15. 名乗り
翌朝の食卓は、家族会議になった。
議題は一つ。名乗るか、名乗らないか。
「反対だったのは、私だからね」
千夏が、先に自分の立場を置く。この娘は昔から、話す前に自分の位置を言う。母親に似ている。
「二か月ずっと、隠れてなさいって言ってた。でも、状況が変わったの。隠れてるから探されるんだよ。出れば、探す理由がなくなる」
「探す理由がなくなるだけだ。来る人間は、来る」
「来るよ。一回、どっと来る。……でも、一回で済む」
「済まなかったら」
「そのときは、私が怒鳴る」
娘が真顔で言うので、私は少し笑った。
迷っているのは、家族に及ぶことである。翔真の学校。千夏の職場。この家の門。名乗れば、それは全部、こちらから差し出すことになる。
黙っていれば、差し出さずに済む。代わりに、名簿の十六人が疑われ続ける。スーパーの警備をしている、風の道を守った男の職場の電話が、鳴り続ける。
どちらを取るか、ではない。
どちらを、私が引き受けるか、である。
「じいちゃん」
翔真が、味噌汁の椀の向こうから言った。
「俺、名乗ってほしい」
「学校が、面倒になるぞ」
「もうなってる」
中学一年の顔が、まっすぐこちらを向いている。
「あのさ。じいちゃんが名乗ったら、俺、隠さなくてよくなるんだよ。……俺、隠すの、ほんとは嫌だったんだ。うちのじいちゃんが書いてるんだって、ずっと言いたかった」
箸が、止まった。
二か月、この子は「へー」と言い続けていたのだ。教室で、祖父が神扱いされる横で、へー、と。演技がうまくなった、と笑いながら。
――言いたかったのか。
喉の奥が塞がって、私は少し咳をする。年寄りが咳をするのは便利だ。たいていの間が、それで持つ。
「千夏。お前は、どうしてほしい?」
娘はしばらく黙って、それから湯呑みを置いた。
「私はね、お父さんが三十七年なにしてたか、ちゃんと知らないの。父親の仕事の話って、聞く機会がないまま大人になっちゃうんだよ。……この二か月で、初めて知った。知らない人たちに教えてもらった」
「……そうか」
「だから、お父さんの口から聞きたい。何十万人と一緒でいいから」
その言い方は、反則である。
私は老眼鏡を外し、しばらく目のあたりを押さえていた。押さえてから、かけ直す。
連絡は、その日のうちに入れた。モグに一行だけ送る。
「次の配信で、少し話をさせてください。顔を出します」
返事は三秒で来た。
「こちらこそ、お願いします。烏口さん。……あの、俺、いま震えてます」
日曜の夜、八時。
私は座卓の前に座っていた。翔真が照明の位置を直し、千夏が私の襟を直す。ネクタイを締めようとしたら、孫に止められる。
「じいちゃん、それ堅すぎ。葬式かなんかみたい」
「初対面には、失礼のない格好をするものだ」
「何十万人に初対面するのに、ネクタイで足りると思ってんの?」
千夏が噴き出し、私はネクタイを外す。結局、いつもの襟のあるシャツに落ち着く。
画面に、モグの顔が映る。同接は、始まる前から八万を超えていた。
『えー、今日は、その、ゲストが来てくれてます。……いや、ゲストって言い方でいいのかな。あの、コメント欄の、あの人です』
モグの手が震えているのが、画面の揺れで分かる。
私は、カメラのほうを見る。
六十三年生きて、何十万という人に顔を見せる日が来るとは思っていない。三十七年、私の顔は、図面の隅の枠にも載らなかった。
息を吸う。公団の朝礼で三十七年続けた姿勢に、背筋が勝手に伸びる。
「――元・迷宮公団第七設計課、真柴勲と申します」
言った。
言ってから、しばらく何も聞こえない。
コメント欄が、止まっていた。それから、堰が切れる。
