20. 滝が止まる
午前五時四十分。
私は縁側に座り、二つの画面を並べていた。左に運営の公式ライブ、右にモグの当番配信である。モグは三十四層の観光通路にいて、手すりの向こうの〈大裂け〉へカメラを向けている。
庭は、まだ暗い。夜明け前のいちばん冷える時刻で、板の間が足の裏を刺す。
『おはようございます。十月十七日、朝番です。……目盛り、二です』
二。三日前の朝は、三と半だった。
同接は二千。当番配信の常連が、いつもの顔ぶれで並んでいる。
『音、聞こえますか?』
モグがマイクを手すりの外へ突き出す。
水の音がした。だが、あの二十二年の音ではない。太い音の芯が抜けて、ゴボッ、と何かの詰まる音が混じる。詰まって、また流れて、また詰まる。
『きた』『また鳴った』『これ、やばいやつ?』
私は湯呑みを両手で包んでいる。中身は、空だ。
落ち口の水の幕が、糸になっていく。
三本。二本。
一本。
『……あ』
最後の一筋が、途中でほどけた。
落ちてこない。
そして、無音である。
二十二年間、一日も止まらずに鳴っていた音が、消えた。配信のマイクが拾っているのは、モグの息の音だけである。三十四層は、こんなに静かな場所だったのか。
静けさというものに、これほど嫌な手ざわりがあるとは思わなかった。音が消えたのではない。音を出していたものが、消えたのだ。
『……止まりました』
声が、震えている。
『烏口さん。……止まりました』
落ち口から、濁った水が少しずつ滲んでいる。水ではなく、泥の色をした滲みだ。
私は、空の湯呑みを置く。
――二十二年前に私が開けた口が、いま、閉じた。
膝の上で、両手が勝手に組まれている。祈る形である。祈って止まる水なら、二十二年前に三人は死んでいない。
◇
三時間で、世の中は祭りになる。
同接は朝のうちに十万を超えた。切り抜きが回り、「幻の枯れ瀑布」という言葉が、どこからともなく湧いてくる。
昼前には、運営の告知が出た。
『【緊急】幻の枯れ瀑布 特別見学 本日より三日間 三十四層観光通路 入場無料』
コメント欄が沸き立つ。
『滝裏いけるじゃん』『枯れ滝映えする』『これは行くしかない』
観光課の理屈も、分かる。三十四層の観光通路は整備区画で、手すりも照明もある。滝が止まった以上、落水も水しぶきも無い――彼らの側からは、危険が一つ減ったようにしか見えない。二度沈んだ会社に、無料でも人が戻る絵が要る。写真は映える。三日で終わる。
保安管理課には、話が回っていなかった。あとで瀬川に聞くと、告知は観光課の決裁だけで出たのだという。会社というのは、危ないほうの知識が、いちばん歩くのが遅い。
だが、水は三日で終わらない。
私は、翔真を呼んだ。
「やかんと、洗面器を持ってきなさい。それと、水差しを」
「は?」
「いいから」
◇
縁側に洗面器を置き、その中に空のやかんを立てる。蓋は外しておく。
水差しから、上の口へ、細く水を注いだ。
やかんの腹が満ちて、注ぎ口の高さまで来る。そこから水が、注ぎ口を伝って洗面器へ流れ落ちていった。細い筋が、朝の光を通して光る。
「見なさい。いま、やかんの中の水位は動いていない」
「入った分だけ、注ぎ口から出てるから?」
「そうだ。注ぎ口の高さで、釣り合っている。あふれている間、中の水位は上がらない。……二十二年、あの山はこれをやっていた」
私は翔真の手を取り、注ぎ口の先へ当てさせる。孫の手は、思ったより大きい。
「塞ぎなさい」
指が、注ぎ口を覆った。
水は、行き場を失う。やかんの腹の中で、水面が見る間に上がってくる。
「うわ、上がってきた」
「そうだ。注ぎ口が、あの滝だ」
「……上の口から、出るんじゃないの?」
「出る。この、やかんならな」
私は、注ぎ口を塞いだままの孫の手を、そっと押さえた。
「山のやかんは、上の口に蓋がしてある。二十二年前、私が付けた蓋だ。鋼の扉でな」
翔真の顔から、笑いが引いた。この子は、飲み込みが早い。
「……蓋、抜けるの?」
「抜ける水圧が、決めてある。それを超えたら、抜ける」
孫の指が、注ぎ口から離れた。溜まっていた水が一息に出て、洗面器を鳴らす。その音が、やけに大きく聞こえた。
