12. 管制室(前)
木曜の朝は、風の音で目が覚めた。
雨戸が鳴っている。庭の紫陽花は葉ばかりになって、その葉が横向きに走っていた。六時。テレビの下に「暴風域」の帯が出ている。
千夏はもう起きて、湯を沸かしていた。翔真は居間の座卓に端末を三つ並べ、延長コードを引き回している。
「じいちゃん、こっち。縁側は電波が弱いから」
「そうか」
「あとこれ、モバイルバッテリー。停電しても二時間はもつ」
「お前、いつの間に用意した?」
「昨日の夜。……じいちゃん、今日たぶん、長いから」
孫が、私の段取りを先回りしている。おかしなものだ。三十七年、段取りをするのは私の仕事だった。
九時四十分、最初の通知が鳴る。
ノギスである。
「五層観光区画、ツアー客十一人が坑口へ戻れず。同行の配信者が中継中。保安課へは通報済み。烏口氏の判断を求む」
私は老眼鏡をかけ直し、座卓の前に正座した。膝が抗議したが、聞かなかったことにする。
中継の画面は、揺れていた。
明るい坑道である。白い照明、手すり、歩きやすい床。観光整備区画は、迷宮というより地下街に近い。
ただし、坑口へ戻る通路の途中で、水が横から流れ込んでいる。
『あの、すみません、これ、大丈夫ですかね……上から水が』
配信者の声が上ずっていた。子どもの泣き声が、後ろで二つ。母親が「大丈夫だからね」と繰り返している。
私は画面の水を見た。
濁っていない。落ち葉と土が混じっているが、量は多くない。地表からの流れ込みだ。五層の排水が全部死んでいたら、こんな綺麗な流れ方はしない。
「【所見】〔七-五〕その水は地表からの流れ込みです。坑内の出水ではありません。根拠: 濁りがなく、落ち葉と土が混じっています。坑内の出水なら、もっと赤黒く濁ります」
「【勧告】坑口側の通路は、これから水位が上がります。戻らず、奥へ二百五十メートル。左手に退避壕〈七-五-壕二〉があります」
『奥へ!?』
『子どもがいるんですよ!』
「道は二百五十メートル、平らです。段差はありません。手すりが右手にずっと続いています。子どもの足で、七分です。確度: 私の図面は三年前が最終です。壕の中の現況までは、確かめられません」
打ちながら、指が勝手に速くなる。
三十年前、この距離を決めたのは私だ。観光整備の壕は、五百メートルではなく二百五十メートル間隔に詰めてある。子どもと年寄りの足で歩ける距離にしろ、と当時の課長が言った。段差はつけるな。手すりは片側に通せ。照明は非常回路にぶら下げろ。
誰も見ない仕事である。三十年のあいだ、誰もこの壕を使わずに済んでいる。
――使う日が、来てしまった。
配信者の息の音が、腹を決めた音に変わる。
『わかりました。行きます。みんな、手すり持って!』
OB会の書き込みが並び始めたのは、そのときだ。
「五層の電気を引いたのは俺だ。非常照明は壕の中も点く。ブレーカーは壕に入って右、腰の高さ」
「壕二の扉は癖がある。下の溝に砂が溜まる。開かなかったら足で溝を蹴れ」
「壕二の水は、俺がいた頃の補充だ。飲めるかは知らん。灯りは手回しがある」
六人。元公団の、換気と電気と軌道の爺たちである。名乗りもせず、担当区画の記憶だけを置いていく。
私は、少しだけ手が止まった。
名簿にも図面にも残っていない知識が、コメント欄に、ぽつぽつと積み上がる。公団の四十年ぶんの現場の記憶は、まだこの世に残っていたのだ。
「ありがとうございます」
打ってから、これでは足りないと思った。足りないが、ほかに言葉がない。
「じいちゃん。この人たち、誰?」
「昔の同僚だ。……たぶん、半分は名前も知らん」
「知らない人が助けてくれてんの?」
「そういう仕事だったんだ」
十時十二分、十一人が壕へ入る。
扉は、案の定、砂で三十センチしか開かなかった。配信者が溝を蹴り、土を掻き出し、それから全開になる。子どもが先に入り、母親が続き、最後に配信者が扉を閉めた。
壕の中の映像が、コメント欄に流れる。棚の毛布。手回しの灯り。壁の点検票。
最終記入の日付は、五年前である。
『毛布……あったかい……』
子どもの声が、マイクに入る。
その声が、なぜか翔真の五つのころの声に聞こえて、私は湯呑みを取り落としそうになる。畳に置いてから、両手をしばらく膝の上で組んでいた。
「お父さん」
千夏が黙って、新しい茶を置く。
「顔、真っ白だよ」
「……そうか」
「無理しないでね、とは言わないから。無理して」
娘の言い方は、いつも斜めから来る。だが、いちばん効く角度から来るのだ。
十一時五十分、保安課が壕に到達した。十一人、全員が自分の足で坑口を出る。
コメント欄は、もう祭りだった。『壕二、実在』『烏口ありがとう』『OB会つよい』。
私は祭りを見ていない。
もう一つの画面を見ていた。
十七層。整備区画の下のほうである。配信者三人が、朝から入っていた。三種でも初心者でもない、まっとうな二種持ちの三人組で、装備も悪くない。彼らは五層の騒ぎを知って、自分たちも上がると言っている。
その画面が、さっきから、動かない。
『あれ?』『固まった?』『十七層の中継、切れてる』
ノギスの投稿が、一拍遅れて来る。
「十七層、中継途絶。最終受信、十一時四十八分。以後、応答なし」
画面は、真っ黒だった。




