ep16 渇望の暴走
灰色の空から、刺すような冷風が吹き込んでくる。 天幕の布がめくれ上がり、レオナードの巨躯が外の吹雪の中へと完全に出た。
シリルは双短剣を逆手に構えたまま、入り口の隙間から外の様子を窺っていた。 いつでも飛び出せるように、ふくらはぎの筋肉を極限まで引き絞り、重心を落とす。
天幕を取り囲んでいたのは、数十人の難民たちだった。 だが、昨日泥に這いつくばっていた弱々しい姿はどこにもない。血走った目、剥き出しの歯。手に手に石や錆びた鉄片、削った木片などを握りしめている。 水という命の糧を得たことで、彼らの内にある「もっと生きたい」という本能が、他者から「奪う」という醜悪な熱へと変換されていた。
「……隠してる食べ物を出せ! 聖都の人間なんだろう!」
群衆の先頭に立つ男が、血走った目で叫んだ。 昨日、レオナードの泥掘りを「腹が減るだけ無駄だ」と嘲笑っていた男だ。
「水が出たんだ。あんたは俺たちを救ってくれるお使いなんだろう! もっと寄越せ!」
「隠してるのは分かってるんだ!」
同調する怒号が波のように広がる。 集団心理が、彼らの罪悪感を完全に麻痺させている。
レオナードは吹雪の中に立ち尽くし、暴徒たちを静かに見回した。 その大地の琥珀色をした瞳には、怒りでも怯えでもなく、ただ深い悲哀だけが湛えられている。
「……何もない。食料は、俺も持っていない」
低く、よく通る声だった。
「水は掘った。あとは、お前たち自身で生きていくしかないんだ」
真実だった。あの泥だらけのバフコートの下に、パンの一欠片すら残っていないことは、シリルが一番よく知っている。
だが、飢えと渇きに狂った獣たちに、その理屈は届かない。
「嘘をつくなッ!」
先頭の男が、握りしめていた拳大の石を力任せに投げつけた。
避けられる軌道だった。 いや、レオナードの反射神経ならば、飛んでくる石を素手で叩き落とすことすら容易いはずだ。 だが、彼は動かなかった。
ゴッ、という鈍い音が響き、額が弾かれた。 皮膚が裂け、赤い血が灰色の雪の上に点々と散る。
「……っ」
シリルは奥歯を強く噛み締めた。 飛び出して、あの男の喉笛を掻き切るべきだ。シリルの読みは明白に「主君の死」という最悪の結末を弾き出している。 だが、足を動かせない。
『ここで俺たちが剣を抜いて彼らを切り捨てれば、壁の中で彼らを見捨てた奴らと何も変わらない』
先ほどのレオナードの言葉が、呪いのようにシリルの身体を縛り付けていた。 あの男は、己の血を流すことでしか、自らが特権階級の「搾取する側」ではないことを証明できないのだ。あまりにも非合理的で、狂気じみた至誠。
「出せ! 隠し持っているものを全部出せ!」
一発の投石が合図となった。 群衆のタガが完全に外れる。 石が次々と飛来し、レオナードの肩を、胸を、脚を打つ。 さらには、数人の男たちが怒声を上げながら歩み寄り、木の棒や素手で巨躯を殴りつけ始めた。
「……やめて! お願い、やめて!」
背後から、悲痛な叫び声が上がった。 シリルが振り返ると、イリアが天幕の入り口に縋り付き、涙を流しながら外の惨状を見つめていた。
「あの人は……あの人は、貴方たちのために水を……っ!」
彼女の言葉は、暴徒の怒号に掻き消されて届かない。 理不尽な暴力をただ甘んじて受け入れるレオナードの姿は、強者に救いを求めていた王女の心に、ナイフのように深く突き刺さっているはずだ。
ローランもまた、痛ましげに目を閉じ、己の折れた剣の柄を強く握りしめている。 彼も騎士だ。無抵抗の者をなぶり殺しにする暴徒たちへの怒りと、レオナードの悲壮な覚悟への敬意の間で、激しく引き裂かれているのが分かる。
(……馬鹿げている。こんなもの、ただの自殺だ)
シリルは再び視線を外へ戻した。 レオナードは膝をついていた。 無数の打撃を浴び、額からの出血で視界も塞がっているはずだ。それでも彼は、決して倒れ込もうとはせず、両腕をだらりと下げたまま、暴力の嵐に耐え続けている。
「死ね! 聖都の連中なんか、みんな死んじまえ!」
先頭の男が、ついに錆びた鉄のナイフを取り出した。 明確な殺意。威嚇の暴力から、生命を奪うための凶行への移行。
(……ここまでだ)
シリルは冷徹な思考で限界のラインを引いた。 主君の覚悟を尊重して死なせてやるほど、行儀のいい従者ではない。 あの馬鹿の命を繋ぐためなら、どれほど恨まれようと、自分が泥を被る。
シリルは双短剣を逆手から順手に持ち替え、前傾姿勢をとった。 天幕を飛び出し、あのナイフを持った男の頸動脈を切り裂くまでの軌道を、脳内で完全に描き出す。 所要時間、一秒。
地を蹴ろうと、つま先に力を込めた、その瞬間だった。
「……彼の熱が、散ってしまいます」
鼓膜のすぐ傍で、酷く平坦で、透き通った声が響いた。 シリルはハッとして横を見る。
