ep7 色彩のない世界
【新生歴一二〇年刊・歴史編纂書『五星の鎮魂歌』 第二章 冒頭より抜粋】
歴史家はしばしば、「星の渇き(スター・サースト)」を「枯渇」という言葉で表現する。
だが、実際にその時代を生きた者たちの感覚は少し違う。
それは「消失」だった。
水がなくなるのではない。水を水たらしめていた「概念」が、世界からそっと引き抜かれるのだ。
花は枯れるのではなく、色を失ってガラス細工のように砕け散る。
風はそよぐのではなく、空間の裂け目を埋めるようにただ真空へと吸い込まれていく。
我々は、穴の開いた水瓶の中に住んでいたのではない。水瓶そのものが、底から溶け出していることに気づかずにいたのだ。
その「灰色の地獄」を歩くことがどれほどの苦痛であったか。
当時の記録の多くが欠落しているのは、筆が乾いたからではない。
記すべき「希望」という文字を、誰も思い出せなくなっていたからである。
——ミア・エーテルガルド著『五星の鎮魂歌』より
*
世界は、死に化粧を済ませていた。
王都アル・レイスを脱出して三日目。
ローラン・ヴァロアの深い藍色の瞳を埋め尽くしているのは、見渡す限りの「白」と「灰色」だけだった。
そこは、地図の上では『西の荒野』と記されている場所だ。
かつての彼は、この地を何度か馬で駆けたことがある。乾燥に強い灌木が茂り、季節になれば黄色の花が絨毯のように咲き乱れた素朴な土地だった。旅人たちが喉を潤した湧き水もあり、街道沿いには小さな宿場町も点在していたはずだった。
だが今の彼の目の前にあるのは、漂白された骨のような大地だけだ。
ザリッ、ザリッ……。
足裏から伝わる感触は、土の柔らかさではない。
乾ききって砂状になった岩石と、色を失った植物の残骸を踏み砕く、不快な硬さ。
空を見上げても、太陽は薄い雲の向こうで白内障を患った瞳のように濁り、輪郭を失っている。
風が吹いても、それは「風」というより、乾いた紙をこするような音しか立てなかった。かつては木々の葉を揺らし、鳥の羽を翻したはずの空気が、今はただ真空へと吸い込まれていくだけだ。
(重い……)
六十二歳という肉体にかかる重圧を、ローランは静かに推し量っていた。
彼が背負っている荷物は、三日分の食料と水、そしてノアが持ち出した数冊の書物だ。通常であれば造作もない重量である。だが、この『星の墓標』――地中のエーテルコアが完全に枯渇した死帯では、空間そのものが貪欲な獣のように、歩く者から「熱」を奪い取っていく。
「……はぁ、はぁ……っ」
背後で、荒い呼吸音がした。
布が擦れる音と、重い足取り。イリア王女だ。
彼女の姿は、この灰色の世界においてあまりに痛々しい「異物」だった。
逃げ出した夜のままの上質なシルクのドレス。かつては鮮やかな瑠璃色を誇っていたであろうその生地は、今や泥と灰にまみれている。
自らの手で乱暴に引きちぎった膝丈の裾からは、無数の切り傷と血の跡が刻まれた白い足が剥き出しになっていた。王宮の磨かれた大理石の上を歩くために作られた華奢な革靴は、岩場の凹凸に耐えられず、踵がひしゃげている。
一歩ごとに、激痛が走っているはずだった。
それでも彼女は、唇を血が滲むほど噛み締め、決して泣き言を漏らさない。二度と崩れ落ちないと誓った意地だけで、己の足を前に運んでいる。
その強がりな横顔は、かつてローランが帝王学を授けたあの青年――鉄鋼皇帝ヴァルガスのかつての姿に、残酷なほど似ていた。
「イリア様、もう少しです。あそこの岩陰まで行けば、少し風が避けられます」
ローランは立ち止まり、背中を支えるように手を差し伸べた。
純白の髪には灰が積もり、整えられていた口髭も乱れているが、老騎士は力強く微笑んで見せた。自分が昨日から一滴も水を飲んでいない事実など、微塵も悟らせないように。
「……わかって、います……。これくらい、なんてこと……」
イリアは強がろうとしたが、言葉は乾いた咳となって途切れた。
喉が張り付いているのだ。
「喋らないでください。口を開くと、体内の熱が逃げます」
前方を歩いていたノアが、振り返ることなく淡々と言い放った。
ローランは僅かに目を細める。ノアの視界には、イリアの口元から立ち昇る白い湯気のようなものが視えているのだろう。生命を維持するための微量な熱が、大気中の「渇き」に吸い取られ、霧散していく光景が。
「この空間が熱を奪う速さは異常です。これ以上、無駄な脈動を繰り返せば、イリア様の『形』が保てません」
その声は冷たく響いたかもしれない。
普通の人間が聞けば、血も涙もない暴言に聞こえるだろう。だが、ローランは彼女の言葉が一切の修飾を排した「純粋な事実の提示」であることを理解していた。
