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10話

 はじめて会った時、緊張して挨拶をしたマツラに少しぎこちない笑みで「これからよろしくお願いします」と返してきたツツジ。


「わからない事があれば何でも聞いてください」


 少し頼りなく見える男の子はケムリとはタイプが違いすぎて、その二人が師弟関係だという事が冗談のように感じた。

 しかしツツジが心底ケムリを尊敬している事は数日一緒にいただけでもすぐにわかり、ケムリのほうもおとなしそうに見えて時に意見する少年をとても可愛がり、頼りにしていてた。

 ケムリにとって自分が留守の時はツツジだけがこの家を守る男子だからかもしれないし、気弱そうな容姿に似合わず意外としっかりしている少年は、師の期待にじゅうぶんに応えているように見えた。


 少なくとも、マツラには。


 だからこそ、あの時「よろしく」と控えめに握手をしてきた兄弟子が、ケムリたちの反対を押し切ってまで、この急な要請を引き受けてしまった事が信じられなかった。


「確かに五老から依頼された任務となると、ぜひとも受けたいという気持ちは痛いほどわかるよ」


 苦い顔で腕を組むケムリの言葉から察するに、そうそうない事なのだろう。

 しかし修行を始めて日も浅く、魔術師としての知識も薄いマツラには、まだぴんとこない。

 いつか自分も五老からの依頼とあれば是が非でも引き受けたいと思うようになる日が来るのだろうかと考えるが、まだそういう未来は想像できなかった。


 最終的に「本人が強く希望しているのなら仕方ない」と折れたケムリはマツラから見てもひどく落ち込んでいて、ユウヒは泣きそうな顔でツツジを止めなかったケムリを一発殴り。

 そんな彼女に「任務が終わったら一番最初に返ってきますから」と告げたツツジの肩に手を置いて、ユウヒは「約束よ」と、まだ頼りなさのほうが目立つツツジの目を優しくみつめた。


 マツラ自身も、もっとツツジと過ごす時間は長いと思っていた。それは漠然としたもので、少なくともこんなに早く分かれる時が来るとは全く思っていなかった。

 カル・デイラに来てからこっち、自分より年下の兄弟子は落ち込むマツラを励ましてくれたし、マツラの知らない事もたくさん教えてくれた。

 マツラの属性が不明な間も、それを明らかにする方法を考えてくれたし、イノシシ事件の時も、まっ先に駆けつけてくれたのはツツジだった。結局自分たちだけでは事後処理など出来なかったが、腰を抜かしたマツラを家まで連れ帰り、「何も問題は無いから、落ち着いてください」と何度も繰り返してくれた。

