第二十二話 一番得意な魔法は土でした
兄上たちの勉強に混ざるようになってから少し経った。
最初は自分の名前さえ読めなかった。
それが今では手、水、布、壺、台、床。そのあたりならフェルナー先生が順番を変えて指してもほとんど迷わない。
フェルナー先生は本名オスカー・フェルナー。四十二歳だった。細身で茶色の髪にはところどころ白いものが混じっている。顎には短く整えられた髭があり襟元も袖口もいつもきちんとしていた。
兄たちに文字や算術を教える家庭教師で魔法使いでもある。
授業の前には手も洗う。
俺から見てもこの世界ではかなりきれい好きな方だと思う。
「――では、これは?」
「布です」
「こちらは?」
「床です」
「では、書いてみてください」
蝋板へ尖筆を当てる。
もう見本を何度も見直さなくても書ける。
尖筆を動かしていると横から視線を感じた。
ユリウスだった。
数字の課題をしていたはずなのにいつの間にかこちらを見ている。
「……全部覚えたのか?」
「うん」
「この前まで何も読めなかっただろ」
「教えてもらったから」
「それにしても早くないか」
レオルまで羊皮紙から顔を上げた。
二人とも妙な顔をしている。
褒めているようには見えない。
「何?」
「別に――」
ユリウスが俺の蝋板を覗き込んだ。
「じゃあ僕の名前は書ける?」
「名前……?」
「書いてみろよ」
書いた。
たしかこんな感じだったと思う。
ユリウスが黙った。
「……これ、誰?」
「ユリウス兄上」
「一文字も合ってない」
「――え」
横からレオルが覗き込む。
少しして笑った。
「本当に一つも合ってないな」
「じゃあレオル兄上の名前は?」
「書いてみろ」
今度は少し自信があった。
書き終えて顔を上げる。
レオルが蝋板を見たまま黙っていた。
「どう?」
「一文字もない」
レオルまで笑った。
ユリウスは椅子へ座り直しさっきまでより明らかに機嫌がいい。
「まあ三歳だもんな」
「そうだな」
「なんで安心してるの?」
「してない」
「してないな」
「そう……」
手や水の文字なら間違えると困る。兄上たちの名前を間違えたところで何かが混ざるわけでもない。
「アルノ様」
「はい」
顔を上げるとフェルナー先生がこちらを見ていた。
薄い茶色の目が少しだけ細くなっている。
「今、何か失礼なことを考えていませんでしたか」
「考えてないです」
「そうですか」
なぜ分かった。
フェルナー先生はそれ以上追及せず俺の蝋板を手元へ寄せた。
「名前はまた覚えていきましょう」
「はい」
「今日は少し違うことをします」
兄たちも顔を上げた。
「アルノ様の魔法適性を見ます」
尖筆を持った手が止まった。
「――俺の?」
「ええ。旦那様から一度見ておくようにと言われています」
魔法。
文字よりもそちらが気になった。
この世界に魔法があることは知っている。
台所では火を見た。
魔法で出した水も見た。
でも自分が使う側になることはほとんど考えたことがなかった。まだ少し先の話だと思っていた。
「俺も使える?」
「それを調べます」
「これから?」
「ええ」
急に背筋が伸びた。
「分かりやすいな」
ユリウスが笑った。
「何が?」
「さっきまでと顔が全然違う」
「そんなことない」
「違うよ」
レオルまで言う。
フェルナー先生は何も言わなかったが短い髭の下で口元が少し動いた。
否定してほしい。
先生は部屋の隅に置かれていた木箱を開けた。
朝からあることには気づいていた。でも兄たちも気にしていなかったので何かの教材だと思っていた。
中から布に包まれたものが出てくる。
机の上へ置かれ布が外された。
水晶だった。
大きい。
俺の頭より少し大きいかもしれない。
透明な中に細い筋のようなものがいくつも走っている。
