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15/30

15. 名乗り

 翌朝の食卓は、家族会議になった。


 議題は一つ。名乗るか、名乗らないか。


「反対だったのは、私だからね」


 千夏が、先に自分の立場を置く。この娘は昔から、話す前に自分の位置を言う。母親に似ている。


「二か月ずっと、隠れてなさいって言ってた。でも、状況が変わったの。隠れてるから探されるんだよ。出れば、探す理由がなくなる」


「探す理由がなくなるだけだ。来る人間は、来る」


「来るよ。一回、どっと来る。……でも、一回で済む」


「済まなかったら」


「そのときは、私が怒鳴る」


 娘が真顔で言うので、私は少し笑った。


 迷っているのは、家族に及ぶことである。翔真の学校。千夏の職場。この家の門。名乗れば、それは全部、こちらから差し出すことになる。


 黙っていれば、差し出さずに済む。代わりに、名簿の十六人が疑われ続ける。スーパーの警備をしている、風の道を守った男の職場の電話が、鳴り続ける。


 どちらを取るか、ではない。


 どちらを、私が引き受けるか、である。


「じいちゃん」


 翔真が、味噌汁の椀の向こうから言った。


「俺、名乗ってほしい」


「学校が、面倒になるぞ」


「もうなってる」


 中学一年の顔が、まっすぐこちらを向いている。


「あのさ。じいちゃんが名乗ったら、俺、隠さなくてよくなるんだよ。……俺、隠すの、ほんとは嫌だったんだ。うちのじいちゃんが書いてるんだって、ずっと言いたかった」


 箸が、止まった。


 二か月、この子は「へー」と言い続けていたのだ。教室で、祖父が神扱いされる横で、へー、と。演技がうまくなった、と笑いながら。


 ――言いたかったのか。


 喉の奥が塞がって、私は少し咳をする。年寄りが咳をするのは便利だ。たいていの間が、それで持つ。


「千夏。お前は、どうしてほしい?」


 娘はしばらく黙って、それから湯呑みを置いた。


「私はね、お父さんが三十七年なにしてたか、ちゃんと知らないの。父親の仕事の話って、聞く機会がないまま大人になっちゃうんだよ。……この二か月で、初めて知った。知らない人たちに教えてもらった」


