ep17 至誠の盾
暴徒たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ去った後、キャンプには再び灰色の雪が降り積もる静寂が戻った。
シリルは双短剣の刃を布で拭い、鞘に収めた。 周囲には、ノアが砕いた錆びた鉄片が散らばっている。星法とも違う、あの得体の知れない異端の力がもたらした残骸。
「……ひどい傷だ。あんた、本当に馬鹿ですよ」
シリルは、天幕の入り口に座り込んだレオナードの額を、清潔な布で乱暴に押さえた。 投げつけられた石による裂傷。血は止まりかけているが、バフコートの下の肉体にも無数の打撃の痕がどす黒く浮かび上がっているはずだ。
「悪いな、シリル。……だが、これでいい」
レオナードは痛みに顔をしかめることもなく、大地の琥珀色をした瞳で、暴徒たちが消えていった灰色の地平を見つめていた。
「よくありませんよ。あいつらは、あんたが命を削って掘った水を飲んだ恩も忘れ、強欲に牙を剥いた獣だ。切り捨てて当然の連中だった」
シリルは冷たく吐き捨てた。 シリルの読みに照らし合わせれば、あの場で五、六人の喉笛を刈り取り、残りを恐怖で統制するのが最も正しく、被害の少ない手立てだった。 レオナードが選んだ「無抵抗で殴られる」という行為は、ただの自己満足の自殺行為に他ならない。
「切り捨ててしまえば、俺はまた『搾取する側』に逆戻りだ」
レオナードは、血の滲む唇で静かに言った。
「壁の中で、外の民を『星の導きだから仕方がない』と切り捨てていた連中と、同じ理屈になる。……俺は泥を這ってでも、あの連中を見捨てない。それが、俺がアヴァロンの紋章を捨てた理由だ」
それは、究極の非合理だった。 しかし、その声には一切の迷いがなく、強烈なまでの熱がこもっていた。 シリルは小さくため息をつき、手当ての手を止めた。この男の「至誠」という名の引力に、自分はいつの間にか抗えなくなっている。
「……愚かです。でも……」
震える声が、傍らから聞こえた。 イリアだった。ボロボロのドレスを纏った王女が、両手で自身の胸元を強く握りしめ、レオナードを見下ろしている。
「でも、貴方は逃げなかった。……あの人たちが、どんなに醜くても、貴方は彼らを諦めなかった」
イリアの菫色の瞳に、大粒の涙が浮かんでいた。 彼女は、自身の国が焼かれたとき、民を置いて逃げ出したという深い傷を抱えている。だからこそ、理不尽な暴力を前にしても決して「守るべきもの」から背を向けなかった泥だらけの青年の背中に、強烈な光を見たのだろう。
「それが、本当の……王の姿なのね」
イリアは、祈るように呟いた。 虚飾の王女が、初めて本物の「王の器」というものに触れた瞬間だった。シリルは黙ってその光景を観察していた。王冠も星法の加護も持たない、泥に塗れた男が、一人の王女の魂を打ち震わせている。
「……彼の熱は、やはり美しい」
不意に、平坦な声が響いた。 ノアだ。彼女は壁際に立ち、抱えていた分厚い革表紙の本を開いていた。
ジジッ、ジッ。
風もないのに、ページの端がひとりでにめくれ、青白い火花が走る。 ノアが空中に指を走らせたわけではない。レオナードが体現した「至誠」という強烈な命の脈動が、彼女の眼を通して、不可解な紋様としてページに焼き付けられているように見えた。
(まただ。あの気味の悪い本が、勝手に事象を記録している)
シリルは背筋に冷たいものを感じながらも、その光景から目を逸らせなかった。 紙の焦げる匂いが、天幕の中に微かに漂う。
「自己犠牲という構造は、本来であれば破綻を招く不完全な力学です。……ですが、貴方の引く線は、周囲の千切れた結び目さえも強引に繋ぎ止めてしまう。とても、強固な引力を持っている」
ノアは、焼き付けられたページを静かに撫で、ガラス玉のような碧眼をレオナードに向けた。
「貴方のその形を、私はこの本に記憶しました。……レオナード。貴方がその熱を失わない限り、この物語はまだ終わりません」
それは、冷徹な観測者からの、最大限の賛辞だった。
シリルは懐から真鍮の六分儀を取り出し、手遊びに回した。 聖都の権力闘争にも、星法の理にも当てはまらない、計算外の奇妙な絆が、この薄汚れた天幕の中で生まれようとしている。
どう見積もっても、明日の生存確率は極めて低い。 だが、この一行――愚直な泥の騎士と、星法を斬る老騎士、覚醒しつつある王女、そして理を書き換える異端の少女――彼らと共にあるのなら。
(……俺の読みが、根底から覆るのも、悪くないかもしれないな)
シリルは口の端に微かな自嘲の笑みを浮かべた。 影として培われた冷めた心が、自分でも驚くほど、不合理な「希望」の熱を帯び始めているのを自覚する。
だが、その奇妙な安堵は、長くは続かなかった。
ピンッ。
