17. 判の夜
瀬川が段ボール箱を抱えて現れたのは、九月半ばの雨上がりの夜である。
玄関先で受け取ると、腕にずしりと来た。紙の重さだ。人の背丈ほどの図面を折り畳んだ束は、こうして持つと石のように重い。
「監督局の書庫から、複製が出ました」
背広の肩が、雨に少し濡れている。
「第七・三九工区関係綴、一から七。全部です」
私は箱を抱えたまま、しばらく動けない。
三九。その二文字を、二十二年、私は口にしていない。
「……よく、通りましたね」
「役員会で通った、唯一の保安案件です」
瀬川が、笑わない顔で言う。
「取り寄せるだけなら、金がかかりませんから」
◇
座敷に新聞紙を敷いて、綴を並べる。
千夏が茶を二つ置いて、何も言わずに襖を閉めていく。娘は、そういう引き際が上手い。廊下を行く足音が、途中で一度止まって、それからまた遠ざかった。
封を切ると、紙の匂いが立つ。二十二年前の紙である。青焼きの、あの薬品と埃の混じった匂い。三十七年、私はこの匂いの中で仕事をしてきた。嗅いだ瞬間、指のほうが先に若返る。製図台の高さも、蛍光灯の白も、隣の席の咳払いまで、匂いは全部ひと束にして連れてくる。
一枚目を広げる。
三九工区・斜坑縦断図。三十三層の坑口から、三十九層の切羽まで。全長二・六キロ、勾配十二パーセント。図面の隅の枠に、私の名前がある。設計、真柴。検図、真柴。
指の腹が、勝手に線をなぞっていた。
二枚目、鋼扉の詳細図。三枚目、バイパス管と弁の型式。四枚目、仮排水路の縦断図。〈大裂け〉へ落とす、四百メートルの横坑。
どれも、私が引いた線である。
「……全部、真柴さんの字ですね」
「三十七年、これしか書いていません」
二十二年、この線たちは監督局の書庫の箱の中で、誰にも読まれずにいた。読まれない図面は、ただの紙だ。紙は、水を止めない。
「真柴さん」
瀬川が、管理区分図の頁を繰る手を止める。
「これ、色が付いてます」
私は老眼鏡を押し上げて、覗き込んだ。
薄い赤茶の網掛けが、未成線の一帯を覆っている。斜坑。仮排水路。導坑。〈大裂け〉際の旧作業坑群。全部、その色の中にある。
保安区域の網掛けである。
「うちの図面には、この色がありません」
瀬川の声が、低くなる。
「白黒の現況図です。……この網が落ちてる。だから、滝裏の導坑が、ただの旧作業坑にしか見えなかった」
二十二年前に閉じた口が、いま、目の前で開いていく。
誰が悪かったのか。私はその問いをずっと持て余していた。黎明は柵を越えていない。開放した会社にも、稼ぎたいという理由がある。網掛けを落とした複写機にも、悪意はない。悪意のない者ばかりが並んで、その列の先で、四十二万人の見ている前で壁が破れた。
「複写を重ねると、薄い色から先に消えます」
私は、そう言う。
「誰かが手を抜いたのではない。色は、そういうふうに消えるんです」
「それでも、開けたのはうちです」
瀬川が、畳に手をついて頭を下げた。
「頭を下げる相手が違う」
私は、下がった頭を見ている。旋毛のあたりに、白いものが混じっていた。この男も、四十八だ。
「あの日、下げるとしたら、私が先です」
◇
箱の底に、それは沈んでいた。
図面の束の間から、小さな冊子が覗いている。野帳より一回り大きい、表紙の擦り切れた綴だ。
太い字が、そこにある。
「三九 切羽 石動」
私は、手を出せない。
伸ばしかけた指が、表紙の一寸手前で止まった。指先が、痺れたように動かなくなる。二十二年前、あの現場から出てきた紙に、私はまだ触れる資格がない気がした。
事故のあと、現場から回収された記録類が、調査のために一緒に綴じられたのだろう。役所の箱は、そういうものを平気で一緒にする。
瀬川が、そっと私のほうへ滑らせた。
表紙を開き、一行目を見て、私は閉じる。
――今日は、読めない。
湯呑みの茶が、とうに冷めている。私はそれを飲み干して、それから話した。二十二年、自分の口では一度も言わなかったことを。
「三九工区は、深いところの燐珠を採るための斜坑でしてね」
瀬川が、姿勢を正す。
「当時、増産は国の方針です。公団も急いでいる。私は設計課長で、四十一歳。……いちばん、仕事のできる年頃です」
「……はい」
「工期を三か月、詰めろと言われましてね。詰めるところは、いくらでもあるように見える。実際は、削れるところなど一つもない」
私は、指を組む。組んだ指が、少し冷たい。
「削られたのは、先進ボーリングです。切羽の前に細い孔を突っ込んで、前方の水を探る調査削孔ですよ。三十メートル進むごとに、三十メートル先まで見る。その設計を、六十メートルごとに変えられた」
「半分ですか?」
「ちょうど、半分に」
あの日の会議室の空気を、私はまだ覚えている。誰も悪意など持っていない。予算年度と、増産と、他所の工区との比較と、そういうものが並んでいただけである。窓の外は晴れていて、湯呑みの茶は熱く、誰かの咳がひとつ鳴った。人が三人死ぬ会議は、そういう顔をして始まる。
「私は文書で具申しています。増やすべきです、と。理由も書いた」
「通らなかった」
「通りません」
瀬川が、何か言おうとして、やめる。
「そして私は、最終図面に判を押しました」
自分の声が、自分のものではないように聞こえる。
「拒む権限は、あったんです。少なくとも、私はあったと思っている。持ち帰ります、と言えばよかった。もう一度上げます、と言えばいい。……私は、押した」
朱肉の匂いを、いまでも思い出す。蓋を開けると、あの赤い脂の匂いが立つ。印を押しつけて、紙から離すときの、わずかな粘り。押したあと、印の面を布で拭いている。手は汚れなかった。指先が汚れないことが、あのときはひどく不思議だ。
人を死なせる工程に判を押しても、指は汚れない。汚れるなら、私はもう少し早く気づけたかもしれない。
「三か月後の、夏です」
私は、卓の上の斜坑縦断図に指を置く。三十九層の切羽の位置に。
「切羽が、被圧の帯水層を切りました。水は上から降ってくるものだと、皆さん思っている。圧のかかった水は、上ってくるんですよ。斜坑を、坑口に向かって遡ってくる」
指を、斜面に沿って上へ滑らせる。紙の上の二・六キロは、指で二十センチだ。
「私は本社にいて、電話を取りました。……受話器を上げた瞬間に、胃が、すとんと落ちる。あの落ち方は、二度としたくない」
窓の外で、雨の残りが樋を鳴らしている。
あの夏から半年、私は家でほとんど口をきかなかった。佳代は何も聞かず、毎晩、味噌汁の椀を私の前に置いている。ある晩、一度だけ言われている。食べてから考えなさい、と。それだけである。三十七年の結婚で、あれがいちばん効いた言葉だった。
私は、指を止める。
「その出水で、三人死にました。――判を押したのは、私です」




