってください。それが、点検です」
「……三年前は、こんなじゃなかったんですか?」
「三年前は、側溝に土砂は溜まっていません。錆汁も、拭いてありました」
「拭くんですか、あれ」
「拭きます。拭けば、次に垂れた分が分かる」
◇
旧作業坑を三百メートル。突き当たりに、それは立っていた。
鋼扉である。
高さ二・五メートル、幅二メートル。二十二年前、私が図面に描いた通りの形で、そこに立っている。錆はひどいが、歪んでいない。溶接の脚も、まだ生きていた。
扉の右上に、小さな金物が留めてある。
照明を当てると、三つの名前が浮かんだ。
「……名前が、彫ってあります」
モグの声が、小さくなる。
石動辰巳。ほか二名。二十二年前の夏の日付。
誰が付けたのかは、知らない。工事凍結のあと、誰かが自分の金で作らせたのだと思う。公団の様式ではないからだ。
私は、手袋を外した。
指で、その名前をなぞる。金属は冷たくて、指の腹が張りついた。二十二年、この三人は、誰も来ない坑道の壁で、水の音だけを聞いていたことになる。
「……遅くなった」
誰も、何も言わない。モグが記録用のカメラを、そっと下ろす音だけがした。
◇
「測ります」
私が言うと、全員の背筋が伸びる。
鋼扉の下部に、水位測定孔がある。指の太さほどの管で、栓が捩じ込んである。
瀬川が工具を掛けた。錆で固まっている。
「回りますか?」
「回します」
金属の悲鳴のような音がして、栓が緩んだ。中から、湿った空気が細く抜けてくる。
――生きている。息をしている音だ。
測深テープを降ろす。錘が水面に触れると、手元のブザーが短く鳴る。
鳴った。
「読みます」
目盛りを読む。三年ぶりの手つきなのに、指のほうが先に動く。
「一回目。敷高から、一・八〇」
テープを巻き上げ、もう一度降ろす。
「二回目。一・八〇」
「三回目、お願いします」
瀬川が言うので、私はもう一度降ろした。同じ値である。
「水位は、仮排水路の敷高より、一・八メートル上です」
瀬川が、記録用紙に書き取る手を止める。
「……敷高より上、というのは」
「あふれ口が、死んでいるという意味です」
私は、扉の面に手を当てた。厚い鋼板の向こうで、水が押している。手のひらに、震えのような何かが伝わってきた。気のせいかもしれない。気のせいでないほうに、私は賭ける。
「この扉の設計水頭は、敷高から一六・二メートル。残りは、一四・四メートルです」
「……真柴さん。それ、あとどれくらい保つんですか?」
大峰が訊いた。
「昇降機の中で計算します。ここで出した数字は、あとで必ず間違えます」
◇
バイパス管の弁は、扉の左下にある。
口径三百ミリ。二十二年前、私が「開けておけ」と書き、水路の完成後に「閉じろ」と書いた弁だ。
ハンドルに手を掛ける。動かない。
大峰と若手が加わって、三人で回した。それでも、動かない。
「錆着です」
私は、手を離す。
「芯が生きているかどうかは、ここでは分かりません。分解して、中を見ないと」
「開けば、どうなるんですか?」
大峰が訊いた。
「毎分二十五立米、逃がせます。……平時の湧き込みと、同じ量です」
「入る量と、出る量が同じ」
「そうです。時計が、止まります」
◇
地上へ戻る昇降機の中で、私は野帳を開く。
鉛筆の芯は、震えていない。それが自分でも意外である。
水位、敷高+一・八メートル。限界まで一四・四メートル。
平時の湧き込みは毎分二十五立米。この山の腹は、水位が一メートル上がるのに約六万立米を要する。毎分二十五立米は、一日で三万六千立米。割れば、一日〇・六メートル。
――素で保って、二十四日。
だが、素では済まない。
秋雨前線の予報は、十六日目に雨。七ツ峰の水は、二日遅れて来る。十八日目から湧き込みは毎分六十立米まで立ち上がり、上昇は一日一・四四メートルになる。
十八日目の水位は、一二・六メートル。残りは三・六メートル。一・四四で割れば、二日半。
鉛筆が止まった。
「瀬川さん」
「はい」
「掘ります。三十六層相当の高さから、〈大裂け〉へ。五百八十メートル」
私は、野帳の余白に断面を引く。
「二交代なら、覆工――掘った穴の内側にコンクリートを巻く工事です――の養生も入れて十六日。決裁と発注に二日として、通水は十八日目です」
顔を上げる。狭い箱の中で、四人がこちらを見ていた。
「通水は十八日目。超過は二十日目の夜。……余裕は、二日と半日だ」
昇降機が、地上に着く。
扉が開き、十月の光が目を刺した。三年ぶりに坑内から出てきた目には、外の秋がやたらに明るい。
私は作業帽の鍔を下げて、それから言った。
「――図面を引く。最後の図面だ」