「……そうか」


「だから、お父さんの口から聞きたい。何十万人と一緒でいいから」


 その言い方は、反則である。


 私は老眼鏡を外し、しばらく目のあたりを押さえていた。押さえてから、かけ直す。


 連絡は、その日のうちに入れた。モグに一行だけ送る。


「次の配信で、少し話をさせてください。顔を出します」


 返事は三秒で来た。


「こちらこそ、お願いします。烏口さん。……あの、俺、いま震えてます」


 日曜の夜、八時。


 私は座卓の前に座っていた。翔真が照明の位置を直し、千夏が私の襟を直す。ネクタイを締めようとしたら、孫に止められる。


「じいちゃん、それ堅すぎ。葬式かなんかみたい」


「初対面には、失礼のない格好をするものだ」


「何十万人に初対面するのに、ネクタイで足りると思ってんの?」


 千夏が噴き出し、私はネクタイを外す。結局、いつもの襟のあるシャツに落ち着く。


 画面に、モグの顔が映る。同接は、始まる前から八万を超えていた。


『えー、今日は、その、ゲストが来てくれてます。……いや、ゲストって言い方でいいのかな。あの、コメント欄の、あの人です』


 モグの手が震えているのが、画面の揺れで分かる。


 私は、カメラのほうを見る。


 六十三年生きて、何十万という人に顔を見せる日が来るとは思っていない。三十七年、私の顔は、図面の隅の枠にも載らなかった。


 息を吸う。公団の朝礼で三十七年続けた姿勢に、背筋が勝手に伸びる。


「――元・迷宮公団第七設計課、真柴勲と申します」


 言った。


 言ってから、しばらく何も聞こえない。


 コメント欄が、止まっていた。それから、堰が切れる。


『うわ』『ほんとにおじいちゃんだ』『喋り方が完全に烏口』『生きてる烏口だ』


『三十九年前に埋め戻した人だ』


『毛布の人だ』


『管路の人だ』


 礼が、来る。


 七話のときは、モグひとりの声である。今日は、川ではなく、海だ。文字が流れるというより、下から押し上げてくる。ありがとう。ありがとう。ありがとうございました。


 私は、また、返す言葉を持たない。


 だから、名乗った理由のほうを話す。


「名簿に十七人、名前が出ています。私のほかの十六人は、何も関係がありません。あの人たちは、換気を守ったり、電気を引いたり、軌道を敷いたりしていた人です。第七の中で、皆さんが息をして、灯りの下を歩けているのは、あの人たちの仕事です」


 少し、声が掠れる。


「私が黙っているせいで、あの人たちの勤め先の電話が鳴っています。……それは、筋が違う。だから、出てきました」


『男前すぎる』『泣く』『十六人の名誉のために出てくる六十三歳』


『烏口さん、質問いいですか?』


 モグが、コメントを拾って読み上げる。


『「烏口さんは、魔物への対処も分かるんですか?」』


 私は少し考える。考えて、正直なところを言った。


「魔物のことは、分かりません」


『えっ』


「専門外です。戦い方も、逃げ方の術も知りません。……ですが、逃げ道なら分かります。どこに壕があって、扉がどちらに回って、床がどこまで水に浸からないか。それだけを、三十七年やってきました」


『出た』『これだよこれ』『魔物のことは分かりませんが、逃げ道なら全部分かります』


 その一行が、その夜のうちに切り抜きの題になったらしい。


 配信を終えたのは、九時半である。


 同接は、名乗った瞬間から跳ね上がって、終わるころには四十万を超えていた。肩が凝っている。四十万人に見られるというのは、肩に来るものだ。


「じいちゃん、伝説になったよ」


「お父さん、ちょっと猫背だった」


「猫背は生まれつきだ」


 翔真が騒ぎ、千夏が講評を入れ、私が言い返す。家族というのは、いつでも取材陣より容赦がない。


 玄関のチャイムが鳴ったのは、そのときだった。


 千夏が緊張した顔で立ち上がりかけたので、私が先に出る。


 立っていたのは、大峰旭だった。雨も降っていないのに、髪が濡れている。自転車で来たらしい。


「配信、見ました」


「見られてしまいましたか?」


「真柴さん」


 二十九歳の探索者が、玄関先で背筋を伸ばす。


「うちのクランの顧問に、なってもらえませんか。報酬は言い値で出します。うちの若いのに、あなたの読み方を教えてほしいんです」


 まっすぐだった。断られる前提の顔をしていない、いい申し出である。


「大峰さん。私は、会社の顧問はやりません」


「……はい」


「クランの顧問も、やりません」


 大峰の肩が、わずかに落ちる。


 私は、その肩の落ち方を見てから、続きを言う。


「顧問になると、私の書き込みは、あなたのところのものになる。そうすると、あなたのところと競っている隊は、私の書いたものを読まなくなります」


 顔が、上がった。


「……あ」


「コメント欄は、誰のものでもありません。誰のものでもないから、誰でも読める。……あそこが、いちばん都合がいいんです」


 夜の道に、蝉が一匹だけ鳴いている。夏の終わりの、間の抜けた声だ。


 大峰は、しばらく黙って、それから深く頭を下げる。


「――分かりました。じゃあ、続けてください。ずっと」


「そのつもりです」


 自転車のライトが、坂の下へ消えていく。


 戸を閉めて振り返ると、翔真が廊下の柱の陰から半分だけ顔を出していた。


「じいちゃん、いま、めちゃくちゃかっこよかった」


「聞いていたのか?」


「全部聞いてた」


 孫は、そう言って、少しだけ胸を張る。


 隠さなくていい顔を、二か月ぶりに見た気がした。

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― 新着の感想 ―
ヒモが付くと言葉に色がつくもの。真っ白な背景なら人は安心できる。 これまでに何処から声を掛けられたか、公表してみるのも良いかもしれません。 どう応じたかは全て同じとなりますけど。
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