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12/30

12. 管制室(前)

 木曜の朝は、風の音で目が覚めた。


 雨戸が鳴っている。庭の紫陽花は葉ばかりになって、その葉が横向きに走っていた。六時。テレビの下に「暴風域」の帯が出ている。


 千夏はもう起きて、湯を沸かしていた。翔真は居間の座卓に端末を三つ並べ、延長コードを引き回している。


「じいちゃん、こっち。縁側は電波が弱いから」


「そうか」


「あとこれ、モバイルバッテリー。停電しても二時間はもつ」


「お前、いつの間に用意した?」


「昨日の夜。……じいちゃん、今日たぶん、長いから」


 孫が、私の段取りを先回りしている。おかしなものだ。三十七年、段取りをするのは私の仕事だった。


 九時四十分、最初の通知が鳴る。


 ノギスである。


「五層観光区画、ツアー客十一人が坑口へ戻れず。同行の配信者が中継中。保安課へは通報済み。烏口氏の判断を求む」


 私は老眼鏡をかけ直し、座卓の前に正座した。膝が抗議したが、聞かなかったことにする。


 中継の画面は、揺れていた。


 明るい坑道である。白い照明、手すり、歩きやすい床。観光整備区画は、迷宮というより地下街に近い。


 ただし、坑口へ戻る通路の途中で、水が横から流れ込んでいる。


『あの、すみません、これ、大丈夫ですかね……上から水が』


 配信者の声が上ずっていた。子どもの泣き声が、後ろで二つ。母親が「大丈夫だからね」と繰り返している。


 私は画面の水を見た。


 濁っていない。落ち葉と土が混じっているが、量は多くない。地表からの流れ込みだ。五層の排水が全部死んでいたら、こんな綺麗な流れ方はしない。


「【所見】〔七-五〕その水は地表からの流れ込みです。坑内の出水ではありません。根拠: 濁りがなく、落ち葉と土が混じっています。坑内の出水なら、もっと赤黒く濁ります」


「【勧告】坑口側の通路は、これから水位が上がります。戻らず、奥へ二百五十メートル。左手に退避壕〈七-五-壕二〉があります」


『奥へ!?』


『子どもがいるんですよ!』


「道は二百五十メートル、平らです。段差はありません。手すりが右手にずっと続いています。子どもの足で、七分です。確度: 私の図面は三年前が最終です。壕の中の現況までは、確かめられません」


 打ちながら、指が勝手に速くなる。


 三十年前、この距離を決めたのは私だ。観光整備の壕は、五百メートルではなく二百五十メートル間隔に詰めてある。子どもと年寄りの足で歩ける距離にしろ、と当時の課長が言った。段差はつけるな。手すりは片側に通せ。照明は非常回路にぶら下げろ。


 誰も見ない仕事である。三十年のあいだ、誰もこの壕を使わずに済んでいる。


 ――使う日が、来てしまった。


 配信者の息の音が、腹を決めた音に変わる。


『わかりました。行きます。みんな、手すり持って!』


 OB会の書き込みが並び始めたのは、そのときだ。


「五層の電気を引いたのは俺だ。非常照明は壕の中も点く。ブレーカーは壕に入って右、腰の高さ」


「壕二の扉は癖がある。下の溝に砂が溜まる。開かなかったら足で溝を蹴れ」


「壕二の水は、俺がいた頃の補充だ。飲めるかは知らん。灯りは手回しがある」


 六人。元公団の、換気と電気と軌道の爺たちである。名乗りもせず、担当区画の記憶だけを置いていく。


 私は、少しだけ手が止まった。


 名簿にも図面にも残っていない知識が、コメント欄に、ぽつぽつと積み上がる。公団の四十年ぶんの現場の記憶は、まだこの世に残っていたのだ。


「ありがとうございます」


 打ってから、これでは足りないと思った。足りないが、ほかに言葉がない。


「じいちゃん。この人たち、誰?」


「昔の同僚だ。……たぶん、半分は名前も知らん」


「知らない人が助けてくれてんの?」


「そういう仕事だったんだ」


 十時十二分、十一人が壕へ入る。


 扉は、案の定、砂で三十センチしか開かなかった。配信者が溝を蹴り、土を掻き出し、それから全開になる。子どもが先に入り、母親が続き、最後に配信者が扉を閉めた。


 壕の中の映像が、コメント欄に流れる。棚の毛布。手回しの灯り。壁の点検票。


 最終記入の日付は、五年前である。


『毛布……あったかい……』


 子どもの声が、マイクに入る。


 その声が、なぜか翔真の五つのころの声に聞こえて、私は湯呑みを取り落としそうになる。畳に置いてから、両手をしばらく膝の上で組んでいた。


「お父さん」


 千夏が黙って、新しい茶を置く。


「顔、真っ白だよ」


「……そうか」


「無理しないでね、とは言わないから。無理して」


 娘の言い方は、いつも斜めから来る。だが、いちばん効く角度から来るのだ。


 十一時五十分、保安課が壕に到達した。十一人、全員が自分の足で坑口を出る。


 コメント欄は、もう祭りだった。『壕二、実在』『烏口ありがとう』『OB会つよい』。


 私は祭りを見ていない。


 もう一つの画面を見ていた。


 十七層。整備区画の下のほうである。配信者三人が、朝から入っていた。三種でも初心者でもない、まっとうな二種持ちの三人組で、装備も悪くない。彼らは五層の騒ぎを知って、自分たちも上がると言っている。


 その画面が、さっきから、動かない。


『あれ?』『固まった?』『十七層の中継、切れてる』


 ノギスの投稿が、一拍遅れて来る。


「十七層、中継途絶。最終受信、十一時四十八分。以後、応答なし」


 画面は、真っ黒だった。


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― 新着の感想 ―
台風の時に田畑や港の様子を見に行く人達と似たようなものかな。あるいは怖い物見たさか。 処置なしですな。
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