14. 実施予定
台風が抜けて四日目に、それは表へ出た。
朝の情報番組が、見慣れた様式を画面いっぱいに映している。年次保安報告。実施状況の欄。
『第七迷宮の点検、三年間「実施予定」――記録上、実施ゼロ』
私は箸を置いた。千夏がテレビの音量を上げる。
出所は、監督局への情報公開請求である。請求したのはwiki勢だった。ノギスの投稿は、いつもどおり味気ない。
「開示された。第七迷宮・年次保安報告、三か年。実施状況欄、すべて『実施予定』。開示決定通知書の写しも上げた。以上」
以上、の二文字が効いている。
その日のうちに、数字が動く。入場者は前年の四割。株は寄りつきで値がつかない。夕方には、営業本部長と保安管理課長が別々の場所で頭を下げる映像が流れた。同じ会社の人間が、別々に謝っている絵ほど、内側の亀裂をよく映すものはない。
監督局にも矛先が向いた。全国十七の迷宮を六人で書面審査している、という事実が、はじめて世間に出る。
『六人で十七ですか。……無理では』
スタジオの誰かが言い、誰も反論しなかった。
昼過ぎ、瀬川から電話が来る。
「真柴さん。あれは、俺じゃありません」
「知っている」
「……即答されると、困りますね」
声が、疲れていた。
「請求したのは外の人たちです。あなたが渡してくれた写しは、まだ俺の机の中にあります。一枚も出していません」
「あんたが出したなら、あんたは終わりだ。終わったあんたには、点検簿が作れん」
電話の向こうで、息を吸う音がする。
「……そういう言い方をされると、こっちは働くしかなくなります」
「働いてください。あんたの会社には、まだ壕が百六十四あります」
「……数えてるんですか?」
「数えるのが、仕事でした」
しばらく、間がある。それから瀬川は、少しだけ笑ったらしい。
「役員会に、点検の再開を上げます。……たぶん、通りません。でも、議事録には残る」
「議事録は、いつか誰かが読みます」
世間の空気は、はっきり変わった。
烏口の言っていた通りだった、と誰もが言う。切り抜きが回り、まとめが作られ、テレビが「コメ欄の主」を三度目の特集にかける。
私は、その空気が、ひとつも嬉しくない。
当たってしまったのだ。第三排水は死んでいて、壕の扉は開かず、連絡坑は落ちていた。私が正しかったのではない。誰も測らなかっただけである。測れば分かることを、三年、誰も測らなかった。
正しさというものが、こんなに不味い。六十三年生きて、初めて知る味である。
――そして、風向きが変われば、風は家にも吹く。
金曜の夕方、翔真が帰ってくるなり、鞄を放り出して言った。
「じいちゃん。校門んとこ、カメラいた」
箸を持つ手が止まる。
「学校の、か」
「うん。二人。先生が追っ払ったけど。……で、みんなが俺のこと見た」
「何か言われたか」
「言われてない。誰も、なんも言わない。それがなんか、いちばんきつい」
孫は、そこで初めて顔をゆがめた。
十三歳が、教室で、誰にも何も言われないまま座っている。その静けさの重さを、私は想像しようとして、うまくできない。私はいつも、坑道の音の話ばかりしてきた。人の教室の静けさを測る物差しを、持ち合わせていないのだ。
「俺、なんも言ってないよ。じいちゃんのことは、一回も」
「知っている」
「……じいちゃん。俺、隠すの、そんなに下手じゃなかったと思うんだけど?」
その言い方が、こたえる。
この子は、二か月、隠し続けていたのである。祖父の名前を。祖父が褒められている場所で、いちばん褒めたい人間が、いちばん黙っていた。
その夜、千夏が食卓に湯呑みを三つ並べる。並べ方が、いつもと違った。話をするときの並べ方である。
「お父さん」
「うん」
「名簿の十七人の中に、お父さんの名前が入ってるんでしょう?」
「入っている」
「昨日ね、その中のひとりの人、勤め先に電話が来たんだって。翔真が見つけたの。OB会の人が、コメント欄に書いてた。元公団の、換気の人。いまはスーパーの警備をしてるって」
湯呑みの中で、茶が揺れている。
私は、その人の顔を思い出そうとした。名前は、たぶん覚えている。換気の班にいた、口数の少ない男だ。私が引いた図面の風の通り道を、四十年、守っていた人である。
その人の勤め先の電話が、私のせいで鳴っている。
「電話、なんて言われたって?」
「『烏口さんですよね』って。三回。断っても、また掛かってくるって」
箸を置いた指が、うまく開かなかった。
「お父さん」
千夏の声が、はっきりと低くなる。
「隠れてるほうが、もう危ないよ」




