第三十三話 帰りたくない
# 第三十三話 帰りたくない
「お疲れさまでしたー」
定時後のフロア。
一人、また一人と社員が帰っていく。
にちかはパソコンを見つめたまま、小さく息を吐いた。
今日は、全然集中できなかった。
原因はわかっている。
机の下で指を触れてきた恋人が、隣にいるからだ。
「にちか」
小さく名前を呼ばれる。
顔を上げると、かずまがこちらを見ていた。
「帰れる?」
「……あと少しです」
「待ってる」
当然みたいに言う。
前からそうだった。
でも。
“恋人”になった今、その言葉の意味が全然違う。
胸が熱くなる。
「……先帰ってもいいですよ」
「やだ」
即答。
にちかは思わず少し笑ってしまう。
すると、かずまが嬉しそうな顔をした。
「最近よく笑うよな」
「……そうですか」
「うん」
かずまは椅子へもたれながら、小さく笑った。
「前より、ちゃんと嬉しそう」
その言葉に、胸がぎゅっとなる。
前。
好きなのに、怖くて逃げていた頃。
今思うと、自分でも苦しくなるくらい不器用だった。
三十分後。
二人は会社を出た。
夜風が少し気持ちいい。
「腹減った〜」
かずまが伸びをする。
「今日、なんか食って帰る?」
「……いいんですか」
「恋人と飯食いたい」
さらっと言う。
にちかは反射的に視線を逸らした。
まだ慣れない。
恋人って言葉も。
こういう真っ直ぐな言葉も。
駅前の小さな定食屋。
カウンター席へ並んで座る。
前も来た場所。
でも今日は、全部違って見える。
「にちか」
「……はい」
「今、何考えてる?」
急な質問だった。
にちかは少しだけ考える。
前なら、多分誤魔化していた。
でも。
ちゃんと返したい。
そう思った。
「……帰りたくないなって」
言った瞬間。
自分で言って、自分で顔が熱くなる。
かずまが完全に固まった。
「……え」
「……忘れてください」
「無理」
即答だった。
かずまは顔を覆いながら、小さく呻く。
「待って、それ急に言うじゃん……」
耳まで赤い。
その反応が嬉しくて。
にちかは少しだけ笑ってしまった。
すると。
かずまが、ゆっくりこちらを見る。
その目が優しくて、真っ直ぐで。
胸が静かに熱くなる。
「……俺も、帰したくない」
その一言に。
にちかの心臓は、また大きく跳ねた。