 ケムリが帰宅するまでの間、ツツジの言葉にどれほど安心させられただろう。

 その後だって、ツツジにとってはずいぶん昔に終えたであろう基礎的な修行にもつきあってくれた。

 これからも魔術師として刺繍をするなら役に立つかもしれないと、色の持つ意味やマツラの知らない各地のお守りの事についても教えてくれた。

 困った時は真っ先に手を差し出してくれる、見た目以上にずっとずっと頼りになる兄弟子。


 思い出せば、マツラが初めて見た魔法らしい魔法は、バケツから浮かせた水を畑に撒くツツジの魔法だった。

 ゆらりと揺らいだ水面が持ち上がり、細かい粒になって畑に降りそそぐ。日の光を反射してきらきらと水滴が光る光景にマツラは感動すら覚えた。

 すごい、と連呼するマツラに困ったように笑うツツジは「僕なんてまだまだです」と言った。

 しかし、他の魔術師たちを知らないマツラにとって、目の前に広がる奇跡として魔法を操るツツジは憧れの存在でもあったのだ。ツツジが師であるケムリに憧れるように。


 そして旅立ちの決まった少年は、マツラのほうを振り向くと、優しい茶色の瞳をわずかに細める。


「マツラさんにひとつだけ、お願いがあるんです」


 マツラに出来る事は少なく、限られている。

 それを知っているツツジの言葉に、どきりと胸が跳ねた。ツツジの言わんとすることが読めるような気がした。


「僕、マツラさんのおまじないが欲しいんです。街で噂の、絶対に効くおまじないが」


 魔術師、マツラ・ワカの最初の仕事として。


「…わかった」


 おまじないは絶対ではない。

 マツラ本人だけではなく、ツツジも理解している事だ。

 それでも、絶対であるはずの奇跡を操る少年は、不確定の“おまじない”を所望した。

 ゆっくりと頷いたマツラはツツジの目をまっすぐに見つめ返す。


「ご依頼、確かにお受けしました」


 直接の依頼人に深々と頭を下げるのは、村にいた頃と同じ。

 多くいるベテランや名の売れた年輩の刺し子の中から自分を選んでくれた相手に対して感謝を込めて。


「幸福の訪れる品を、必ずお届け致します」


 納期はツツジの旅立ち、空が晴れるまで。

 旅立つ兄弟子のために描く模様は既に決まっている。

 旅の安全と、戦いの勝利を願う印。

 どうすればいいのか、制作手順は全部頭に入っている。

 今までと違うのは、依頼を受けた自分がただの村娘ではなく魔術師だという事だけ。

 マツラの脳裏で、しっかりと覚えている模様が淡く光を帯びて展開された。


 ランプの明かりのもとでマツラは手元だけに集中していた。

 止む気配も無く、夜を濡らす雨音や木の葉を揺らす風の音は遠く耳の外に閉め出される。

 刺しては引き抜く針の動きと、その軌跡が描いていく模様が今の彼女の全てだった。

 ツツジの出発は、雨が止んで空が晴れてからだとスコは告げた。

 ビカーに二人乗りするため、最低限の荷物しか持っては行けないと言われ、ツツジは荷造りのため部屋に戻った。

 マツラが父の友だという男に連れられ故郷を出た時も半日の余裕しか与えられなかった事といい、ケムリを始め魔術師はゆったりとした時間で生活しているように見えるが、こと旅立ちというもにに対してはひどく急いでいるように感じる。


 カル・デイラ、魔術師の家の中の空気はどこか落ち着かなく浮つき、ユウヒとケムリはリビングのテーブル、いつもの場所に座って、休まず動くマツラの手元を見つめていた。

 外の雨は、長引く嵐ではない。

 今は弱まる事のない雨足も、明け方には小雨に変わるかもしれない。

 雨があがるまで。

 その納期は言い換えれば最短で明日の朝。

 夜は更けてゆくが、頭の中は冴え渡りマツラは淀み無く針を刺す。

 白いハンカチはそれほど大きくはなく、これまでと同じように図案を描くならばそう長い時間はかからないだろう。

 しかしマツラはそれを良しとはしなかった。


 模様に模様を重ねるように、色を変えて細かな装飾を縫い取っていく。

 そうして、薄かった布が通された糸のぶん重さを増し。描かれたのは一足の靴、そして剣と盾を模した図案。さらにそれを取り巻くのはとりどりの色で描かれた、重なりあい、絡み合う細かな装飾模様。


