21. 裁定
監督局の会議室は、思ったより狭かった。
長机がコの字に並び、正面に保安室の面々が四人。右手にディグリードの席。傍聴席は三十ほどで、後ろの壁際に中継のカメラが二台立っている。公開ヒアリングというのは、要するに、誰でも見られる会議のことである。
十月二十三日、木曜の午後二時。
窓のない部屋は、空気まで書類の匂いがした。蛍光灯が一本、細かく明滅している。誰も直さないのだろう。役所の蛍光灯は、たいてい誰かの担当ではない。
私は書類の束を膝に置いて、自分の番を待つ。
三十七年、私は書類を出す側だった。書いて、判をもらって、決められた場所に置いてくる。中で誰がどう読むのかは、知らずに済んでいる。
今日は、読まれる側である。
『始まったぞ』『同接、二十万超えてる』『烏口さんネクタイしてる』
ネクタイは、今日は千夏に締めさせた。四十万人に初対面するにはネクタイでは足りないが、役所に行くならネクタイが要る。そういうものだと、この年になれば分かる。
「では、意見書提出者の真柴さん。ご説明を」
私は立ち上がり、一度だけ息を吸う。
「元・迷宮公団第七設計課、真柴勲と申します」
◇
「【所見】三十四層の大瀑布は、自然の滝ではありません。二十二年前、三九工区の出水に対する応急として掘られた、仮排水路のあふれ口です。根拠: 全長四百メートルの人工水路の下流端であること。設計図の原本は、こちらの書庫にございます」
保安室長の眉が、わずかに動く。
「【所見】十月十七日、その滝が止まりました。観測の記録を申し上げます。落ち口の水の掛かりは、九月末の五と半から、二週間で三と半へ落ちております。去年の同じ週は六でした。雨は二日遅れて参りますので、雨の二日後を除いて並べ直しても、下がり方は変わりません。そのあいだ、同じ山の湧きを三箇所測っておりますが、いずれも測り方の誤差の内で三年前と同じ量です。五層のみ一秒遅く出ておりますが、測り手の癖の範囲です。落ち口からは、濁った水が滲んでおります。濁りは、土砂が動いている印です」
私は、図を一枚めくる。
「……ここから先は、私の推定になります。この観測の範囲では、季節の渇水だけで説明するのは難しいと考えております。山の水が減ったのではなく、あふれ口のほうが土砂で塞がったのだと、私は考えております」
「吐き口を失った水は、斜坑の中で水位を上げます。上がった先にあるのが、三十三層の鋼扉です。あれは応急の設備で、設計の水頭は敷高から一六・二メートル――扉が受け止められる水の高さのことです。それを超えれば、抜けます」
「抜けたら、どうなりますか?」
技官のひとりが訊いた。
「三十三層の旧作業坑網から連絡坑を通って、三十四層以下の整備区画へ鉄砲水が出ます。一種の方々の主な活動域です。……二十二年前と同じ形の出水が、今度は数百人の頭の上で起きます」
部屋の空気が、少し重くなる。
私はそこで、書式を変えた。
「【勧告】三十三層以深の閉鎖と、緊急の放流工事をお願いします。判断の根拠は、いま申し上げた三点です。ただし、どこが、いつ抜けるかを名指しする根拠は、私にはありません。これは事実の言い切りではなく、安全側の判断です」
◇
ディグリード側の反論は、丁寧である。
「弊社としても、安全は最優先に考えております。ただ、三十三層以深を閉鎖いたしますと、一種をお持ちの探索者の主な稼ぎ場が止まります。登録者はおよそ三千名。燐珠の流通も止まります」
営業本部の担当者は、私のほうを一度も見ない。見ないことが失礼なのではない。見れば、話がややこしくなるからだ。この人にも守るべき数字があり、それを守るのがこの人の仕事である。
「加えまして、真柴さんのご説明の根拠は、三年前までの図面と、映像から目分量で読んだ数値かと存じます」
保安室長が、書類をそろえる。
「真柴さん。確認します。あなたのお持ちの根拠は、三年前の図面と、素人の観測網ですね?」
私は、答えるまでに二秒使った。
「そのとおりです」
『は?』『認めるなよ』『ここは押すとこだろ』
コメント欄が荒れているのが、見なくても分かる。
だが、そのとおりなのだ。私は実測を持っていない。持っていないものを持っていると言えば、私は三十七年で一度もやらなかったことを、四十万人の前でやることになる。
嘘を一度つけば、次に本当のことを言う日、誰も聞かない。
「意見書の趣旨は、了解しました」
室長の声は、事務的である。
「ただ、実測のない状態で、数千名の生計に関わる閉鎖命令を出すことはできません。本件については、運営会社に自主的な点検を求めるにとどめます。……以上です」
木槌は鳴らない。役所の会議は、そんなに芝居がかっていない。
却下は、静かに終わった。
◇
廊下に出ると、コメント欄が燃えている。
『四十二万人が見てたのに』『じゃあ死人が出るまで待つのか』『役所は腐ってる』
私は壁際で端末を出し、一行だけ打つ。
「あの方々の言っていることは、正しいです」
『は?』『烏口さん?』
「実測のない紙で人の生計を止めれば、次に本当に止めるべき日に、誰も紙を信じません。規則は、そういうふうにできています。……悪いのは規則ではなく、実測を持っていない私です」
打ちながら、指先が冷たくなっていた。
私は今日、誰かに止めてもらうつもりでここへ来たのである。専門家が数字を並べれば、しかるべき人が動いてくれる。そう思う程度には、私はまだ組織というものを信じていたらしい。
三十七年、私を守ってきたのは規程だった。規程が私を守るということは、規程が私を止めることでもある。今日、止められた側に回って、私はそれを腹の底で知った。
――止められるのは、私だ。
六十三歳の、無職の年寄りである。
背中を叩かれたのは、そのときだった。
「真柴さん」
振り返ると、二十代の後半くらいの男が立っている。会議室でずっとメモを取っていた技官だ。四人のうち、最後まで手を止めなかったのが、この人である。
「名刺、お渡ししていいですか?」
「……頂戴します」
差し出された紙には、監督局・保安室・技官、とだけ刷ってある。
「さっきの結論は、変わりません。俺の一存では、どうにもならないので」
早口だった。廊下の先を気にしている。
「でも、これだけ言わせてもらいます」
技官は、私の目を見た。
「規則は、実測を却下できません」
名刺を持つ指に、力が入る。
「実測を、持ってきてください。持ってきていただければ、俺が起案します」
◇
その夜、コメント欄に、いつもと違う形の書き込みが並んだ。
『実測って、誰が測るんだよ?』
『測れる場所、会社の敷地の中じゃん』
「測ります」
私が打つと、コメント欄が止まる。
『え』
『烏口さん、それって』
二十二年前、私は現場へ行かなかった。本社で電話を取って、指示を出して、それで足りると思っていたのである。
「実測が要るなら、測ってくるだけです」




