ep8 星被の襲撃
灰色の砂嵐の向こうから、ズルリ、ズルリと重い足を引きずりながら現れる四つの異形。
それを見た瞬間、ローラン・ヴァロアの頭の中に極めて冷徹な予測が弾き出された。
(……勝機は、皆無)
過去四十年にわたり、彼は数多の死線に立ってきた。異民族との国境紛争、王都での叛乱鎮圧、時には巨大な魔獣を相手に剣を振るったこともある。その経験から導き出された現在の戦況は、絶望という言葉すら生温いものだった。
対してこちらの戦力は、すでに体内の熱が底を突き、脇腹に深手を負った老兵が一人。あとは戦う術を持たない少女が二人だけだ。
しかもここは、大気中のエーテルが完全に消失した死帯。星法による支援や回復、強力な身体強化の術は一切望めない。乾いた灰が喉にへばりつくような、ただ息をするだけで肺の奥が焼け焦げるような死の領域である。
通常であれば、即座にイリア王女を抱え、逃走のための道筋を探るべき局面だ。
だが、逃げ道などどこにもない。敵は疲労を知らぬ純粋な飢餓の権化であり、この死帯の「渇き」と完全に同化している。背を向ければ、数秒後には背中から心臓を抉り出されるだろう。
ローランは折れた愛剣の柄を握り直し、己を完全な「盾」と化すべく静かに呼吸を整えた。
ひしゃげた白銀の甲冑。悲鳴を上げる老いた関節。それでも彼がそこに足を広げて立つだけで、空間に「不落の白壁」と呼ばれる強固な領域が形作られる。長年の血の滲むような鍛錬によって磨き上げられた、武の型だ。
だが、その背後で震えながら守られているはずのノアが、不意にローランの横へと並び立った。
彼女は吹き荒れる乾いた風に亜麻色の髪を打たれながら、静かにまぶたを閉じる。
「ノア、何を……ッ!」
制止の声を上げたローランの隣で、ノアは再びその眼を開いた。
朝焼けの境界線を思わせる彼女の碧眼。その深いサファイアブルーの虹彩の中に、金色の星図の紋様が浮かび上がり、チリ、と微かな音を立てて回転を始めている。
「……ひどく、醜い形です。見ていて吐き気がするほどに」
ノアは、同情とも嫌悪ともつかない、酷く平坦な声で呟いた。
「え……?」
恐怖にすくみ上がり、ローランの背後に隠れていたイリアが、涙目のままノアの横顔を見上げる。
「見えませんか、イリア様。ローラン。彼らの形は、めちゃくちゃです」
ノアは空中に細い指を走らせ、見えない因果の線をなぞる仕草をした。
「本来あるべき『人間』という器の隙間に、強制的に『星の結晶』という異物が縫い込まれています。その致命的な歪みを解消しようとして、命の脈動が暴走し、自らの肉体を内側から焼き切っている。……彼らは、ただ存在しているだけで、全身の骨を万力で粉々に砕かれるような激痛を感じているはずです」
だから、狂うのだ。
その終わりのない激痛を、他者の光を喰らうことでしか、一時的にでも紛らわせることができないから。彼らは加害者である以前に、星の渇きに弄ばれた哀れな犠牲者だった。
「そ、そんなこと……知ったことじゃないわよ! あいつらは、私たちを殺そうとしてるのよ!?」
イリアが悲鳴のように叫ぶ。
当然の反応だ。明確な殺意と飢餓感を持って迫りくる暴徒に対し、そのいびつな形の苦痛を慮る余裕など、常人にはあるはずもない。
「理屈で敵が倒せるものか! 奴らはもう人間ではない、ただの飢えた獣だ!」
ローランは鋭く一喝した。
ノアの言葉は、常人には理解の及ばない「星図の観測」なのだろう。だが、戦場において敵の痛みに寄り添う暇など一秒たりともない。
その言葉が終わるより早く、先頭にいた星被の一体が地を蹴った。
(速い……!)
ローランは目を見張った。
人間の肉体が出せる速度を、遥かに超えている。無理やり埋め込まれた濁ったコアが、命の限界を強制的に超えさせているのだ。筋肉の繊維がブチブチと千切れる音を響かせながら、怪物はローランの懐へと砲弾のように飛び込んできた。
人間の三倍以上に肥大化し、岩のように硬化した紫水晶の右腕が、必殺の槍となって真っ直ぐに突き出される。
ガギィィンッ!
ローランの折れた剣が、その刺突を辛うじて受け流す。
だが、その拳はただの肉ではなかった。純粋な鉱物の重さと異常な加速が乗った一撃は、老騎士の痩せた腕の骨を容赦なく軋ませる。
「ぐぅぅ……ッ!」
ローランの巨体が、後方に数メートルも押し込まれる。岩肌にブーツの底が削られ、火花が散った。腕の痺れが首筋まで抜け、視界が一瞬白く飛ぶ。
ローランの剣術は、力の流れを見切り、最小の動きで最大の効果を生む「洗練された法則」だ。しかし、目の前の怪物は違う。自らの骨が砕けようが肉が裂けようがお構いなしに、ただ一直線に「破壊の線」を引いてくる。
自壊を前提とした純粋な暴力の前に、正しい剣術の軌道が生々しく押し潰されていく。
「化け物め……なめるなッ!」
ローランは気迫の咆哮と共に剣を強引に弾き返し、怪物のガラ空きになった胴体へ、鋼鉄のブーツで渾身の蹴りを叩き込んだ。
ドゴォッ! と鈍い音が響き、星被の肋骨が粉々に砕ける。怪物は数メートル後方へと鞠のように吹き飛び、灰色の砂煙を派手に上げた。
見事な一撃だった。だが、息を荒らげるローランの横顔に安堵はない。
吹き飛んだ怪物は、すぐに四つん這いになって立ち上がった。砕けたはずの胸部から、チリチリと不気味な音を立てて新たな紫水晶が毒キノコのように増殖し、傷口を強引に塞いでしまったのだ。
「……不死身か。冗談ではない」
ローランの額を、冷たい脂汗が伝う。
その絶望的な光景を合図にしたかのように、残る三体の星被が、左右と頭上から同時に襲いかかってきた。それぞれが鋭利な結晶の刃と化し、一切の躊躇なく死の雨を降らせてくる。
「ローラン! 右への踏み込みは危険です! 膝の形が耐えられません!」
背後からノアの叫び声が響いた。
事実だった。ローラン自身、とうに右膝の限界を悟っている。だが、理不尽な軌道で迫る三方向からの同時攻撃を捌くには、もはや定石通りの「防衛の形」は完全に破綻していた。
四本の結晶化した腕が、ローランの形作った「不落の白壁」を暴力的に引き裂く。
(……ああっ!)