「できた」


 呟いたとき、外はほの明るく雨はすっかり小雨になっていた。

 座ったままでうとうとしていたケムリとユウヒがマツラの声に目を開ける。


「出来たのかい?」


 目が合って、尋ねたケムリにひとつ頷く。


「はい。あとは、糸を切るだけです」


 まだ最後の針と糸は繋がったままだ。切り離せば、これはマツラの手から旅だっていく。

 箱から取り出したハサミを、最後の糸にあてる。微かな音をたてて糸が切り離されたとき、指先にぴりりと小さく鋭い痛みが走った。

 思わず手を止め、針山に針を戻したマツラは指先を確認するがそこには何の異変もない。

 寝ていないせいで妙な錯覚でもしたのかと首を傾げ、気づいた。

 今の痛みは属性識別のときに糸を持つ右手に感じた痛みと同じものだ。気のせいでもなければ、無意味な痛みという事はないだろう。


 先日テーブルクロスを仕上げた時には無かった現象に、少し慎重になりながら、マツラはツツジに贈るハンカチをテーブルに広げると、皺を伸ばすようにひと撫でした。

 無事にツツジが帰ってこれるように。何事もなく仕事を全うしてこれるように。どうか守ってください。

 そしてその瞬間。

 広げられた正方形の、その中に描かれた色が光を放つ。


「しっ…」


 師匠、と悲鳴に似た声をあげたマツラはとっさに掴んだハンカチを振る。埃を落とすかのごとく、そうすれば放たれる光も振り落とせるとばかりに。

 糸の色を反射させたような光はすぐに消え、目を丸くしたユウヒがケムリとマツラを交互に見た。


「今のは、マツラちゃんの魔法かしら?」


 戸惑いの色濃くこぼれたユウヒの言葉に、マツラも困ったようにケムリに視線を向ける。

 これは魔法なのかと問われても、マツラはそれを行使しようとした訳ではなく答えに困る。


「精霊の加護だ。魔法かと言われれば、間違い無くそうだ。マツラ、それをよく見せてごらん」


 ゆっくりと立ち上がったケムリがのぞき込む形で、再びテーブルに広げられたハンカチを見る。

 その隣に来たユウヒも不思議そうにそれを見つめた。


「私には、テーブルクロスと同じ、立派な刺繍のされたハンカチにしか見えないわ。…さっき光った事を除けばね」

「ユウヒさんは魔法具を見た事はあるかい?」


 ちらりと自分を見たケムリの言葉に、ユウヒは頷いた。


「母さんのナイフが、シイ様の作った魔法具だったわ。ずいぶん昔に、拝借しようとしてひっぱたかれた」


 悔しそうな声にケムリの顔がこわばった。


「…それはユウヒさん、義母上が正解だと思うよ」


 魔法具は正しい持ち主以外が使えば、使った人間に危害が及ぶ恐れもある。武器の類は特に。

 精霊の加護が込められた物をさして魔法具と呼ぶ。

 魔法具を作る事が出来る魔術師は極端に少なく、その代表が土の五老シイ。彼は鍛冶職人としても優れた腕前を持っており、魔法武器の制作にかけては当代一と呼ばれている。


「魔法具を作れるのは、優れた職人だけなんだ。素晴らしい品物には精霊の力が宿る。マツラが職人としても一流だった事は聞いていたが…まさか魔法具が作れるレベルまで到達していたとは」

「でも、こんなの今が初めてですよ」


 伺うように言えば、「それが契約の不思議なところだ」とケムリは腕を組む。


「マツラはツツジの依頼に答えて、これを制作した。きっとこれがミソなんだろうね。ともかく、これはツツジにとって最高のお守りになることだけは、間違いないだろう。やった事は今までと同じだろうが、なんてったって魔法具だ」


 今までおまじないと呼んでいたものよりも、もっと強い力でツツジを守ってくれるはずだ。

 嬉しそうに笑ったケムリが、「よくやった」とマツラの髪をわしゃわしゃ撫でる。

 寝不足の頭に、ケムリの言葉はいまいちしっかりと理解できなかったが、どうやら自分の刺繍は今までよりもレベルアップしたらしいという事だけ把握して、マツラは肩の力を抜いた。


「よかった」


 安心して、くたりと椅子に腰をおろす。

 マツラに出来ることは、ただ刺繍をする事だけ。

 どうやらそれは決して無駄ではなかったらしい。

 ツツジに渡すのは、不確定のおまじないよりもっと確実なもの。

 目に見える魔法という奇跡。陽光にきらきら光る水滴のような、きれいなもの。

 森を薙払う恐ろしく破壊的なものではなく、胸がどきどきする、美しいもの。

 自分にもそういう事が出来たのだと、胸が軽くなった。

 ぷつりと切れた集中の糸がマツラの瞼を重く引っ張り、ぼやけていく意識の中で師の声を聞いた。


「ひとまず、お休み。ツツジの出発前には起こすから。これをツツジに渡すのも君の仕事だ」


 はい、と返事をしたのだと思う。

 しかし、すっきりした頭で目が覚めたとき、マツラはそれを覚えていなかった。


 明けた空は快晴。

 雨に洗われた木々は、ツツジの旅立ちを祝福するようにきらきらと輝いていた。

 闇の中で妖しい光を纏っているように見えたビカーは、陽光を浴びて美しいの金色の輝きを放っている。その傍らのスコも、陽のもとではそれ程不気味には見えない。

 一定の距離を保ちつつも魔獣の輝きに見入るマツラに、ビカーの金色の眼が「文句でもあるか」と言わんばかりにマツラを見やった。

 大きなリュックを背負ったツツジが家から出てきた時は「勘弁してくれ」とでも言いたげな視線をスコに向けていたし、恐ろしげな見た目ではあるが、この魔獣は考えている事が表情に出るタイプのようだ。


