第三十六話 隣で笑う人
# 第三十六話 隣で笑う人
初めてキスをした次の日。
にちかは、朝からずっと落ち着かなかった。
鏡を見て。
「普通」
って自分へ言い聞かせる。
でも無理だった。
昨日の感触を思い出すたび、心臓がうるさくなる。
会社のビルが見えてくる。
途端に緊張が増した。
今日、どんな顔で会えばいいんだろう。
普通?
恋人っぽく?
いや、無理だ。
絶対無理。
「おはよ」
フロアへ入った瞬間。
いつもの声が聞こえる。
反射的に顔を上げる。
かずま。
目が合う。
その瞬間。
昨日のキスが頭へ蘇って、にちかの思考が止まった。
「……っ」
慌てて視線を逸らす。
すると。
隣から、小さく笑う声が聞こえた。
「お前、朝からかわいすぎだろ」
「……うるさいです」
声が小さくなる。
かずまはそんなにちかを見ながら、すごく嬉しそうに笑っていた。
午前中。
にちかは完全に仕事へ集中できなかった。
隣から聞こえる声。
ペンを持つ手。
笑うタイミング。
全部意識してしまう。
しかも今日は。
目が合うたび、かずまがちょっと嬉しそうなのが腹立たしい。
「にちかくん、これお願い」
先輩に資料を渡される。
「はい!」
勢いよく返事をしてしまい、周囲が少し笑った。
「あれ、今日元気じゃない?」
「なんかいいことあった?」
終わった。
絶対顔に出てる。
にちかは慌ててパソコンへ視線を戻す。
すると。
隣から、小さな声。
「隠せてない」
「……かずまのせいです」
思わず返す。
かずまが一瞬固まったあと、吹き出した。
「待って、それやばい」
「何がですか」
「今の、“恋人”って感じした」
その言葉に、また顔が熱くなる。
昼休み。
二人は自然に外階段へ向かった。
前と同じ場所。
でも、今はちゃんと恋人同士。
かずまは隣へ座ると、小さく息を吐いた。
「幸せだな〜……」
ぽつりと落ちた声。
にちかは隣を見る。
かずまは空を見上げながら、少し笑っていた。
「好きなやつが、ちゃんと隣で笑ってくれてる」
胸がぎゅっと締め付けられる。
前は。
自分が逃げてばかりだった。
ちゃんと返せなかった。
でも。
今は違う。
にちかは少しだけ勇気を出して、小さく言った。
「……これからは、ちゃんと言います」
かずまがこちらを見る。
「何を?」
にちかは少しだけ恥ずかしくなりながら、それでも逃げずに笑った。
「好きってことです」
その瞬間。
かずまが、片手で顔を覆った。
「……無理」
「え」
「幸せすぎて無理」