「これに触るの?」
「はい。ただし最初から両手では触れません」
フェルナー先生が水晶の前へ立った。
「まずは指先だけです」
人差し指が水晶へ触れる。
奥の方に四つの色が浮かんだ。
赤。
青。
白。
茶。
どれもまだ小さい。
「おお……」
思わず声が出た。
「これが主な四属性です」
先生は蝋板へ文字を書いた。
火。
水。
風。
土。
「赤が火。青が水。白が風。茶が土です」
水晶と文字を交互に見る。
火。
水。
風。
土。
兄上たちの名前よりずっと頭に入ってくる。
「ここから触れる指を増やします」
二本、三本と増えるたび四つの光も少しずつ強くなった。
その中で白だけがほかより大きくなっていく。
掌まで触れた頃には白がはっきりと目立っていた。
「このように触れる範囲を増やして反応を見ます」
「先生は風?」
「そうです」
白い光は澄んでいた。
「大きいほど得意なんですか?」
「大きさだけではありません。色の澄み方や輝きも見ます」
先生が手を離すと白い光がゆっくり消えていった。
「僕もやる」
ユリウスが立った。
「ユリウス様はもう調べていますよ」
「アルノが知らないから」
そう言いながらこっちを見る。
見せたいだけだ。
「僕、水だから」
「――水?」
「そう。見せてやる」
ユリウスが水晶へ指を触れた。
指を増やしていくにつれ青が大きくなる。
「ほら」
掌まで置くと青い光がほかの色よりはっきりと強くなった。
「きれい」
「そうだろ」
それにしても水か。
いいなあ。
ユリウスならもっと澄んだ水を出せるのだろうか。
「僕も」
「レオル様までですか」
レオルが席を立った。
「アルノ。火も見ておけ」
水晶へ触れる。
今度は赤が強くなった。
掌まで置くとほかの色より鮮やかに光っている。
「これが火?」
「そうだ」
レオルは手を離した。
「きれいだった」
「そうか」
レオルの口元が少し上がった。
フェルナー先生が小さく息を吐く。
「もうよろしいですか」
「はい」
「……俺も試したい」
「どうぞ、アルノ様」
先生が水晶の前を空けた。
ユリウスが触った場所を見る。
レオルも触っていた。
二人を見ると揃ってきょとんとした顔をした。
言わないでおこうと思った。
少しくらいなら。
そう思った。けれど無理だった。
「……先生」
「はい。なんでしょうか」
「水晶を拭いてください」
言ってしまった。
ユリウスがすぐに声を上げる。
「おい、アルノ。僕の手は汚れてないぞ」
「分かってる」
「じゃあいいだろ」
「よくない」
フェルナー先生は一度水晶を見てから黙って布で拭いた。
レオルがこちらを見ている。
もう気にしない。
「ではアルノ様。まずは人差し指だけを」
水晶の前へ立った。
できれば水がいい。
さっきユリウスが見せた青い光を思い出す。
「どうぞ」
人差し指で水晶に触れる。
ひやりとした。
その直後に腕の内側がかすかに脈打った。
血が流れるのに似ている。
筋肉が細かくぴくぴくと動く感覚にも似ていた。
けれどどちらとも少し違う。
何かが体の奥から腕を通り指先へ集まっていく。
そのまま水晶へ流れ込んだ。
「……これは何?」
「魔力です」
これが魔力。
自分の中にあったことが妙に不思議だった。
水晶の奥に色が浮かぶ。
赤。
青。
白。
茶。
全部だ。
「四つとも光ってる」
「そうですね」
「全部使える?」
「少なくともすべてに適性はあります」
全部。
悪くない。
火も使える。
水も使える。
風も使える。
土は――まあ使わなければいい。
「次は中指も触れてください」
二本目を添える。
体の中を流れる感覚が少し強くなった。
四つの光も明るくなる。
その中で青が少しだけ広がった。
思わず顔を近づける。
水だ。
