第三十五話 はじめてのキス
# 第三十五話 はじめてのキス
その日の帰り道。
にちかは、ずっと落ち着かなかった。
“今日はいいや”
かずまはそう言った。
無理に進めようとはしなかった。
それが、かずまらしいと思う。
優しくて。
ちゃんと待ってくれる。
でも。
その優しさに甘えてばかりだった自分を、にちかは知っていた。
駅の改札が近づく。
このまま別れたら、多分また後悔する。
そんな気がした。
「……かずま」
名前を呼ぶ。
かずまが足を止めた。
「ん?」
夜風が静かに吹く。
周囲には人がいる。
でも、不思議とその瞬間だけ二人しかいないみたいだった。
にちかは、指先をぎゅっと握る。
怖い。
でも。
今度は、自分からちゃんと返したかった。
「……今日、いいです」
かずまが目を瞬かせる。
「え」
「その……」
顔が熱い。
逃げたくなる。
でも、逃げたくなかった。
「……キス」
言った瞬間。
かずまが完全に固まった。
数秒。
本当に数秒、何も言わなかった。
それから。
「……にちか、それ反則」
低い声で呟く。
耳まで赤い。
そんな顔を見た瞬間、少しだけ安心する。
緊張しているのは、自分だけじゃない。
かずまはゆっくり息を吐いて、静かに聞いた。
「……ほんとにいいの?」
優しい確認だった。
無理させないように。
怖がらせないように。
そんな声。
にちかは小さく頷く。
「……したい、です」
声は震えていた。
でも、本音だった。
かずまが、少しだけ近づく。
逃げないように。
怖がらせないように。
昔からずっとそうだ。
この人は、いつも自分を待ってくれる。
にちかは目を閉じた。
次の瞬間。
唇へ、柔らかい感触が触れる。
一瞬だけ。
本当に、一瞬だけのキス。
でも。
胸が苦しくなるくらい、幸せだった。
離れたあとも、心臓が全然落ち着かない。
にちかは顔を上げられなかった。
すると。
「……やば」
かずまが小さく笑う。
「俺、今めちゃくちゃ幸せかも」
その声が、少し震えていた。
にちかは胸の奥がじんわり熱くなるのを感じながら、小さく呟いた。
「……俺も」
かずまが驚いたみたいにこちらを見る。
そして。
どうしようもなく嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間。
にちかは思った。
ちゃんと伝えたら。
こんな未来も、あったんだ。