私は縁側に戻り、端末を引き寄せる。
人差し指の一本打ちである。速くはない。だが、この十行を書くために、私は三十七年を使ってきた。
「【所見】〔七-三四〕大瀑布は、自然の滝ではありません。二十二年前の工事で掘った、仮の排水路のあふれ口です。根拠: 落ち口は、全長四百メートルの人工の水路の下流端です。設計図の原本は監督局の書庫にあり、先月、複製を確認しました。確度: 私が引いた図面と、その複製までです」
「【所見】本日午前五時五十分、落ち口の水が途切れております。私に測れた三箇所の湧きは、測り方の誤差の内で三年前と同じ量です。十二層の水場は五百ミリ二十二秒、十九層は十四秒、五層は三十一秒――五層のみ三年前より一秒遅く、これは測り手の癖の範囲です。落ち口からは、濁った水が滲んでいます。濁りは、土砂が動いている印です。確度: 私に測れた三箇所と、公開されている画の範囲までです」
「【勧告】三十三層以深への入坑を、いますぐお控えください。ここから先は、私の推定です。私は、山の水が減ったのではなく、あふれ口のほうが塞がったのだと考えています。塞がっていれば、行き場を失った水は上へ向かい、斜坑の中で水位を上げます。その上にあるのが、二十二年前に私が設計した応急の設備です。……ただし、どこが、いつ、どうなるかは名指しできません。実測がないからです。確かめる方法は一つ、三十三層の鋼扉の測定孔で水位を測ることで、それは運営にしかできません」
送信して、もう一行だけ足す。
「滝は蛇口ではありません。あふれ口です。……そのあふれ口が、いま塞がりかけているのだと、私は考えています」
少し置いて、最後の一行を打った。
「滝が止まって喜ぶのは、観光課だけです。あれは、悲鳴です」
◇
祭りの空気が変わるまでに、十分もかからない。
『え、あの滝、人が掘ったやつなの?』
『あふれ口が塞がったって、じゃあ水はどこ行くんだよ?』
『上がるって書いてある』
『やかんの絵、誰か図にして』
ノギスが、三十分で図を上げた。やかんと、塞がれた注ぎ口と、洗面器。上の口には蓋が載っている。その横に、斜坑と鋼扉と、水位の矢印。矢印は、上を向いている。
「補足する。烏口氏は『塞がった』を【勧告】側に置いている。断定していない。確かめるには扉の測定孔での実測が要り、実測の権限は運営にある。以上」
「烏口氏の説明を図解した。転載自由。以上」
黎明は、その日のうちに全隊を三十三層以深から引き上げる。中堅の隊が続き、翌朝には、深いところへ潜る配信が一つもなくなった。
運営の「幻の枯れ瀑布」は、二日で静かに取り下げられる。
「取り下げの決裁、うちで回しました」
電話の向こうで、瀬川の声は疲れていた。
「観光課に説明するのに、二時間かかりましたが」
「二時間で済んだなら、上等です」
会社の中で、危ないほうの知識が、ようやく歩き出したらしい。
◇
夕方、瀬川から電話が来た。
「監督局が動きます」
声が、堅い。
「公開の場で、話を聞くそうです。ヒアリングといいます。……真柴さん、出てもらえますか?」
「いつですか?」
「来週です」
私は電話を切って、しばらく縁側に座っていた。
庭の紫陽花は、とうに枯れ色である。夕方の光が、板の間を横に伸びていく。六月にここへ座っていた男は、茶が冷める速さだけを一日の予定にしていた。あれから四か月しか経っていない。
二十二年前、私は現場に行かなかった。行けなかったのではない。本社にいて、電話を取って、指示を出して、それで足りると思っていたのだ。
いまも、私は画面のこちら側にいる。
――足りるか。
私は立ち上がり、押し入れを開ける。樟脳の匂いが、顔にかかる。
行李の上に、それはある。四十年前、入団の日に配られた作業帽だ。色は褪せて、鍔の形も崩れている。内側に、油性ペンで名前が書いてあった。
マシバ。
二十三の私が書いた字だ。線が固くて、まだ手が定まっていない。この字を書いた日、私は山を一つも知らなかった。
「じいちゃん、それ何?」
いつのまにか、翔真が後ろに立っている。
「作業帽だ」
「かぶるの?」
私は、埃を払った。
「かぶる」




