22. それでも
翌朝から、外堀のほうが先に動き始めた。
ノギスがwikiに新しい頁を作る。
「【避難計画・民間版】鋼扉が抜けた場合の想定水路と、各層の退避壕の位置を整理する。烏口氏の公開情報のみで構成。会社の設備配置図は使用しない。以上」
黎明は、三十三層以深の予約を全部返した。返した週末、大峰は隊の全員を連れて三十四層より上の壕を回っている。
『扉、開きます。中に毛布六枚。点検票の最終記入、四年前』
『こっちの壕、扉の下に砂です。蹴ったら開きました』
『輪が手前になってる毛布、初めて見ました。ほんとに一発で広がる』
OB会も動く。爺たちは二種の免許で入れる範囲を手分けして、壕の扉を片っ端から開けて回っている。
「壕を四十二、開けた。開かなかったのが三。番号は書いておく」
「これ、点検になるんじゃないのか?」
「点検になります」
私が返すと、コメント欄が沸いた。この言葉は、いつのまにか合言葉のようになっている。
誰も、命令されていない。命令する権限を、誰も持っていないからである。
権限のない場所で、人が勝手に安全を作り始めている。三十七年、私は権限のある場所で、それを作ってきた。どちらが強いのか、私にはまだ分からない。
◇
瀬川から電話が来たのは、土曜の夜である。
「決裁、取りました」
声が、いつもより低い。
「保安点検です。三十三層・未成線坑口周辺。目的は保安設備の現況確認。同行者は、外部協力者を含みます」
「……外部協力者、ですか?」
「真柴さん、モグさん、黎明から二名。それと、うちの若いのを一人、記録係で付けます。会社の点検ですから、社内の人間が測って書かないと、あとで数字が使えません。……全員、私の名前で入れます」
私は、受話器を持ち替えた。
「あんた、これ、通ったのか?」
「通してません。決裁したのは、俺です」
言い方が、あまりに平らである。
「保安管理課の権限で出せる書式なんですよ、これ。出せる書式で、出しました。役員に上げれば止まります。上げないで出した。……あとで何か言われたら、そのときです」
二十二年前、私も判を押している。押してはいけないものに、押した。
この男は、押していいのかどうか誰も答えてくれない書式に、自分の判を押している。同じ形の道具が、まるきり逆の向きに使われている。
「瀬川さん」
「はい」
「私が測ったら、それはあんたの首を賭けた数字になります」
「賭けてません」
電話の向こうで、椅子が軋む。
「賭けたんなら、俺は真柴さんに『気をつけて』としか言えません。……俺は、点検に行くんです。課長代理として、外部協力者と一緒に。それだけです」
この男の声は、決めたあとのほうが静かになる。羊羹を提げて縁側に来たあの夜も、同じ声だった。
◇
家に、話をする。
千夏は味噌汁の鍋を火から下ろして、そのまま黙っている。それから、振り返らずに言った。
「反対」
「うん」
「六十三でしょう。三年、坑道に入ってないでしょう。心臓も膝も、二十年前と違うでしょう?」
「違います」
「違うって分かってて行くの?」
私は、湯呑みを持ったまま答える。
「測れる人間が、私しかいないので」
「そういう言い方、ずるい」
千夏の肩が、震えていた。
この子は、母親の入院のときも同じ立ち方をしている。台所で、こちらに背を向けて、鍋のほうを見たまま話す。泣き顔を見せない練習を、いつのまにか覚えた娘である。その練習をさせたのは、たぶん私だ。
「じいちゃんはさ」
箸を止めていた翔真が、静かに言った。
「三十七年、それが仕事だったんでしょ」
千夏が、振り返る。
「翔真!」
「だって、そうじゃん。母さん、じいちゃんの仕事の話、聞きたいって言ったじゃん。……仕事って、こういうことでしょ」
中学一年が、こういうときにいちばん残酷で、いちばん正しい。
台所が、しばらく静かになった。
換気扇の音だけが回っている。千夏は鍋の蓋を戻し、それから言う。
「条件があるわ」
「聞く」
「モグくんと、黎明の人たちと、瀬川さんが一緒なら。……お父さん一人で行くのは、絶対に許さない」
「約束する」
「あと」
娘は、そこで初めてこちらを向いた。目が赤い。
「帰ってきたら、ちゃんとごはん食べて。作っとくから」
◇
出発の前夜、私は物置で装備を並べた。
長靴。革の手袋。巻尺。照明。記録用紙と鉛筆。水位を測る測深テープ――錘のついた巻尺で、水面に触れると手元が鳴る仕掛けのものは、瀬川が会社の倉庫から持ってくる。私の道具は、もう会社にはない。
仏壇の前を通ったとき、私は少しだけ立ち止まる。
写真の中の佳代は、あの日と同じ顔で笑っている。三十七年、私が現場から帰るたび、この人は玄関で「ご飯できてるわよ」と言った。危ない仕事だと知っていて、一度も止めなかった人である。止めない代わりに、必ず、帰ってから食べるものを用意していた。
「……行ってくる」
返事はない。返事がないことに、まだ慣れない。
◇
朝が来た。
玄関の土間で、私は作業帽をかぶる。
四十年前に配られたそれは、頭の形をまだ覚えていた。顎紐を引くと、耳のすぐ下で、かちり、と留め具が鳴る。
この音を、私は三十七年、朝ごとに聞いていた。鳴った瞬間に背筋が伸びるのは、体のほうが先に仕事の顔になるからである。
「じいちゃん」
翔真が、玄関に立っていた。まだ制服のシャツのボタンが半分しか留まっていない。
「なんだ」
「かっこいいとか、言わないから」
孫は、鼻の頭を掻く。
「ちゃんと帰ってきてよ」
「ご安全に、と言いなさい」
「……ご安全に」
私は、戸を開けた。




