ep20 炎を裂く者
色彩を失った灰色の荒野を、一つの影が猛烈な速度で疾走している。
シグルド・スカディの動きは、走るという一般的な物理法則から大きく逸脱していた。 上体の位置を一切ブレさせることなく、極限まで低く保たれた姿勢。岩盤を力任せに蹴るのではなく、体重移動の推進力だけで大地を滑るように前進していく。空気抵抗すらも刃のように切り裂くその軌道には、暴力的なまでの美しさがあった。 これほどの速度を出していながら、彼の背中から無駄な熱(汗や荒い息)が排出されることはない。己の肉体が持つエネルギーのすべてを、ただ前へ進むためだけに完全燃焼させているのだ。
私はエルフ特有の滑らかな歩法を駆使して彼の後を追う。 本来であれば人間の脚力に後れを取ることはないはずだが、シグルドの洗練され尽くした生命の力学の前では、正確に三歩の距離を保つのがやっとであった。
「……先ほどの未知の事象が、いよいよ明確な形を成していきます」
私は走りながら、手元の『記憶の星晶』に意識を深く同調させ、十数キロ先の谷の奥で拡大する波紋の現象を観測した。
「谷の絶壁に向けて、巨大な白銀の光帯が形成されていきます。……大気中のエーテルを消費する兆候も、星法特有の熱の発生も確認できません。ただ、熱を持たない光の粒子が空中で完全に固定され、物理的な質量を持った……『橋』の形を成していきます」
星の渇きが覆うこの荒野にあって、それはあまりにも異質だった。 猟兵団が放つ赤黒い火球が、対象を焼き尽くすための「破壊の熱」であるならば、谷の奥から立ち昇る白銀の光は、空間の断絶を強引に繋ぎ止めるための「創造の光」だった。
長大な時間を生き、あらゆる星法の歴史を記録してきた私にとってすら、それは全く理解の及ばない現象だった。 天の奇跡を引き出すのではなく、世界の法則そのものを無視し、新たな事象を発生させるような業。
「橋、か」
シグルドが、低く呟いた。 その眼差しには、かつてないほどの鋭い歓喜が宿っている。
「泥臭く抗うだけでなく、天の理の外側で強引に道を作ろうというのか。……面白い」
彼の足取りが、さらに限界を超えて加速した。 彼が求めているのは、自らの剣を振るうに足る強大な標的だ。あの白銀の橋を形作る未知の法則は、氷刃の解体者にとって、これ以上ないほどの「斬り甲斐のある事象」として映ったのだろう。
だが、その時だった。
ピキッ、と。 星晶を通して観測していた白銀の光が、唐突に限界を迎えた。
「……事象が、崩壊します」
硝子細工が砕け散るように、光の橋がダイヤモンドダストとなって谷底へ消えていくのを、私は冷徹に記録した。美しい光の軌跡が、黒い濁流に飲み込まれていく。
「事象の発生源が、熱の限界を迎えました。対象の生命反応、著しく低下。……橋は完全に消失しました」
遠く離れた私からでも、谷の奥で絶望的な事態が進行していることが生々しく読み取れた。
「多数の熱反応は対岸へと逃れたようですが、入り口付近に微弱な熱が数点、取り残されています。それらを包囲するように、帝国の猟兵団が陣形を固めました」
星晶が、猟兵団の強烈な熱反応を次々と捉える。 十数人の術者が一斉に手元の精霊結晶を赤熱させ、致死量を超える星法を起動しようとしていた。
「対象を完全に灰にするための、飽和攻撃の構えです。一斉掃射まで、あと数秒」
私は事実だけを淡々と述べる。
「残された数名の生存確率は、完全にゼロです。我々が到達する前に、彼らは蒸発します」
それが、エルフの観測者としての絶対的な予測だった。 間に合わない。回避する隙間も、防ぐ盾もない。あの巨大な炎が放たれれば、泥臭く抗っていた者たちも、未知の事象を形作った者も、すべてが歴史の灰となって消え去る。
しかし。 私の冷徹な観測結果を、前を走る男の言葉が容易く打ち砕いた。
「ゼロではない。俺の剣が届く」
シグルドが、疾走しながら右手を背に回した。 その手は、背負っていた無銘の長剣の柄を、一切の迷いなく握りしめている。
シグルドは疾走の勢いを一切殺すことなく、さらに深く重心を沈み込ませた。 岩盤を力任せに蹴るのではない。大地そのものの反発力を利用し、一歩の歩幅を常識外れの距離へと引き伸ばす、フロストの武人特有の極限の歩法。 数十メートル、数百メートルと、信じがたい速度で灰色の景色が後方へと吹き飛んでいく。
遠目にもわかるほどの、目を焼く閃光の予兆。 谷の奥で、猟兵団がまさに致死量の火球を解き放とうとする、飽和した熱の臨界点が見えた。
「記録係」
シグルドの声は、猛烈な風切り音の中でも氷のように澄み切って響いた。
「俺の剣の軌道を、見落とすなよ」
谷の入り口まで、まだ距離はある。普通の剣士であれば、決して刃が届く間合いではない。 だが、彼の眼差しは、遥か前方に放たれるであろう炎の理を、すでに明確な「標的」として捉えきっていた。 背に回した右手が、無銘の長剣の柄を強く握りしめる。
それは、天の理を両断すべく、空間の断絶ごと標的を斬り伏せるための、極限まで研ぎ澄まされた抜刀の構えだった。
ドォォォォン……!