『うわ』『ほんとにおじいちゃんだ』『喋り方が完全に烏口』『生きてる烏口だ』
『三十九年前に埋め戻した人だ』
『毛布の人だ』
『管路の人だ』
礼が、来る。
七話のときは、モグひとりの声である。今日は、川ではなく、海だ。文字が流れるというより、下から押し上げてくる。ありがとう。ありがとう。ありがとうございました。
私は、また、返す言葉を持たない。
だから、名乗った理由のほうを話す。
「名簿に十七人、名前が出ています。私のほかの十六人は、何も関係がありません。あの人たちは、換気を守ったり、電気を引いたり、軌道を敷いたりしていた人です。第七の中で、皆さんが息をして、灯りの下を歩けているのは、あの人たちの仕事です」
少し、声が掠れる。
「私が黙っているせいで、あの人たちの勤め先の電話が鳴っています。……それは、筋が違う。だから、出てきました」
『男前すぎる』『泣く』『十六人の名誉のために出てくる六十三歳』
『烏口さん、質問いいですか?』
モグが、コメントを拾って読み上げる。
『「烏口さんは、魔物への対処も分かるんですか?」』
私は少し考える。考えて、正直なところを言った。
「魔物のことは、分かりません」
『えっ』
「専門外です。戦い方も、逃げ方の術も知りません。……ですが、逃げ道なら分かります。どこに壕があって、扉がどちらに回って、床がどこまで水に浸からないか。それだけを、三十七年やってきました」
『出た』『これだよこれ』『魔物のことは分かりませんが、逃げ道なら全部分かります』
その一行が、その夜のうちに切り抜きの題になったらしい。
配信を終えたのは、九時半である。
同接は、名乗った瞬間から跳ね上がって、終わるころには四十万を超えていた。肩が凝っている。四十万人に見られるというのは、肩に来るものだ。
「じいちゃん、伝説になったよ」
「お父さん、ちょっと猫背だった」
「猫背は生まれつきだ」
翔真が騒ぎ、千夏が講評を入れ、私が言い返す。家族というのは、いつでも取材陣より容赦がない。
玄関のチャイムが鳴ったのは、そのときだった。
千夏が緊張した顔で立ち上がりかけたので、私が先に出る。
立っていたのは、大峰旭だった。雨も降っていないのに、髪が濡れている。自転車で来たらしい。
「配信、見ました」
「見られてしまいましたか?」
「真柴さん」
二十九歳の探索者が、玄関先で背筋を伸ばす。
「うちのクランの顧問に、なってもらえませんか。報酬は言い値で出します。うちの若いのに、あなたの読み方を教えてほしいんです」
まっすぐだった。断られる前提の顔をしていない、いい申し出である。
「大峰さん。私は、会社の顧問はやりません」
「……はい」
「クランの顧問も、やりません」
大峰の肩が、わずかに落ちる。
私は、その肩の落ち方を見てから、続きを言う。
「顧問になると、私の書き込みは、あなたのところのものになる。そうすると、あなたのところと競っている隊は、私の書いたものを読まなくなります」
顔が、上がった。
「……あ」
「コメント欄は、誰のものでもありません。誰のものでもないから、誰でも読める。……あそこが、いちばん都合がいいんです」
夜の道に、蝉が一匹だけ鳴いている。夏の終わりの、間の抜けた声だ。
大峰は、しばらく黙って、それから深く頭を下げる。
「――分かりました。じゃあ、続けてください。ずっと」
「そのつもりです」
自転車のライトが、坂の下へ消えていく。
戸を閉めて振り返ると、翔真が廊下の柱の陰から半分だけ顔を出していた。
「じいちゃん、いま、めちゃくちゃかっこよかった」
「聞いていたのか?」
「全部聞いてた」
孫は、そう言って、少しだけ胸を張る。
隠さなくていい顔を、二か月ぶりに見た気がした。




