ep19 氷鉄の軌跡
【新生歴一二〇年刊・歴史編纂書『五星の鎮魂歌』 第四章 冒頭より抜粋】
天の奇跡にすがることを潔しとせず、極北の雪原にはただ己の身一つで立つ者たちがいた。
彼らは空に描かれた美しい星図に祈りを捧げることはない。鍛え抜かれた肉体と、氷よりも澄み切った鋼の刃のみを信じ、人を縛る天の理を静かに両断するのみであった。
それは、星法という甘やかな夢から人類を覚醒させる、冷徹にして静謐なる剣劇である。 私は、その氷刃が滅びゆく世界の輪郭にどのような傷跡を残すのかを記録するため、彼らの中でもひときわ鋭い刃を持つ『彼』の背中を追い続けていた。
——ミア・エーテルガルド著『五星の鎮魂歌』より
*
色彩も音も消え失せた灰色の『死帯』を、一人の剣士が歩いている。
大気中のエーテルが完全に枯渇し、生命の熱を無差別に奪い去る荒野。踏み締める岩盤はひび割れ、かつて緑を湛えていたであろう植物たちは、硝子細工のように脆い灰色の残骸となって風に崩れていく。 ここは、星法という奇跡の恩恵を貪りすぎた人類が作り出した、世界の終着点とも言える死の領域だ。
しかし、前を歩く彼の吐く息は乱れることなく、一定のリズムで白く細い糸のように立ち昇っては、虚空へと静かに溶けていく。
白銀の狼の毛皮をあしらった分厚い外套を纏い、背には装飾の一切ない無銘の長剣を背負う男。 シグルド・スカディ。 それが、私が手元の『記憶の星晶』に記録し続けている観測対象だ。
エルフである私の目は、彼が岩盤を踏み締める際のわずかな重心移動すらも正確に捉えている。 乾いた灰と雪を踏むブーツは無駄な摩擦を生まず、大地を滑るように進む。筋肉の緊張と弛緩が完璧に制御されており、その体捌きはまるで凪いだ水面のように静かだ。 人間という脆弱な種族でありながら、極限の環境下においても熱を無駄に逃がさず、極めて効率的に己の命を燃やしている。その自己完結した生命の力学は、長大な時を生きるエルフの私から見ても、一つの完成された芸術品のようであった。
「……息が上がっているぞ、記録係」
不意にシグルドが立ち止まり、背中越しに静かな声をかけた。 振り返った彼の極光色の瞳は、私のわずかな呼吸の変化を、そしてそれに伴う微細な体温の低下を正確に見抜いていた。
「この死帯の空気は重い。大気から星の力を得るエルフの肺には酷だろう。少し休むか」
気遣うような言葉ではあるが、その声に過剰な感情の揺れはない。ただ、そこにある事実を淡々と述べ、観測者である私が倒れないための最適な行動を提案しているだけだ。
「お気遣いなく。私の呼吸の乱れは、この空間のエーテル欠乏に対する一時的な生理反応です。五分も歩けば順応します」
私が手帳から目を上げずに答えると、シグルドは小さく頷き、何も言い返すことなく再び前を向いた。
彼を形作ったのは、大陸の最北端に位置する辺境公国フロストという土地である。 私は水明の衣を冷たい風に翻しながら、記憶の星晶から彼の出自に関する情報を引き出し、思考の中で反芻する。
記録によれば、フロストは一年中猛吹雪に閉ざされた極寒の凍土だ。他国であれば、星法によって都市を温かい結界で覆い、自然の脅威を退けるだろう。 しかし、フロストの民はそれを堕落とみなした。
彼らは星の光(奇跡)に頼ることを明確に拒絶した。 凍える寒さを和らげるのは、自らの手で狩った獣の毛皮と脂、そして火打ち石で熾した素朴な火のみ。幼い頃から肺が凍るような氷水を浴びて体を鍛え、重い鉄の槌を自らの筋力だけで振るって剣を打つ。 自然の厳しさをあるがままに受け入れ、それに耐えうる己の肉体と精神の強靭さだけを尊ぶ。それが、フロストの武人たちが重んじる強烈な精神性だ。
奇跡を使わないがゆえに、星法に依存した他国を蝕む「星の渇き」から、皮肉にも完全に独立している土地。 シグルドは、その厳格な環境において、誰よりも早く剣の極致に至った男だ。
だが、彼は故郷を出た。 私は彼から正確に三歩遅れて歩きながら、以前交わした会話を思い返す。
(なぜ、フロストを離れ、人が放つ星法の炎や防壁を、ただその剣で両断して回るような旅を続けているのですか)
かつて、夜の野営で火を囲んだ時、私は彼にそう尋ねた。 彼は背負っていた氷鉄の剣を膝に置き、分厚い布で静かに刀身を拭いながら答えた。
(……人は奇跡に寄りかかれば、いずれ自らの足で立つ術を忘れてしまうからだ)
焚き火の光を反射する彼の横顔には、世を恨むような怒りも憎しみもなかった。ただ、深く静かな哀惜のようなものが漂っていた。
(星法という天の恩恵は、人から痛みを奪う代わりに、人間としての輪郭を曖昧にしていく。神に祈り、光を貪るだけの生き物を、俺は人とは呼べない。……俺の剣は、人を傷つけるためのものではない。天が与える星法という幻を断ち切り、人が本来持つべき熱と、大地を踏みしめる足の裏の感覚を思い出させるためのものだ)
彼の背負う長剣は、フロスト特有の『氷鉄』という鉱石から打ち出されている。 天の熱や光を一切吸収せず、完全に弾き返す絶対的な絶縁体。星法の加護を自らも受けられない代わりに、いかなる強力な魔導の炎でも決して溶かすことのできない、星法に対する純粋な拒絶の結晶である。 焚き火の光すらも刀身で滑らせ、暗く沈んだ色を放つその剣は、彼自身の哲学そのものだった。