「こんなガキ一人増えたくらいでへばるようなタマじゃねぇだろ」


 そして、その視線に答えたスコ言葉に鋭い牙の並んだビカーの口から溜息らしきものが漏れたのを、マツラとツツジは見逃さなかった。


「ツツジ、振り落とされたりしないよね…」

「縁起でもないので、そういうのはやめてください」


 小声のやりとりを聞きつけたらしいスコは「ばかにすんな」と腰に手を当てる。


「ビカーは乗せた人間を間違って落とすような間抜けじゃねぇよ。お前がしっかりしがみついてりゃ、馬なんかの何倍も早く目的地へ着くさ」


 安心しろ、と言われたツツジはそっとスコから視線をそらす。


「今更かもしれませんが、自分の握力が心配になってきました」

「あきらめないで…!」


 言いながら、改めて見るツツジとスコの組み合わせ。

 小柄でか弱そうな少年と頬に大きな傷を持つ鋭い目の男。

 まるで盗賊とさらわれた少女のようだ、と思った事は胸の内に留めておこう。マツラはひとつ頷いた。


 そうこうしている内に昼食に食べなさいと、ユウヒが野菜とベーコンを挟んだパンを二人ぶん包んで持ってくる。

 ツツジがそれを受け取ったのが、合図だった。

 とうとう出発の時だ、と意識させられる。

 ケムリが優しくマツラの背を押し、一歩踏み出した彼女は、ポケットの中から四つに折り畳まれたハンカチを取り出す。

 自分の手の中のハンカチを数秒見つめて、思い切ったようにツツジに差し出した。

 まばたき数回。マツラの手元を見るツツジ。


「依頼の品だよ。受け取って」


 あなたの無事を願って。次にフィラシエルへ帰ってくるまで、守ってくれるように。

 効果があるのかどうかはわからない。

 しかし、効いたのならその時は、今までよりももっと強い力でその効果を発揮するだろう。

 これは、そういう品物だから。


「マツラさん、これは…」


 驚きの表情でマツラを見たツツジは、左右に首を振る。


「ダケ・コシで検品してもらわないと。師匠から聞きました。これは精霊の守護がかかったものだと。本山で検品して合格すれば、マツラさんは魔法具職人として認定してもらえます。だから、僕は受け取れません」


 マツラの手を押し返そうとするツツジ。対してマツラはさらに力を込めてハンカチを押し返した。


「そんなの、次でもいいから。私はツツジの依頼でこれを作ったの。ダケ・コシに持っていくなんて変でしょ。それに、まだ修行を始めたばっかりで魔術師って名乗れるかも怪しいのに。本山に持ち込むなんて図々しいんじゃないかな?」

