16. 検定
九月に入ると、蝉の声が急に薄くなる。
縁側の風鈴を外し、桐の箱に仕舞う。硝子の舌が、箱の中でひとつ鳴った。この風鈴を毎年出し入れしていたのは妻である。仕舞う日は決まって、朝のうちに風の匂いが変わる日だった。今年は私が仕舞う。手つきは覚えていないが、日は分かるようになった。
八月は長い月だったと思う。台風が来て、十四人が助かって、公文書が三年ぶんの白紙を晒し、私は四十万人の前で名前を名乗った。六十三年で、いちばん人に見られた夏である。
その日の午後、大峰から私信が届く。
「明後日、うちの新人研修を配信します。十層です。……見ていただけませんか。教えるのは俺がやります。ただ、答え合わせだけ、していただけると助かります」
二度、読み返す。
顧問は断った。その男が次に持ってきたのが、「答え合わせ」である。会社にも、クランにも属さないまま、コメント欄からできる仕事の形を、自分で探してきたらしい。頼み方に、断られたことへの棘がひとつもない。こういう男が隊を七年、無傷で連れて歩いてきたのだ。
「引き受けます」
返事は、それだけでいい。指を離してから、私は自分の口の端が上がっているのに気づく。
◇
研修の配信は、夕方から始まった。
同接一万二千。画面の中は十層の整備区画で、常設灯が等間隔に並び、支保工の柱が影を落としている。乾いた坑道だ。三十年前に私が検図した区間である。
画の隅に映る岩の色を見ただけで、あの区間の空気の乾き具合を、鼻の奥が勝手に思い出す。十層は水気が少なく、埃が舞う。歩くと、口の中がざらつく坑道だった。
『今日は戦い方はやりません』
大峰が、四人の新人の前で言う。
『読み方をやります。烏口さんの書き込みの、読み方です』
新人は四人。いちばん若い子に見覚えがある。滝裏の導坑で最後まで足が動かなかった十九歳だ。あの日、画面の隅で、この子はヘルメットの縁を両手で押さえて立ち尽くしている。
『第一に、【所見】と【勧告】を分けて読め。烏口さんは札を分けてる。所見は事実の言い切り。勧告は安全側の判断だ。混ぜて読むと、両方読み違える』
『第二に、所見は根拠の行を読め。断定の行じゃない。根拠が読めないものは信じるな』
『第三に、勧告は「止める根拠」と「名指しできないと書いてある範囲」を分けて読む』
新人が手を挙げた。
『あの……そのまま書いてある通りにしたら、駄目なんですか?』
『駄目じゃない。ただ、烏口さんが何も書いてない場所のほうが、この迷宮にはずっと多い』
私は湯呑みを置き、指を動かす。
「補足します。烏口は当てているのではありません。外すことを言っていないだけです」
コメント欄が、少し詰まる。
「私の書き込みが当たるのは、私が賢いからではありません。確かめられないことを書かないからです。ですから、私が何も書いていない場所は、安全な場所ではありません。私が何も言えない場所です」
『こわ』『名言出た』『言い切らないことで当ててる人』
「保存した」
ノギスの三文字が、いつもの調子で流れる。
◇
後半は実技である。
『兆しの見方をやる。壁の根方を見ろ。粉が落ちてるところだ』
新人たちのライトが、いっせいに壁の下を舐める。四つの光が、それぞれ違う速さで動いた。落ち着かない光ほど、何も見ていない。
『白いか、灰色か。それだけ見ろ。坑内の粉は数日で埃をかぶって灰色に沈む。白いのは、欠けたばかりってことだ』
大峰の説明は、私が書き散らしてきたものを順番に並べ直したものだった。教えるとはこういうことか、と画面の前で感心する。私は書いてきただけで、並べたのは、この男だ。
四人が散って、壁を見て回る。
三人が、順に戻ってくる。
『何も、ありません』
『こっちも、何もないです』
『……すみません、分からないです』
「無い、と言えるのは大事です。見つからないものを見つけたことにする人が、いちばん危ない」
私が書くと、大峰が読み上げる。三人の肩が下りた。肩が下りるのを見て、私の肩も少し下りる。
残った一人が、動かない。
十層の交差部。支保工の柱の足元で、十九歳がしゃがみこんでいる。ライトの光の輪が、床の一点から動かない。
『……あの』
声が、震えていた。あの夜と同じ震え方である。ただ、あのときは足が震えていて、今日は声だけだ。
『これ、白いです』
大峰のライトが寄る。硬い床に、粉が薄く積もっていた。指で触れると、乾いてさらさらと崩れる。
『上、照らせ』
ライトが天端へ上がる。細い割れが一本、走っていた。縁が角張っている。