彼は星法を憎んでいるのではない。星法に依存し、自立の意志を失っていく人間の在り方を憂い、それを己の物理的な剣技で正そうとする、確固たる求道者のような秘めた熱を抱いているのだ。
私は、彼の軌跡を星晶に刻み続ける。 エルフである私は、数百年という長大な時間を生きる。人間の命の燃焼はあまりに短く、儚い。星の死という巨大な歴史のうねりの中で、個人の武力がどれほど抗おうと、それは無意味な抵抗に等しい。 しかし、シグルドという男が内に秘めた静謐な熱は、単なる寿命の長短では測れない特異な重さを持っている。
ザリッ、と。 シグルドのブーツが立ち止まった。
「……前方だ、記録係」
シグルドが、灰色の地平線の彼方に極光色の瞳を向ける。
「大気が微かに震えている。星法が燃える匂い……それも、尋常ではない規模のな」
彼の剣の柄に添えられた指先が、わずかに反応した。 それは血に飢えた荒々しい戦意などではなく、自らの剣を振るうべき明確な事象を見定めた、静かな覚悟の表れだった。
シグルドの足取りが、目に見えて加速した。 走っているわけではない。歩幅の広さと、無駄な上下動を極限まで削ぎ落としたすり足が、彼を氷の上を滑るように前方へと運んでいく。
私は彼から遅れまいと、急いでその三歩後ろを追う。記憶の星晶を意識と繋げ、前方の空間の力学を解析する。
「……観測しました。この距離からでも知覚できるほどの、膨大かつ暴力的な熱の脈動です」
前方十数キロ。灰色の空と大地の境界線が、不気味な赤黒い色に明滅し始めていた。
大気中のエーテルが枯渇した死帯において、あれほどの規模の星法を行使することは、通常の星法士には不可能である。周囲から魔導の糧を引き出せない以上、自らの肉体に宿る生命力そのものを強制的に燃やすしかないからだ。
「あれは、帝国の『黒日猟兵団』による星法行使と推測されます。標的を灰にするためだけに、術者自身の寿命を文字通り削り取って熱を生み出す、極めて非効率で自滅的な戦術です」
私の客観的な報告に対し、シグルドは前を見据えたまま短く応じた。
「……愚かだな。命を薪にしてまで、過去の奇跡に縋らねば戦えんとは」
シグルドの吐く息が、次第に冷気を帯びていくのがわかった。 彼の背負う氷鉄の剣が、持ち主の静かな闘気に呼応するように、周囲の大気からわずかな熱すらも奪い去っているのだ。
「しかし、おかしいな」
シグルドが、低く呟いた。 その視線は、赤黒い炎の渦の中心を正確に射抜いている。
「これほどの飽和攻撃を受ければ、どんな強固な砦も一瞬で灰になるはずだ。だが……あの炎の中心で、まだ何かが抵抗している」
私も、星晶を通して前方の事象をより詳細に観測する。 確かに、シグルドの言う通りだった。赤黒い死の炎が幾重にも降り注ぐその中心点に、消えそうで決して消えない、微弱だが強靭な熱の脈動が残っている。
「……人間の意志です」
私は、観測した事実をそのまま口にした。信じがたいことだが、間違いなく生身の肉体の反応だった。
「極めて生々しい、物理的な抵抗の痕跡が見えます。星法による防壁ではありません。生身の肉体と鉄だけで、炎の奔流に抗い、背後の何かを護るために必死に時間を稼ごうとしている者たちがいます」
「泥臭いな。だが、そういう悪足掻きは嫌いではない」
シグルドの極光色の瞳が、冷たい歓喜に細められた。 星の奇跡に頼らず、己の肉体と意志だけで絶望的な暴力に立ち向かう者。もしそれが真実であるなら、彼らの姿勢はフロストの精神性と通ずるものがある。
「そして……もう一つ」
私は、星晶に映るもう一つの異様な波紋に気づき、思わず声を微かに震わせた。 エルフとして長年世界を観測し続けてきた私にとって、それは全く理解の及ばない現象だった。
「その抵抗の背後で、全く未知の事象が顕現しようとしています。……星法ではありません。熱の消費を一切伴わずに、空間の法則そのものを書き換えようとする、極めて静謐で……恐ろしいほど精緻な未知の力学です」
「ほう?」
シグルドの足取りが、さらに一段階、速さを増した。 ただの略奪や処刑の現場ではない。そこでは今、天の理を暴力的に燃やす者と、それに泥臭く抗う者、そして未知の法則を綴ろうとする者が、一つの特異点として激しく衝突しようとしている。
エルフである私にとって、人間の争いは通常、一瞬の火花に過ぎない。 だが、あの炎の向こう側で起きている事象は、この滅びゆく世界に何らかの不可逆な歴史の傷跡を残す予感がした。
「遅れるなよ、記録係」
シグルドが右手を背に回し、氷鉄の長剣の柄を握った。 抜刀する前の、その一瞬の静寂。世界からすべての音が消え去り、周囲の空間が絶対零度に凍りついたかのような、極限の集中。
「俺の剣が、あの馬鹿げた炎ごと、天の理を両断する。……その結末を、その眼に焼き付けておけ」
私は小さく頷き、彼を追って灰色の砂を蹴った。 氷刃の解体者が、未知の力学と激突する。その刹那を歪みなく後世に残すため、私は観測者としての歩みを止めることはない。
(第19話 完)




