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ep18 三十秒の死線

道を繋ぐというノアの平坦な宣言は、絶望の淵にあった天幕の空気を一変させた。


彼女は一切の防御態勢をとらず、迫り来る黒日猟兵団の前に無防備な姿を晒したまま、サファイアブルーの瞳を虚空へ向けた。 瞬きすら忘れ、見えない何かをなぞるように動く細い指先。その異様な静けさから、彼女の中で常人には理解し得ない冷徹な思考の渦が展開されているのを、シリルは直感した。 谷底の風、岩盤の脆さ、敵の放つ熱量。それら無数の要素を瞬時に見定め、未知の道筋を強引に繋ぎ合わせようとする、人知を超えた思考の重圧を肌で感じ取っていた。


「どれくらいだ!」


レオナードが、長剣を構えたまま後ろを振り向かずに叫ぶ。


「……対象座標が広すぎます。三十秒。それだけあれば、この谷を越える光の道筋ラインを引けます」


「三十秒だな。……シリル、ローラン殿! 死んでも持ち堪えろ!」


「承知!」


老騎士の咆哮。 シリルは内心で悪態をつきながら、双短剣を逆手に持ち直した。


(三十秒だと? 冗談じゃない)


相手はただの暴徒ではない。詠唱という隙すら省略し、命を前借りして星法を放つ純粋な殺戮機械だ。 一秒ごとに死が降り注ぐこの戦場で、無防備な少女を三十秒間守り抜く。シリルの読みでは、それは集団自殺と何ら変わらない愚行だった。


だが、足はすでに地を蹴っていた。


「散れッ!」


シリルの合図と同時に、三人はノアを頂点とする扇状に散開した。


直後、猟兵の指揮官が振り下ろした手から、三発の赤黒い火球が放たれた。空気を焼き焦がし、轟音を立てて殺到する熱の塊。


ローランが右へ跳び、ひしゃげた白銀の甲冑を盾にして一発を強引に弾き返す。 レオナードが左へ踏み込み、無骨な鉄塊の剣の腹で熱風を受け流す。 シリルは姿勢を極限まで低くし、中央を抜けてきた火球の下を滑り抜けた。


頭のすぐ上を、死の熱量が通り過ぎていく。髪がチリッと焦げる匂い。 火球は彼らの後方の岩壁に着弾し、爆音と共に難民たちの悲鳴をかき消した。


(休ませるな。撃たれる前に潰す!)


シリルは砂煙を利用し、足音を完全に殺して猟兵団の側面に回り込んだ。


もっとも端にいた猟兵が、掌の黒ずんだ精霊結晶エーテルコアを再び赤熱させようとする瞬間。 それが、星法が発動するコンマ数秒の「絶対的な隙」だ。


「遅い」


シリルは猟兵の死角から跳躍し、双短剣を交差させて振り下ろした。


ガギィッ!


刃が敵の装甲の隙間、首筋の動脈を正確に捉え、切り裂く。 猟兵は声も上げず、血を噴き出しながら崩れ落ちた。その体表に浮かぶ炭化の痣が、主の死とともにボロボロと崩れていく。


だが、喜んでいる暇はない。 隣の猟兵が無言でシリルへと掌を向けた。至近距離からの熱の砲撃。


「ちぃッ!」


シリルは倒れた死体を蹴って後方に飛び退いた。 元の位置が爆炎に包まれ、熱波が頬を焼く。数の暴力。一機潰しても、残る十数機が一切の動揺を見せず、精密な連携で次々と星法を叩き込んでくる。


「……あと二十秒! ノア、まだか!」


血を吐くようなローランの叫びが響く。


見れば、老騎士は二人の猟兵と白兵戦を演じていた。 猟兵が振るうのは、蒸気圧で加速された重厚な戦斧。ローランの折れた剣ではまともに受け止められない。老騎士は長年の経験則から最小限の動きで軌道を逸らし続けているが、その足取りは限界に近い。


ドォン!