大地を震わせる轟音と共に、十数発の巨大な赤黒い火球が、猟兵団の掌から一斉に解き放たれた。 それはもはや炎というよりも、凝縮された破壊の質量だった。大気中のわずかな酸素すらも焼き尽くし、絶対的な死の波となって、谷の入り口に残された数名の命を飲み込もうと殺到する。
私は数百メートル後方から、その圧倒的な終焉の光景を星晶に映しとっていた。 エルフの動体視力と星晶の解析能力をもってしても、あの炎の波を前にして彼らが生き残る道筋は一切観測できなかった。 だが、私の冷徹な予測は、次の一瞬で完全に覆されることになる。
シグルドの身体が、私の視界からフッと掻き消えたのだ。
(消えた……?)
違う。極限まで圧縮された歩法が、空間の距離という概念を強引に省略したのだ。 残像すら残さない無音の跳躍。彼の肉体は、筋肉の弛緩と収縮を完璧に制御し、爆発的な推進力を生み出していた。 私が瞬きをした次の瞬間には、彼はすでに、迫り来る死の炎と、膝をついた泥まみれの剣士たちとの間――谷の入り口の最前線へと立ちはだかっていた。
そして。
キィィィンッ――!
世界が凍りつくような、甲高く硬質な音が響き渡った。
シグルドが、背に負っていた無銘の長剣を抜き放った音だ。 フロストの氷鉄の刀身が外気に触れた瞬間、周囲の水分が一瞬にして凍結し、白銀のダイヤモンドダストが彼の背後で花のように咲き乱れる。 絶対零度の冷気が、魔導の熱を奪うのではなく、空間そのものを断ち割るための刃となって極光色の輝きを放つ。
炎が、彼の目の前まで迫っていた。 十数人の命を削って生み出された破壊の熱量。普通であれば、剣で炎を斬ることなど不可能だ。刀身は溶け落ち、術者は骨の髄まで灰になる。
だが、彼は逃げるどころか、前傾姿勢のまま、迫り来る熱の壁へ向かって真っ直ぐに氷鉄を振り抜いた。 一切の躊躇いもない、極限まで無駄を削ぎ落とした上段からの一閃。 それは星法でもなんでもない、ただの純粋な物理的剣撃。研ぎ澄まされた重量と速度だけが支配する、冷徹な一撃。
ズバァァァンッ!!
直後、私の眼前に信じがたい事象が展開された。 十数発が融合し、巨大な津波となっていた赤黒い死の炎が、まるで巨大な刃物で薄布を切り裂かれたかのように、不自然に真っ二つに割れたのだ。
切断された炎の塊は、シグルドの身体の左右を通り抜け、背後の無人の岩壁に激突して激しい爆発を起こした。 熱風が谷底を吹き抜け、砂塵を巻き上げる。 鼓膜を劈く轟音と、岩が溶ける不快な匂い。 私たちが立つ場所から数十メートルの距離が、一瞬にして灼熱の地獄へと変貌した。
しかし、シグルドが立つその直線上の空間だけは、一切の熱を帯びていなかった。 氷鉄の刃が、魔導の熱を吸収するのではなく、空間そのものの「熱の伝達」を絶対的な絶縁体として物理的に断ち割ったのだ。 天の理が、ただ鍛え上げられた鉄の重さによって否定された瞬間だった。
「……観測、終了」
私は、事象の余波が収まりゆく中、追いついた谷の入り口の岩陰から姿を現し、静かに息を吐いた。 手元の星晶には、世界で最も強固な星法の理が、一人の剣士の腕力によって解体されたという事実が確かに記録されている。
砂煙が晴れていく。 真っ二つに割れた炎の軌跡の中心で、銀灰色の長髪を揺らしながら、シグルドは静かに剣の構えを解いた。 彼の足元には、炎の熱で硝子化した地面が二つに割れたまま冷え固まりつつあった。 彼はゆっくりと背後を振り返る。 その極光色の瞳が、泥と血にまみれた剣士たち――絶望的な炎の前に立ちはだかっていた老騎士や、未知の事象を形作った少女たちを冷ややかに見下ろした。
「……アンタたちは……」
泥まみれの巨漢の剣士が、呻くように声を絞り出した。 だが、シグルドはそれには答えなかった。 彼らの泥臭い生存の意志に興味はないと言うように、ただ酷く冷淡な一瞥をくれた後、再び透き通る剣を正眼に構え、大軍勢の黒日猟兵団へと一人で向き直った。
そこにはもう、人間の歩む速度ではなく、理を斬る者としての静謐な殺気が漂っていた。
「無駄な熱の消費だ」
シグルドの低く、冷気を含んだ声が谷底に響き渡った。
「命を前借りしてまで縋った奇跡が、ただの鉄に両断される。……それが、お前たちが目を背けてきた世界の現実だ」
シグルドは氷鉄の剣の切っ先を、ゆっくりと猟兵団の指揮官へと向けた。 一切の星法を持たぬ男が、圧倒的な火力を持つ部隊を前にして放つ、死の宣告。
「俺の剣が斬るのは、肉ではない。お前たちの甘えた理そのものだ」
私は、この氷刃の解体者が、旧き時代の理をどのように壊していくのかを歪みなく後世に残すため、観測者としての立ち位置を静かに整えた。
(第20話 完)