「……ノア。言い方があるだろう」
それでも、ローランは低い声で窘めた。
事実がどうあれ、人は正論だけでは歩けない。心を温めるための非合理が必要な時もある。
ローランは腰の水筒を外した。チャプ、とあまりに軽い音がした。
彼はそれをイリアの口元に運ぶ。
「さあ、イリア様。少しだけ含んでください。……一気に飲んではいけませんぞ」
イリアは震える手で水筒を掴み、貪るように口をつけた。
こくり、という喉の鳴る音が、静寂な荒野に響く。それは、生命が必死に生にしがみつく音だった。
数口飲んで、ローランが優しく水筒を取り上げる。
イリアは名残惜しそうに水筒を目で追ったが、すぐにハッと我に返り、己の浅ましさを恥じるかのように俯いた。
「……ごめんなさい、ローラン。私だけ……」
「謝罪は無用です。貴女様が生きておられること、それが今の我々の勝利なのですから」
ノアは無言のまま、二人のやり取りを見つめていた。
戦力として最も重要なローランが倒れれば、非力な少女二人は数時間と持たない。その非効率な自己犠牲を、あの理知的な瞳はどう評価しているのか。ローランには分からない。
「……行きましょう。立ち止まっていると、地面に熱を奪われます」
ノアは再び歩き出した。
彼女の足取りは、イリアに比べて遥かに軽い。彼女はただ頑丈なわけではない。ローランには見えないが、彼女だけがこの灰色の世界に隠された「見えない道」を歩いているのだ。
空間に薄く焼き付いている光の痕跡――かつて生命力が豊かだった場所の残り香を辿り、「渇き」が緩い場所を正確に踏みしめている。
「私の足跡の上を歩いてください。少しは楽なはずです」
先導するその小さな背中に、ローランは密かな畏敬の念を抱いていた。
『白紙の魔導書』の綴り手。彼女がこれからどんな物語を世界に描くのか、この老いぼれた目で見届けてみたいと、純粋にそう思った。
ふと、風が止まった。
乾いた紙をこするような音すら消え、世界が完全な真空に落ちたような錯覚。
長年、修羅場を潜り抜けてきたローランの背筋を、氷のような悪寒が駆け上がった。
灰色の地平線の彼方。陽炎のように揺らぐ大気の澱みの中に、意志を持って動く不規則な影が現れた。
「……ノア。何か、見えたか」
ローランが低く尋ねる。ノアは立ち止まり、父の形見である古びた眼鏡をかけた。
「前方、十一時の方向。距離およそ三百歩。……人影が三つ。いいえ、四つ」
ノアの平坦な声に、微かな緊張が混じる。
「ただの人ではありません。……星の形が、ひどく歪です。彼らを構成する光に、人の尊厳も理性もありません。あるのは……ひどく醜い『飢え』の脈動だけです」
ローランが短く舌打ちをし、イリアを自身の背後へと隠した。
ジャリ……ジャリ……と、不規則な足音が灰色の霧の中から近づいてくる。
それは、獲物を見つけた獣が、涎を垂らしながら距離を詰める音だった。
現れたのは四人の男たち――かつてはそうであったものたちだ。
身に纏っているのは風化した野盗のボロ布だが、彼らの肉体そのものが、禍々しい色彩を放っていた。
先頭の男は、左肩から顔の半分にかけてが、巨大な紫水晶のような結晶に覆われていた。皮膚が硬質化したのではない。肉を突き破り、骨を苗床にして、鋭利な結晶が花のように咲いているのだ。
眼球があったはずの眼窩には多面体の結晶が埋め込まれ、それがギョロリと動いて光を乱反射させる。
二人目の男は右腕が異常に肥大化し、指の一本一本が長い水晶柱となって、地面を引きずるたびにキチ、キチ、と不快な音を立てていた。
星被。
過剰なエーテル枯渇にさらされ、魂の器である肉体が「星の結晶」へと侵食されていく病理。
「ヒ……ヒィィ……ッ」
「……石ダ……。石、ヨコ、セ……」
壊れた絡繰のように途切れ途切れの言葉。
怪物の濁った視線が、イリアの胸元にある光を失ったペンダント――微かな星の残滓に向けられているのを、ローランは見逃さなかった。
彼らは知性を失ってなお、己の渇きを癒やす糧を求めて彷徨う純粋な飢餓の権化だ。
「お下がりください、イリア様。……決して、私の背から出られませぬよう」
ローランは静かに告げ、腰の剣を抜いた。
塔での戦いで半ばから折れ、刃こぼれだらけの鉄塊になり果てた愛剣。己の体内にある熱も底を突き、身体強化の術も使えない。
勝算など、万に一つもない。
だが、そんな計算は騎士の誇りの前では意味を為さなかった。
(剣が折れていようと……盾にはなれる)
ローランは深く腰を落とし、灰色の地平から這い寄る絶望に向かって、静かに正眼の構えをとった。
(第7話 完)