猟兵の一撃が岩盤を砕き、その破片がローランの肩を容赦なく打ち据える。


「ぐぅッ……!」


膝をつきかける老騎士。そこに、別の猟兵が冷酷に火球を放とうとした。


「させるかッ!」


横から飛び込んだのは、レオナードだった。


彼は泥と血にまみれた巨体で猟兵に体当たりをかまし、火球の軌道を無理やり上空へと逸らした。 そのまま無骨な長剣を両手で握り、猟兵の黒い装甲ごと、大上段から力任せに叩き割る。


ガシャアァァッ!


ひび割れた装甲から、どす黒い血が噴き出す。 だが、レオナードの背中も無事ではない。別の猟兵の放った熱波が彼のバフコートを焼き切り、肉を焦がす嫌な臭いが立ち込めた。


「レオ!」


「気にするな! 前だけ見てろ!」


レオナードは痛みに顔を歪めることすらなく、新たな猟兵に向かって突進していく。 星法という奇跡を持たざる者が、純粋な人間の筋力と、他者を守るという「至誠」だけで、絶望的な暴力を正面から受け止めている。


(……馬鹿共が)


シリルは奥歯を噛み締め、再び死地に飛び込んだ。 右へ左へ、猟兵の死角を縫うように駆け抜け、詠唱の兆候を見せる手首を次々と切り裂いていく。


一秒が、永遠のように長く感じられた。 肺が焼け付くように痛い。筋肉は限界を訴え、思考は泥のように重くなっていく。


振り返る余裕はない。だが、シリルには分かっていた。 背後の天幕の前に立つノアが、一切の防御を捨てたまま、虚空に無数の光の点を見出し、必死に星の形を綴り続けていることを。


「あと十秒だ! 死んでも通すなッ!」


レオナードの咆哮。 シリルは双短剣に最後のエーテルを込め、猟兵の群れへと突っ込んだ。


ガキンッ、と硬質な音が腕の骨を軋ませる。 猟兵の装甲の隙間にねじ込んだ短剣が、硬化した筋肉に阻まれて深く刺さらない。


(くそッ、こいつら人間じゃない!)


弾き飛ばされそうになるのを、身体を丸めて辛うじて受け流す。 限界だった。シリルたちの肉体も、枯渇した気力も、あと数秒で完全に焼き尽くされる。 シリルの読みでは、全滅の結末まであと三秒。二秒。一秒――。


「対象座標、固定。……力の線、結びます」


ノアのひどく掠れた声が、戦場の轟音を切り裂いて届いた。


直後。天幕の後方、谷の絶壁に向けて、白銀の光が爆発的に広がった。 空中に無数の光の点が結ばれ、幾何学的な星座――空を駆ける『橋』の形が編み上げられていく。物理法則を完全に無視した、光の回廊。


「走って!」


ノアの叫びに、怯えていた難民たちが我に返り、光の橋へと殺到する。


「なんだ、あれは……星法反応がないぞ!?」


猟兵団の連携が、未知の現象を前に初めて乱れた。 彼らの放つ火球が光の橋に直撃するが、熱量はすべて斜面に沿って逸らされ、空中で無害に散っていく。星法ではない、完全に独立した「未知のことわり」が、そこに顕現していた。


だが、難民全員が渡り切るには時間がかかる。 我先にと光の橋へ殺到する群衆の足取りは遅く、中には転倒して悲鳴を上げる者もいた。


「止まるな! 前へ走れッ!」


レオナードが血反吐を吐きながら叫び、再び猟兵の前に立ち塞がる。 橋自体はノアの理で守られていても、橋の入り口にいる一行や、順番を待つ難民たちは無防備なままだ。


「ちィッ……!」


シリルは歯を食いしばり、猟兵の放つ熱波を双短剣で無理やり逸らす。 全身の筋肉が悲鳴を上げ、視界が血と汗で赤く明滅する。ローランも片膝をつきながら、盾として立ちはだかり続けていた。