私は、画面に顔を近づける。老眼鏡の内側で、目がひとりでに細くなった。三十七年、私はこの目つきで飯を食ってきたのだ。
「【所見】〔七-一〇〕柱の足元の白い粉は、新しく欠けた岩の粉です。根拠: 色が白く、指で触れて乾いて崩れること。坑内の粉は数日で埃をかぶり、灰色に沈みます。確度: 画面で見えた範囲までです」
「【勧告】その交差部の下を、通らないでください。迂回してください。近づかない、触らない、真下で立ち止まらない。判断の根拠は、新しい粉と、真上の角の立った割れです。どこがどう動くかは、私には名指しできません。位置と写真を、日付を入れて運営の保安管理課へ通報してください。専門の点検が入り、支保が足されるか、安全が確かめられるまでは、その区画を避けること」
『通報まで書くんだ』『避けろって書いてある』
『……あの、じゃあ、灰色になってたら、もう大丈夫ってことですか?』
十九歳が訊いた。いい質問である。
「いいえ。灰色は、ここ数日、粉が落ちていないというだけです。割れが止まった証明にはなりません」
私は、そこを続けて書いた。
「粉は、危ないとは教えてくれます。安全だとは、教えてくれません。……安全だと言えるのは、支保を足した人か、点検をした人だけです」
書いて、それから一行だけ足す。
「見つけたのは、あなたです。合格です」
コメント欄が、爆発した。
『合格出た』『検定かよ』『烏口検定一級』
画面の中で、十九歳が固まっている。
『おい。返事』
『……っ、ありがとうございます!』
声が裏返っていた。大峰がカメラに向き直る。
『こいつ、五話の夜、最後まで動けなかったんです。……今日、いちばん最初に気づきました』
湯呑みへ手を伸ばして、伸ばしたまま止める。
三十七年、私は教える側にいたはずである。だが設計課に新人が来なくなって十年以上になる。採用が先に止まり、部門はあとから消えた。渡すあてのないまま、私の持ち物は段ボール二箱で物置にある。
教えるというのは、自分の頭の中の景色を、他人の目の中へ移す作業だ。移してしまえば、こちらには何も残らないような気がして、若い頃は少し惜しかった。惜しむほどのものではなかった、といまなら分かる。移した先で誰かが粉の色を見分けるなら、それは私の中にあったときより、はるかに役に立っている。
いま、私が何も見ていない場所で、十九の子が粉の色を見分けている。
――私は、渡すものを、持っていたのだ。
喉の奥が熱い。茶を飲む。とうに冷めている。
◇
終わりぎわ、見慣れた名前が飛び込んできた。
「烏口さん。一種、受かりました」
モグである。
『えっ、モグさん一種取ったんですか』『おめでとう』『祝』
「筆記と実技です。烏口注意事項を丸暗記したら受かりました。退避壕の扉の回し方、そのまま出ました」
「あれは、試験のために書いたものではありませんが」
私はそこで一拍置く。
「……まあ、受かったのなら結構です」
『照れてる』『じいちゃん照れてる』
「これで、十六層より下の自然区画に入れます」
「入れることと、入ることは、別です。行くときは、必ず先に言うこと」
「言います。絶対、言います」
三秒で返ってくる。この男は、そこが正直でいい。
三か月前、同接八十二人の画面で分岐を左へ行こうとしていた若者が、いま全域の免許を持っている。私は何もしていない。ただ、行き止まりです、と書いただけだ。書いただけのことが、人ひとりの三か月を、こんなふうに変えることがある。
◇
配信が終わったのは、九時前である。
翔真が「今日のじいちゃん、先生っぽかった」と笑って風呂へ行く。千夏が洗い物を終えて帰る。家が、静かになる。窓の外で、秋の虫が代わりに鳴き始めていた。
端末が、もう一度鳴る。大峰である。
「今日はありがとうございました。うちの若いのが、帰りの電車で泣いてました」
私が返事を打とうとすると、続きが来る。
「あと、関係ない話なんですが」
「そういえば大瀑布、今週、妙に静かでしたよ。平日で人が少なかったからかもしれませんが」
指が、止まった。
静か。
あの滝の音を、私は知っている。二十二年前、落ち始めた日から知っている。四十メートル落ちる水の音は、人の少ない日だからといって小さくならない。水は、客を見て流れ方を変えたりしない。
背中を、細い冷たさが伝う。風鈴を仕舞ったばかりの夜だというのに、指先だけが妙に冷えていた。
静かというのは、水にとって、ろくな言葉ではない。