以前台所で聞いた話を思い出した。
水の適性が高ければもっと澄んだ水を出せる。
井戸から汲んで煮て冷ます。
今は水を使うだけでも手間がかかる。
もし自分で用意できるようになればリリアのそばで使う水だって今より扱いやすくなる。
「では、三本目を」
指を増やす。
青がまた少し広がった。
よし。
その横で茶も大きくなる。
まだ大丈夫だ。
俺は青い光だけを見た。
「次です」
薬指を触れさせる。
青が広がった。
茶も伸びる。
今度はほとんど同じ大きさになった。
「……え?」
見直す。
変わらない。
茶色だ。
土。
さっきまで考えていた澄んだ水が一瞬で頭から消えた。
庭。
泥。
湿った落ち葉。
虫。
何が混ざっているのか分からないもの。
いや。
まだ青もある。
今は同じくらいだ。
次で変わるかもしれない。
もう一度青を見る。
「小指もお願いします」
指が止まった。心臓が大きく跳ねる。頼むから青が大きくなれ。そう願いながら小指を触れさせた。
茶が――青を越えた。
「……」
開いた口が塞がらない。
「……先生」
「そのままで大丈夫です」
フェルナー先生は俺ではなく水晶を見ていた。
光を追う目がさっきまでと違う。
嫌な感じがした。
「次は掌まで触れてください」
したくない。
けれどここで離しても結果が変わるわけではない。
ゆっくり手を開いた。
掌が水晶へ触れる。
体の中を流れていたものが一気に太くなった。
茶色が水晶の中へ広がる。
青が押しやられていく。
もう考える余地もなかった。
土だ。
よりによって一番触れたくないものだった。
しかも光は止まらない。
茶色から少しずつ濁りが抜けていく。
やがて透き通った琥珀色になった。
フェルナー先生の目が見開かれた。
レオルもユリウスも水晶を見たまま動かない。
何かがおかしい。
でも俺にはそれどころではなかった。
琥珀色になっても土は土だ。
「アルノ様」
フェルナー先生の声がわずかに震えていた。
「反対の手も置いてください」
今度こそ本気で嫌だった。
それでも先生の顔を見ると断っていい雰囲気ではない。
レオルもユリウスも黙っている。
もう片方の手を持ち上げた。
指先が水晶へ触れる。
体の奥で何かが大きく脈打った。
両腕を通り掌へ流れていく。
ゆっくり手を開く。
両方の掌が水晶へ触れた。
その瞬間だった。
琥珀色から最後の濁りが消えた。
金色。
眩しい光が水晶の奥まで満たしていく。
部屋の中が沈黙した。
ユリウスは口を開いたまま動かない。
レオルも水晶から目を離さない。
フェルナー先生の顔から血の気が引いていた。
壁際に控えていた侍女たちから小さなどよめきが漏れる。
「……金色」
誰かが呟いた。
それだけで金色がただ珍しいだけではないことは分かった。
でも俺には何がすごいのか分からない。
周りはみんな青ざめている。
俺もたぶん同じような顔をしていた。
ただ理由が違う。
みんなは金色を見ている。
俺にはその向こうに土しか見えない。
爪の間に入る土。
泥。
虫。
微生物。
掘ると何かがうじゃうじゃいる。
そんなものが自分には一番向いているらしい。
ありえない。
絶対に無理だ。
「……素晴らしい」
長い沈黙のあとフェルナー先生が声を上げた。
普段の落ち着いた声からは想像できないほど上ずっている。
「これほどの土属性への適性は私も見たことがありません」
素晴らしい。
何がだろう。
先生はそのあとも何か言っていた。
レオルもユリウスも黙ったままだった。
ほとんど耳に入らない。
目の前ではまだ金色が輝いている。
綺麗なのに少しも嬉しくなかった。
「……いやだ」
ゆっくり両手を離した。
水晶を満たしていた金色が少しずつ薄れていく。
やがて何もなかったように透明へ戻った。