永遠とも思えるような数分間。 背後から聞こえていた足音と悲鳴が、ようやく遠ざかっていく。


「……やったか!」


レオナードが血に染まった顔で笑う。 難民の最後尾が対岸へ辿り着き、安全圏へと逃げ込んだ、その瞬間だった。


「……っ、ぁ……」


ノアの小さな身体が、糸の切れた操り人形のようにガクリと崩れ落ちた。 広大な空間の法則を書き換えるという行為が、十四歳の少女の熱(命)を限界まで削り取ったのだ。


彼女の意識が途切れると同時。 ピキッ、と澄んだ音を立てて、光の橋が硝子細工のように砕け散った。 ダイヤモンドダストのような光の粒子が、谷底へ吸い込まれて消えていく。


「ノア!」


レオナードが駆け寄り、意識を失った少女を抱き起す。


難民たちは逃がした。 だが、その代償として、一行は完全に谷底に取り残された。 退路となるはずだった光の橋は失われ、背後は絶壁。


そして。 閉ざされた絶望の前方に、灰色の吹雪の中から、さらなる絶望が無音で這い寄ってきていた。


ズン……ズン……。


地響きのような足音。 谷の入り口から、新たな黒い影が次々と姿を現す。 十や二十ではない。完全に包囲を固めた猟兵団の増援が、隊列を組んで前進してきていた。


指揮官が、冷淡に手を振り下ろす。 最前列の十数人が一斉に掌を掲げ、黒ずんだ精霊結晶エーテルコアを赤熱させた。


(……詰みだ)


シリルは、柄を握る手に力を込めるのをやめた。 これだけの飽和攻撃。回避する隙間も、防ぐ盾もない。 どう見積もっても、生存確率は完全にゼロだった。


轟音と共に、十数発の巨大な火球が放たれた。 空気を焼き焦がす熱波が、一行を一瞬で灰にするべく殺到する。 目を焼く閃光。迫る死の熱量。


だが。


キィンッ!


甲高い、氷が弾けるような硬質な音が響いた。 頭上を焼き尽くすはずだった熱の壁が、不自然に真っ二つに割れたのだ。


「……何……?」


シリルは目を見開いた。 切断された巨大な炎の塊は、シリルたちの左右を通り抜け、背後の岩壁に着弾して激しい爆発を起こした。


熱風が通り過ぎた後。 目の前に、一人の男が立っていた。


白銀の狼の毛皮をあしらった、灰色の厚手の外套。 手には、装飾の一切ない、透き通るような刀身の長剣が握られている。その剣からは、周囲の熱をすべて奪い去るような絶対零度の冷気が立ち昇っていた。


(星法……いや、違う。物理的に炎のことわりを『斬った』のか……!?)


暗殺者として生きてきたシリルすら反応できないほどの、極限まで研ぎ澄まされた速度と軌道。 星の力を吸収せず、ただ純粋に弾き返す特殊な鉱石。


銀灰色の長髪を揺らし、その剣士はゆっくりと振り返った。 極光色オーロラ・ブルーの瞳が、泥にまみれた一行を冷ややかに見下ろしている。


その剣士の背後。 岩陰からは、さらに一つの小さな影が姿を現した。 透き通るようなプラチナブロンドの髪を持つ、華奢なエルフの少女だ。彼女は目の前で起きている惨劇にも一切の感情を動かさず、手に持った透き通る結晶石に、ただ淡々と今の事象を映しとっているように見えた。


「……アンタたちは……」


レオナードが、呻くように声を絞り出した。


銀灰色の剣士は答えなかった。 ただ、酷く冷淡な一瞥をこちらにくれた後、再び透き通る剣を正眼に構え、大軍勢の黒日猟兵団へと一人で向き直った。


(……読みが、完全に追いつかない)


シリルは双短剣を握り直したまま、額の汗を拭った。 世界の理を書き換える少女に続き、今度は天の理そのものを物理的に斬り裂く異端の剣士。 死帯の最深部で、旧い常識が次々と音を立てて崩れ去っていくのを、シリルは強烈な寒気と共に実感していた。


(第3章 完)

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