19. 観測網
三日で、当番表ができた。
言い出したのは、OB会の爺のひとりだ。元・軌道班のこの男は、コメント欄に一行しか書かない。
「当番表、作ろうか」
それだけで、話が決まる。
「表がなきゃ、人は続かん。人が続かなきゃ、記録は途切れる」
「賛成。様式は当方で作る」
「時計は一つにしろ。各自の携帯の時計は、ずれる」
当番表。その三文字を見たとき、私は少し笑ってしまう。三十七年、公団で毎朝見ていた紙である。誰がどの観測点を、何時に見るか。それだけの紙が、坑道の安全のいちばん下を支えていた。
朝、詰所の壁に貼られたその紙の前で、みんなが自分の名前を探す。指で追って、頷いて、長靴を履いて出ていく。あの何でもない三十秒が、四十年、この国の十七の穴を保たせていたのだ。
三年前に、あの紙は消えたはずだ。
いま、それがコメント欄で復活している。名前の代わりにハンドルが並び、詰所の壁の代わりに、誰の持ち物でもない画面がある。
◇
観測の作法は、ノギスが一枚にまとめた。
「観測要領。一、運営の公式ライブの画面を使う。据えつけのカメラであり、向きが変わらないため。二、毎日同じ時刻に保存する。三、配布した目盛り紙を画面に重ねる。落ち口の岩の口の幅を十等分してある。四、水の掛かっている目盛りの数を数える。五、半分の目盛りは『半』と書く。小数は書かない。六、その日の雨を書き添える。七、前年の同じ週の画も、同じ手順で読む。八、直前三日に雨のあった日は、印を付けて別に並べる。以上」
私が口を出したのは、五から八である。
「目分量に小数を書かせると、人は自分の見たいほうへ寄せます。目盛りを数えるだけなら、読み手が変わっても同じ数字が出ます」
「承知。理由も併記する」
「それから、断っておきます。この読み方は、七月に私が孫とやったものより粗いです」
『粗くていいんですか?』
「粗いほうがいい。細かく読める人が三人いるより、粗くても十四人が同じ数字を出すほうが、この場合は要ります。……比べたいのは、日ごとの上がり下がりではなく、二週間の傾きですので」
ノギスの返事は、いつもの二行だった。
「承知。要領に追記する。以上」
当番も、その日のうちに埋まる。
「毎朝六時、俺が入ります」
モグである。
「昼と夕方は、こっちで六人回す。年寄りは朝が早いと思われとるが、目が利くのは昼だ」
「夜はうちの若いのが。研修だと思ってやらせます」
もうひとり、名前の出ない当番がいた。深夜の分である。
「俺が入ります」
瀬川からの私信は、それだけだった。
◇
十月の第一週から、数字が並び始める。
九月末、五と半。七月に翔真と数えた五割六分を、この粗い紙で読み直した値である。
十月三日、五と半。
十月六日、五。
十月十日、四と半。
十月十四日、三と半。
「集計を公開した。九月末から本日まで、当番十四名の記録。読み違いの指摘は歓迎する。以上」
私は野帳に、その数字を鉛筆で写していく。写しながら、指が冷たくなっていくのが分かる。
三年かけて、口の幅は七割から五割六分まで痩せた。目盛り紙に直せば、七から、五と半である。
それが、この二週間で三と半になった。
三年で一目盛りと半。二週間で、二目盛り。
三年ぶんより、二週間のほうが大きい。
これを、加速と呼ぶ。
数字というものは、静かに並んでいるだけである。並んでいるだけのものが、こんなに人の背筋を冷やすことがある。鉛筆の芯が紙に触れる音だけの部屋で、私は自分の呼吸が浅くなっているのに気づいた。
「じいちゃん、ここ、雨の日が二日入ってる」
翔真が、集計表を睨んでいる。学校から帰ると、まず数字を打ち込むのが日課である。
「雨の日は、どうすんの?」
「印を付けて、並べておけばいい。捨てるな」
「捨てないの?」
「捨てると、都合のいい日だけ残る。都合の悪い日を残しておくのが、記録だ」
孫が、鉛筆の尻で頭を掻いた。
「うわ、それ、テストの点でもやったら怖いやつじゃん」
「怖いから、記録なんだ」
孫は「なるほど」と言って、雨の欄に丸を打つ。
この子は、丸を打つ手つきが丁寧になった。数字を扱う人間の手つきである。夏の初めには、画面を指で弾いてばかりいた手だ。
◇
滝だけを見ていては足りない、と私は書いている。
「雨が減っただけなら、滝も減ります。山の水そのものが減っているのか、滝への道が細っているのか。そこを分けなければ、何も言えません」
私は、三つの手を打った。
一つ、去年の同じ週の画を、同じ手順で読む。据えつけのカメラの過去ログは、運営の側に残っている。
二つ、雨を二日ずらして突き合わせる。七ツ峰の水は二日遅れて来るから、雨の二日後だけは滝が半目盛り戻ることがある。その日を除いて並べても、傾きが変わらないかを見る。
三つ、同じ山の湧き水を、一箇所ではなく複数測る。
「一箇所では足りません。山の水は、帯水層ごとに道も速さも違います。一つの湧きが変わらないことは、山じゅうの水が変わらないことの証明になりません。……三箇所、測ること」
「十二層の水場、行きます」
手を挙げたのは、モグだった。
――あの水場である。三十九年前に私が測り、一話でこの男が辿り着いた、右の道の水場だ。
「やり方を決めます。五百ミリのボトルを落ち口の真下に置いて、満ちるまでの秒数を測ってください。三回測って、真ん中の値を採る。ボトルは毎回、同じものを使うこと」
「雨の日は、記録に『雨』って書けばいいんですよね?」
「そう書いてください。書いてあれば、後から誰でも省けます」
『測ります。……三、二、一』