激痛に顔を歪める視界の端で、ノアが必死に空中に指を走らせているのが見えた。彼を守るための星座を、虚空に綴ろうとしている。
だが、何も起きない。
彼女の描いた光の軌跡は、空中で一瞬またたくものの、すぐに灰色の風に掻き消されてしまう。世界に新たな物語を編み上げるための「熱」が、彼女の指先にまだ満ちていないのだ。対象の形が複雑に動きすぎる。計算の時間が足りない。
「がぁッ……!」
血しぶきが舞い、ローランは遂にその場に膝をついた。
左肩の関節が外れ、脇腹の装甲が紙のようにひしゃげ、肉が深く裂ける。星法を使えぬこの空間では、血の流れを止める術はない。それはそのまま、彼の命の熱が急速に失われていくことを意味していた。
「ローラン!」
背後で、イリアが悲鳴を上げた。彼女は自分の身の危険も顧みず、倒れ伏した老騎士のもとへ駆け寄ろうとした。
「来ないでください! ……お逃げ……を……」
ローランは血に染まった右手でそれを制する。
最大の障害を排除した星被たちは、ゆっくりと首を巡らせた。
その濁りきった視線は、立ち尽くすノアではなく、背後で震えているイリアへと固定されている。正確には、彼女の胸元にある光を失った精霊結晶に。
「……イシ……ソレハ……オレノ……」
粘着質で、底知れぬ飢餓感を孕んだ響き。
星被たちが、一斉にイリアへと跳躍の姿勢をとる。ふくらはぎの筋肉が異常に膨張し、岩盤を踏み砕く。
(……お逃げください、イリア様!)
声にならない叫びをローランは心の中で上げた。
イリアの足が、恐怖で後ろへ下がろうとするのが見えた。喉が干からび、悲鳴すら声にならないのだろう。膝が小刻みに震え、今にも崩れ落ちそうだった。無理もない。温室で育った十四歳の少女が直面するには、あまりにも残酷な死の恐怖だ。
だが、その時。彼女は足元に転がっていた『泥』を見て、ハッとしたように動きを止めた。
王都を脱出したあの夜、泥だらけになりながらも彼女が見せた凄絶な決意の横顔を、ローランははっきりと覚えている。
もう二度と、這いずり回って泣き言を漏らすような真似はしない。そう誓った誇り高き王女の魂が、すんでのところで恐怖をねじ伏せたのがローランにはわかった。
「……渡さない」
イリアは後ずさるのをやめた。
両手でペンダントを胸の奥に強く握りしめ、ボロボロになった靴で大地を力強く踏みしめる。その眼には大粒の涙が溜まっていたが、彼女は誇り高き王族としての意地で、化け物たちを睨み返した。
「これは、私のお父様のものよ! アルカディアの誇りよ! 絶対に、渡さない……ッ!」
少女の悲痛な叫び。だが、その気高い拒絶が、皮肉にも星被の狂気的な渇きに油を注ぐ結果となった。
「ヨコセェェェェッ!」
三体の怪物が、一斉にイリアへと跳躍する。
結晶化した無数の腕が、彼女の柔らかな身体を無惨に引き裂こうと迫る。
(……させるものか!)
もはや剣を振るう力はない。ならば、己の肉体そのものをただの障害物として投げ出すまで。
ローランは口から血の泡を吹きながら、灰色の砂を這い、目前で跳躍しようと筋肉を収縮させた星被の軸足に、自らの右腕を深く絡みつかせた。
ただすがりついたのではない。自らの腕の骨が砕けることを前提に、敵の関節の可動域を完全に封じる、決死の捨て身技だ。
「邪魔、ダ……ッ!」
星被が苛立ち、残った足で老騎士の顔面を無慈悲に蹴り上げる。
ゴシャッ、と鼻柱が砕ける鈍い音が響き、ローランの巨体がぼろ布のように砂埃の中に転がった。
だが、ローランの執念は、怪物の「完璧な暴力の形」に、確かに一瞬の『綻び』を生じさせていた。
足元を拘束されたことで跳躍のタイミングが狂い、星被たちの波状攻撃の連携が、ほんの瞬きする間、完全に崩れたのだ。
薄れゆく意識の中。
泥にまみれ、視界が血で赤く染まるローランの眼に、最後に映ったもの。
それは、ローランが命を削って作り出したその「一瞬の形の崩れ」を、決して見逃さずに捉え、静かに右手の指先を虚空へと掲げる、亜麻色の髪の少女の姿だった。
(……あとは、頼みましたぞ……綴り手よ……)
老騎士の意識は、そこで完全に暗転した。
(第8話 完)