いつの間にか、ノアがすぐ隣に立っていた。 気配は全くなかった。影として生きてきた自身の警戒網を、この少女は完全にすり抜けている。
彼女は、外でなぶり殺しにされているレオナードを真っ直ぐに見つめていた。 その底知れぬ異質な静けさから、常人には理解し得ない冷徹で複雑な思考の渦が、凄まじい速度で展開されているのをシリルは直感する。
「……何を」
問いかけようとしたシリルの言葉は、空気に溶けて消えた。 ノアが、抱えていた分厚い革表紙の本を、ゆっくりと開いたからだ。
風の音が止んだ。 いや、周囲の空間そのものが、一瞬にして凍りついたような錯覚。
白紙のページの上に、見えざる光の軌跡が複雑な幾何学模様を描き出し、淡い蒼光を放って焼き付けられていく。 精霊結晶の光ではない。詠唱もない。星法を形作るための星の力の乱れすら、一切感じられない。
「――『理の縫い止め』」
ノアの平坦な声が、静寂の空間に波紋のように響き渡った。
「指定領域における、運動の減衰、及び熱の強制停止」
何が起きたのか、シリルには理解できなかった。 ただ、結果だけがそこに現れた。
振り下ろされようとしていた男のナイフが、ピタリと空中で停止したのだ。 いや、男だけではない。暴徒として群がっていた数十人の難民たちの動きが、まるで時を止められたかのように完全に静止している。 彼らの顔には怒りの表情が張り付いたままだ。だが、その瞳だけが、己の身体が全く動かないという異常事態に気づき、激しい恐怖に見開かれていく。
「な、なんだ……体が……っ!?」
「ひっ……!」
かすかなうめき声だけが漏れる。 彼らの身体から、暴動という「熱」が急速に奪われていくのが、目に見えるようだった。
ノアはゆっくりと天幕を出て、凍りついた群衆の中を歩いていく。 その足元だけ、灰色の雪が溶け、わずかに青草の幻影が瞬いているように見えた。
彼女は、ナイフを振り上げたまま固まっている男の前に立つと、そのナイフの刀身を指先で軽く弾いた。
パキンッ。
小気味良い音が響き、錆びた鉄のナイフが、まるで氷細工のように粉々に砕け散った。 破片が灰色の雪の上に落ちる。
「貴方たちの行動は、理に反しています」
ノアは、底冷えのするような眼差しで暴徒たちを見回した。
「自らの生命を維持するための『奪取』は生物の理ですが、彼はすでに水を与えました。これ以上の略奪は、ただの『歪み』です。……私の観測において、澱みは不要です」
その瞬間、暴徒たちを縛り付けていた見えない力が、ふっと解かれた。
「化、化物だァッ!」
ナイフを砕かれた男が、悲鳴を上げて尻餅をつく。 星法とも違う、詠唱すらない完全な未知の現象。 それに直面した暴徒たちの心は、一瞬にしてへし折られた。 誰かが逃げ出すと、それは連鎖反応を引き起こす。先ほどまでの凶暴な獣たちは、哀れな悲鳴を上げながら、蜘蛛の子を散らすように谷底の奥へと逃げ去っていった。
静寂が戻る。
「……レオ」
シリルは我に返り、双短剣を鞘に収めると、雪の上へ崩れ落ちそうになったレオナードの巨躯を間一髪で支えた。
「無茶苦茶ですよ、あんたは」
悪態をつきながらも、その泥と血にまみれた身体の重さに、シリルはなぜか安堵している自分がいた。
「……すまない、シリル」
レオナードは荒い息を吐きながら、苦笑を浮かべた。 その大地の琥珀色をした瞳は、目の前に立つノアへと向けられている。
天幕の中から、ローランとイリアも息を呑んで外の惨状を見つめていた。 誰もが、今起きた現象を飲み込めずにいる。
ノアは、何事もなかったかのようにその分厚い本をパタンと閉じた。 そして、血まみれのレオナードを見下ろし、小さく首を傾げる。
「どうして、抵抗しなかったのですか? 貴方の筋力と質量なら、彼らを排除することは容易だったはずです」
「……あいつらを切り捨てたら、俺はまた、搾取する側に逆戻りだ。それだけは、嫌だったんでな」
レオナードの答えは、やはり合理的ではなかった。 だが、ノアはその言葉を聞いて、微かに――本当に微かに、満足そうな瞬きをした。
「……非効率的で、矛盾しています。ですが……やはり、貴方の引く線は、とても美しい」
その言葉の奥に、シリルは背筋が凍るような気配を感じ取っていた。
彼女は、人を救ったわけではない。 ただ、自分の気に入った「美しい法則」が壊れるのを、世界の綻びを縫い直すように防いだだけなのだ。
(……とんでもない異端を引き入れちまったかもしれないな)
血まみれの主君を支えながら、シリルは灰色の雪空を見上げた。 星の加護を失ったこの死帯に、星法とは全く異なる、底知れぬ異端の力が入り込んだ。 それがこの先、どれほどの混沌をもたらすのか。 シリルの冷徹な読みは、もはや完全に崩壊していた。
(第16話 完)