画面の中で、若い探索者が携帯の時計を睨んでいる。同接は八千を超えていた。ボトルが水を受ける音が、坑道に低く響く。
その音を、私は知っている。三十九年前、私も同じ場所で同じ音を聞いた。あのときはバケツで、時計は先輩の腕にある。野帳を持って数字を書き取るのが、若い私の役目だった。
『……二十二秒!』
『三回やって、全部二十二秒です。ぴったりです』
私は、野帳の古い頁を開いている。三年前の、退職の年の記録だ。
「十二層水場 五百ミリ 二十二秒」
バケツと時計。公団の測り方は、いつもそれだった。いちばん確かなのは、そういう測り方である。
残り二箇所も、その週のうちに埋まった。
「十九層の湧き、〈七-一九-湧一〉。五百ミリ、十四秒。三回とも」
「五層の水飲み場、三十一秒。三年前の記録は三十秒だそうだが、一秒はこっちの手の癖だろう」
野帳の古い頁と、並べる。十四秒。三十秒。どちらも、三年前の数字がそこにある。
指が、少しだけ震えた。三十九年ぶんの水が、いまも同じ速さで落ちている。
「【所見】観測の結果を報告します。一、落ち口の水の掛かりは、九月末の五と半から、十月十四日に三と半へ落ちました。二、去年の同じ週を同じ手順で読むと、六です。三、雨は二日遅れて来ますので、雨の二日後を除いて並べ直しても、下がり方は変わりません。四、同じ山の湧き水を三箇所測りました。十二層の水場は五百ミリ二十二秒で、三年前の記録と同値。十九層は十四秒で、同値。五層は三十一秒で、三年前より一秒遅い――測り手の癖の範囲です。三箇所とも、測り方の誤差の内で三年前と一致しています。根拠: 据えつけの定点カメラの同じ画を同じ手順で当番十四名が読んだ記録と、ボトルによる実測です。確度: 私に測れた三箇所と、公開されている画の範囲までです」
ここまでが、測った話である。
『鳥肌』『最初の水場が伏線だったのかよ』『測ってから言うところが好き』
『じゃあ、滝だけが減ってるってこと?』
私は、そこで札を替えた。
「【勧告】三十四層の観光通路より奥へは、引き続き入らないでください。ここから先は、私の推定です。この観測の範囲では、季節の渇水だけで説明するのは難しいと考えています。滝へ向かう水の道が、どこかで塞がりかけているのではないか、と疑っています。……ただし、三箇所の湧きが変わらないことは、山じゅうの水が変わらない証明にはなりません。帯水層ごとに、道も速さも違うからです。確かめる方法は一つしかありません。三十三層の鋼扉の測定孔で、水位を測ることです」
『それ、測れるのは誰なんですか?』
「運営だけです」
打ちながら、私は自分の掟に足を掴まれているのを感じる。
確かめられないことは、言わない。三十七年、それで通してきた。通してきたその一行が、いま、いちばん言いたいことの手前で私を止めている。
◇
会社の発表は、翌日の夕方に出る。
「大瀑布の水量変化について。秋季は例年、水量が減少する傾向にございます。現在確認されている変化は渇水期の自然変動の範囲内であり、施設の安全に影響はございません。なお、当社は映像から算出された第三者の推計値について、その正確性を確認する立場にありません」
『渇水期って言うけど、今年の雨は平年並みだって気象の人が言ってたが』
『測ってない人が「変動の範囲内」って言えるの、すごくない?』
『測る道具は持ってるんだよな。使ってないだけで』
最後の一文が、いちばん正直だ。
実測の権限は、運営にある。運営は、測っていない。測っていない者だけが、素人の数字を「確認する立場にない」と言える。
十月は紅葉と燐珠の最盛期である。八月の台風と九月の報道で、この会社は二度沈んだ。三度目に耐える体力は、たぶんない。書いた人間の胃が痛んでいることも、私には分かる。
私は、その発表を憎まなかった。二十二年前、私も帳尻の中にいる。
ただ、帳尻は水を止めない。
◇
意見書は、書留で出した。
宛先は監督局。三十三層以深の点検と、水位の実測を求める内容である。図面の写しと、観測記録の一式を添える。
封をするとき、指先が糊で貼りつくのを、私はやけに長く見ている。三十七年、書類は誰かの机から誰かの机へ、勝手に流れていくものだった。自分で切手を貼るのは、これが初めてである。
三日後の返事は、一行だった。
「拝受いたしました」
六人で十七の迷宮を書面審査している役所である。紙は届いた。紙が届くことと、人が動くことは、別だ。
「お父さん、ごはん」
千夏の声で、私は野帳から顔を上げる。台所の窓の外は、もう暗い。
「観測はね、いいと思うの。お父さん、生き生きしてるし」
「そう見えるか」
「見える。……でも、夜中に起きて数字を見てるの、知ってるからね」
「見ていない」
「見てるよ。廊下の電気が点いてる」
私は箸置きの位置を直す。
「……次からは、消してから見る」
「そこじゃないの」
娘の声が、少し湿った。母親が、同じ声を出したことがある。心配というのは、この家では代々、怒った顔でやってくるものらしい。
数字は揃いつつある。作法も揃った。人も集まってくれている。
揃っていないものが、一つだけあった。
――止める権限を、誰も持っていない。
◇
その夜明けである。
枕元の端末が、短く鳴った。深夜番から朝番へ、当番が引き継がれる時刻だ。
私は起き上がり、老眼鏡を掛ける。障子の外は、まだ藍色である。
画面に、夜明けの〈大裂け〉が映っていた。据えつけのカメラは、二十二年、同じ方角を向いたままである。
落ち口の岩の口に、水が――細い。




