18. 墓前
石動の墓は、山を二つ越えた町の高台にある。
秋の彼岸の日曜、瀬川の車で行った。助手席に座ると、フロントガラスを稲刈りの済んだ田が流れていく。刈り跡の匂いと、どこかの家の金木犀が、窓の隙間から入ってくる。
「毎年、来てるんですか?」
瀬川が、前を向いたまま訊いた。
「命日と、盆に」
「……そうでしょうね」
「線香を上げて、五分で帰っていました」
私は、膝の上の紙袋を握り直す。
「手を合わせて、何を言えばいいのか、分からないので」
◇
墓は、掃除されていた。
水鉢に新しい水が張られ、花が挿さっている。
「……花、新しいですね」
「娘さんでしょう」
事故のとき中学生だった子は、いま千夏と同じくらいの年になっているはずである。
高台は風が通る。日は高く、墓石の肩が白く光っていた。柄杓の水をかけると、乾いた石が音を立てて吸い込んでいく。
私は花を足し、線香を上げ、それから、しゃがんだ。
紙袋から切羽日誌を出す。瀬川は少し離れたところで、帽子を取って立っている。
開いた。
太い鉛筆の字が、頁いっぱいに躍っている。丁寧ではない。ただ、読める。この男は字が下手なのではなく、急いでいただけだ。字の癖まで、当時のままそこにあった。線の終わりを撥ねる癖。それを見ただけで、詰所で図面を覗き込む石動の背中が、二十二年ぶりに立ち上がってくる。
「マシバの線は曲がらねえ。今日も真っ直ぐ掘れた」
最初の頁の、その一行で、私の指が止まる。
進行メートル。湧水のバケツ数。岩の色。毎日、三行か四行。字の大きさで、その日の機嫌まで分かる。
頁を繰る。日付が、あの夏へ近づいていく。
――十日前。「岩の色が変わった。水が出だしている。マシバに言う」
――八日前。「マシバが上と喧嘩したらしい。ボーリングを増やせと言ったそうだ。あいつは、線みたいな男だ」
――五日前。「増えなかった。仕方ねえ。俺が慎重に掘る」
――三日前。「水、昨日より多い。バケツ十二」
――前日。「明日、抜ける。マシバに一杯おごらせる」
その先は、白紙である。
私は、日誌を膝に置いたまま、動けなくなった。
俺が慎重に掘る、と書いてある。
この男は、私の判の足りない分を、自分の腕で埋めるつもりでいたのだ。図面を疑わず、線を信じて、水の出ている切羽に立った。線みたいな男だ、と書き残して。
――辰巳。
あんたが慎重に掘る必要など、無かったんだ。私が、もう一度上げればよかった。それだけのことである。
線は、曲がっていた。曲がっていたのは線ではない。線を守れなかった、私のほうだ。
喉の奥で、二十二年ぶんの何かがつかえている。目の縁が熱くて、字が滲んで読めなくなった。年寄りが墓の前でしゃがんだまま動かないのは、傍から見れば足腰の問題に見えるだろう。そう見えてくれたほうが、こちらは助かる。
風が、線香の灰を一度、掃いていく。
どれくらいそうしていたか、瀬川が静かに近づいてきた。
「真柴さん。……あの応急処置は」
問いは、優しかった。優しい問いは、人を立たせる。
私は日誌を閉じて、立ち上がる。膝が鳴る。
◇
「三段あります」
私は、墓石の前で指を折った。
「一つ。出水の直後、斜坑の坑口を鋼扉で仮閉塞しています。三十三層です。扉には口径三百ミリのバイパス管を付けて、弁を開けておいた。吐きは毎分二十五立米。当時実測した湧き込みと、同じ量です」
「同じ量、ですか?」
「入る量と出る量が同じなら、水位は動きません。放流先は旧作業坑の排水溝で、そんな量を長く流していい設備ではない。あくまで応急です」
二つ目の指を折る。
「二つ。中期の対策として、斜坑の三十四層相当の高さに、横向きの仮排水路を掘りました。四百メートル、吐き能力毎分四十立米。落とす先は天然の縦穴で、〈大裂け〉といいます」
「……三十四層、ですか?」
瀬川の声が変わる。この男は、数字で気づく人間である。
「掘るときに、作業用の導坑を先に走らせています。岩被り二メートルの隔壁を挟んで、水路と並走する形ですよ」
「五話の、あれですね」
「そのとおりです」
「……うちは、あの裏側を、客に売ってたわけですね」
三つ目の指を折る。
「三つ。水路が完成したので、バイパスの弁を閉じました。排水溝が保たないからです。以後、斜坑の中の水位は、仮排水路の敷高で釣り合う」
私は、そこで一度、息を吸う。
「釣り合って、あふれた分が、そのまま〈大裂け〉へ落ち続けます。二十二年、一日も止まらずに」
瀬川が、口を開けたまま、閉じた。
「……大瀑布ですか?」
「そうです。あれが、大瀑布です」
高台の風が、線香の煙を横に流していく。
「自然の大瀑布、と、あの会社は売っています。自然ではありません。あれは、私の応急処置が、二十二年あふれ続けている音です」
言ってしまうと、胸のあたりが妙に軽くなった。軽くなった分だけ、足元が頼りない。二十二年、私はこの一行を抱えて、誰にも渡さずに歩いてきたのだ。
「じゃあ、水量が三年で二割減ってるっていうのは」
「あふれ口が、細っているということです」
自分で言って、背中が冷える。
◇
上着の内で、携帯が震えた。
モグである。墓前で出るのは失礼だが、この男が電話をかけてくるのは、緊急のときだけだ。
「烏口さん」
息が上がっている。
「いま、三十四層の観光通路にいます。……滝の音が、変です」
「変とは」
「ずっと同じ音だったのが、たまに途切れるんです。……ゴボッ、て。詰まってるみたいな音がして、それから戻る」
なぜそこにいるのか、と私は訊かない。訊かなくても分かる。大峰が「静かだった」と書いたのを、この男も見ていたのだ。
「烏口さんが黙ってるときって、だいたい、いちばん気にしてるときなんで」
電話の向こうで、遠く、水の音がしている。確かに、途切れる。
喉が、渇く。
二十二年、私はあの音を「見ないで済む場所」に置いてきた。滝の写真が旅番組に映るたび、私は目を逸らして茶を飲んだ。逸らしてきたものが、いま、電話の向こうで喉を鳴らしている。
私は墓石の前に立ったまま、小さな画面に指を打った。
「【勧告】三十四層の観光通路から奥へは、当面、入らないでください。判断の根拠は二つです。滝の水量が、この三年で二割減っています。落ちる音に途切れが出ています。ただし、何が起きているかを名指しする根拠は、私にはまだありません」
送って、続けて打つ。
「そのうえで、お願いがあります。今日から、滝を毎日、同じ時刻に記録してください。使うのは運営の据えつけの定点カメラです。向きが変わらないからです。落ち口の岩の口を物差しにして、水の掛かっている幅の割合だけを読んでください。実寸には換算しないように。その日の雨も、書き添えるようお願いします」
「やります」
返事は、一秒で来る。
「一人じゃ足りないんで、声かけていいですか?」
「お願いします」
私は電話を切り、墓石に手を置いた。石は秋の日を吸って、少しあたたかい。人の肌ほどではないが、冷たくもない。
「辰巳」
風が、鳴る。
「あれの始末を、つけに行く」
――遅くなった、とは言わなかった。それは、始末をつけてから言う言葉である。