「マツラさん! 精霊の加護を込めた品を作る事ができる魔術師が、どれだけ重宝されるか!!」


 悲鳴のようなツツジの声。それをはねのけるように、目に力を込めてマツラは強く繰り返した。


「依頼したのはツツジでしょう。私に納品させないつもりなの?」


 村で一番の腕前だと言われた、この私の作った商品を。

 職人の顔で放ったとどめの一言と共に、押し切るようにハンカチを握らされたツツジは、おそるおそる手の中の布を広げてみる。

 一面に施された手仕事に声をあげたのはスコだった。


「こりゃあ立派なモンだ。お嬢ちゃんが作ったのか?」


 こくりと頷くと、顎を撫でながら彼は続ける。


「ツツジへの選別にゃあ少しもったいねぇな。これなら、それなりの値段で売れるぜ?」

「だから売りませんってば。これはオーダー品です。ツツジだけの、ツツジのためのお守りですから」


 ツツジ本人がこれを誰かに渡せばどうなるかはわからないが、今のところは。


「あ、ありがとうございます、マツラさんっ! 僕、これがあれば何でもできる気がします!」


 そう言った声が、ちいさく震えた。


「大切に、します。僕、絶対にここに帰ってきますから」


 泣きそうな、けれど決意を込めた目は赤い。それが彼が一晩どうしていたのかを物語っているようだった。


「行くぞ」と言ったスコにより、ビカーの背に引っ張り上げられたツツジ。


「行ってきます!」


 ごしごしと目をこすった言葉に、ケムリとユウヒが頷き、マツラはじっと少年をみつめる。


「気をつけて。しっかりやるんだよ」

「危ないと思ったら、逃げ出してでも帰ってきなさい。私たちはいつでもここにいるわ」


 ケムリ夫婦の言葉に、照れたように笑うツツジ。


「―――ツツジが帰ってくるまでに私、胸はって魔術師って名乗れるようにがんばるね」


 見上げる緑の瞳にツツジは金色の獣の上から、さらに困ったように笑った。


「マツラさんは、もう魔術師なんですよ?」


 優しく笑った少年に続くように、スコが声をはりあげた。


「しっかり捕まってろ、飛ぶぞ!!」


 ふわり。地面に埃が舞い、駆けだしたビカーの大きな身体が宙に浮いた。

 何か言いかけたツツジが、それに驚きの声を上げると追い打ちをかけるようにビカーは大きな弧を描いてさらに高く駆けあがる。

 馬よりも速く地上を駆け、鳥よりも速く空を往くという金色の獣の姿は、瞬く間に高く上昇していく。

 その背に乗る二人の表情がまだわかるうちに。


「いってらっしゃい!!」


 マツラは声をはりあげた。


 いつかは修業を終えてこの山を出ていく。

 なら、もっとゆっくりしていっても良かったのに。

 少し鼻の詰まった声でユウヒがそう言ったのは、光を反射する獣の姿がすっかり見えなくなった後だった。

 ケムリがそんな妻の肩を優しく叩くのを、マツラは空を見上げる姿勢のまま、音だけで感じていた。


 その日の午後の事だった。


「魔術師と名乗る事にまだためらいがあるのなら、自信がつくまではまじない師と名乗ればいい。君は、ここに来る以前から無意識にそれをしていたんだから」


 ぼんやりと青空を見上げるマツラと、膝の上に猫を乗せ、マツラと同じように空を見ていたケムリがおもむろにそう口を開いた。

 どことなくやる気が起きないのはマツラだけではなく、ケムリとユウヒも同じらしい。

 ひとりぶん静かになった家に、ぽかりと感じる空白がたまらなく寂しかった。


「でもね」


 落ち着いた調子で紡がれる師の声に目をやれば、黒い目がマツラを見ている。


「君はいつだって、まじないを操る魔法使いなんだよ。自分で思っている以上に、いろんな場所に手が届くちからを持っているんだ」


 自信を持ちなさい、と笑みを向けられ唇を結ぶ。

 昔から手先が器用なほうではなかった。

 同じく、それほど器用とは言えない性格でもあった。

 だから、かつて必要に迫られて選んだ刺繍も、誘われて選んだ魔術師という道も、本当ならもっと別の、より良い選択があったのかもしれない。

 だとしても、そこで得てきたものは確かにこの手に宿っているらしく、ケムリはマツラの行う事を評価してくれる。

 自分のできる事に自信を持つ事は難しく、まだそこには至れないけれど。

 仮に他の道があったのだとしても、少なくともこの場所にいる事は間違いではないと思わせてくれる。


「師匠、私は」


 将来の安泰のためだとカル・デイラに来たが、目標が少し変わった。

 今は彼らが緑眼と呼ぶ、この目の色に見合うだけの魔術師になりたい。

 ケムリとツツジは言う。


 マツラはもう魔術師である、と。


 今は、そんなふたりの言葉に恥じない魔術師になりたい。

 マツラの言葉に、ケムリは「そうか」と二、三度頷く。


「それは嬉しいなあ」


 珍しく少し照れたように笑う師の表情に、少し恥ずかしすぎる事を言ってしまったかもしれない、とマツラも照れ笑いをした。



 フィラシエルの片田舎、街から離れた場所に座す山の名はカル・デイラ。

 そこに建つちいさな魔術師の家に住むのは、ひとりの魔術師とその妻。そして彼の弟子は、まだ魔術師と名乗るには少々未熟。

 ゆえに、彼女は自分の特性をさして自らを“まじない師”と名乗り、緑の瞳のまじない師の噂は、じきに魔術師たちの総本山ダケ・コシにも届く事になる。


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