シリルの耳が、微かな、しかし決定的な「断絶の音」を捉えた。 キャンプの外縁、谷の入り口に張り巡らせておいた、警戒用の極細の鋼線。それが今、何者かによって切断されたのだ。
(……最悪のタイミングですね)
シリルは六分儀を懐にしまい、音もなく立ち上がった。 双短剣の柄に手をかけ、冷え切った銀色の瞳で南の地平を睨みつける。
「……おしゃべりはここまでです、お歴々」
シリルの低く、極めて事務的な声に、全員の視線が彼に集まる。
「お客さんですよ。それも、水やパンを求めてくるような可愛らしい連中じゃない。……谷の入り口に張った罠が、三箇所同時に破られました」
シリルは、冷酷な事実を告げた。
「帝国の『黒日猟兵団』です。完全に、この谷を包囲しつつあります」
天幕の空気が、一瞬にして凍りついた。 ローランが痛む体を引きずり、即座にイリアの前に立つ。折れた剣を構えるその手には、もはや戦士としての余力は残っていない。
「俺が囮になる」
レオナードが、迷うことなく立ち上がった。血の滲む額を拭いもせず、無骨な長剣を引き抜く。
「シリル。お前は客人たちを連れて、谷の裏道から抜けろ」
「無理です」
シリルは間髪入れずに否定した。
「裏道に張った鋼線も、たった今切れました。……手際が良すぎる。ただの追討部隊じゃない。完全に包囲し、一匹の鼠も逃がさないための完璧な布陣です」
シリルは双短剣を逆手に構え、天幕の外へ滑り出た。 谷底を覆う灰色の吹雪の向こうから、無音で近づいてくる複数の黒い影。
足音すら揃った、不気味なまでの静寂。 漆黒の重装甲を纏った兵士たちが、横一列に並んで谷の出口を完全に塞いでいた。帝国の暗部、ヴァルガス直属の処刑部隊。 背後は底の見えない絶壁だ。難民たちを含め、退路は完全に断たれている。
(……狂っている)
彼らの姿を視認し、シリルは奥歯を噛み締めた。 猟兵たちの剥き出しの顔や腕には、どす黒い痣のようなものが不気味に広がっていた。炭化だ。星の力を強制的に引き出し、自らの肉体をフィルターにして星法を行使し続けた代償。
彼らは、自らの命を削ってでも、標的を灰にするためだけにここにいる。 恐怖も、躊躇いもない。完全な死の兵隊。
キャンプの奥で、異変に気づいた難民たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。 だが、猟兵たちは無慈悲だった。先頭の一人が無言のまま腕を振り上げると、手のひらに埋め込まれた黒ずんだ精霊結晶が不吉な光を放つ。
放たれた炎の塊が、逃げ惑う難民たちのテントを容赦なく吹き飛ばした。
「待て! 俺の首ならくれてやる! だが、あいつらはただの難民だ。殺す必要はないだろう!」
レオナードが血に染まった体で叫び、猛然と前へ出た。
だが、猟兵の指揮官らしき男は言葉を返さない。 ただ冷淡に右手を掲げ、今度は逃げる難民たちではなく、レオナードの背後――イリアやノアがいる天幕へと狙いを定めた。
(マズい……ッ!)
本能の警告が鳴り響く。 指揮官の掌のコアから、先ほどとは比べ物にならないほど凝縮された、赤黒い火球が膨れ上がる。 詠唱すらない。ただ、星の遺骸を暴力的に叩き起こし、強制燃焼させているのだ。
空気を焼き焦がし、轟音を立てながら、灼熱の塊が真っ直ぐに抉り取りにくる。
回避する隙間はない。散開すれば、背後の天幕ごとイリアたちが吹き飛ぶ。 シリルの読みは、完全な「死」という結果を弾き出していた。
だが、レオナードは逃げなかった。 彼は巨体を限界まで沈み込ませ、無骨な長剣を盾のように両手で構えた。自らの血肉を壁にして、背後の命を護ろうとしている。
「下がっていろ!」
レオナードの怒号。 その隣に、ローランもまた折れた剣を構えて並び立った。老騎士の甲冑が、死地に向かう高揚感で微かに鳴る。
「馬鹿な……防げる熱量じゃない!」
シリルの双短剣では炎は斬れない。絶望が網膜を焼いた、その瞬間だった。
「……ここ、星の線が断絶しています」
鼓膜のすぐ傍で、酷く平坦で、透き通った声が響いた。 シリルはハッとして横を見る。
いつの間にか、ノアが天幕の前に進み出ていた。 迫り来る死の炎を前にして、彼女は全く怯えていない。その異様な静けさから、彼女の中で常人には理解し得ない冷徹な思考の渦が、凄まじい速度で展開されているのをシリルは直感した。
「谷の向こう側……対岸への道がないのではありません。……結ばれていないだけ」
ノアは、分厚い革表紙の本を抱えたまま、右手の指先をゆっくりと絶壁の向こうの虚空へ掲げた。
「あの人たちを逃がすための道を……私が、繋ぎます」
星法を持たない二人の騎士が絶望的な盾となる背後で、異端の少女が、世界の法則を書き換えるための残酷な計算を開始した。
(第17話 完)




