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ep15 聖都の棄民

灰色の雪が、音もなく天幕の継ぎ目を叩いている。


真夜中。底冷えのする死帯ヴォイドの夜は、人の体温だけでなく気力までをも容赦なく削り取っていく。


「……少し、外の様子を見てくる」


レオナードが低い声で言い、ゆっくりと身を起こした。 水脈を掘り当てたことで、難民キャンプの空気は極度に張り詰めている。いつ暴徒が水や食料を求めて天幕を襲撃してきてもおかしくない。それを警戒しての行動だ。


壁際に座っていたシリルは、双短剣を手入れする手を止めずに鼻で笑った。


「見回りですか。ご苦労なことです。闇討ちされる前に、適当なところで切り上げてくださいよ」


「ああ」


レオナードは無骨な長剣を帯び、天幕の布をめくって外の暗闇へと消えていった。


冷たい風が一瞬だけ吹き込み、すぐに静寂が戻る。 残されたのは、シリルと、素性の知れない三人組だけになった。


手負いの老騎士ローランは、暗闇の中で静かに目を開けていた。 温室育ちの王女イリアは寒さと恐怖で眠れぬ夜を過ごしているらしく、膝を抱えたまま小刻みに震えている。 そして、あの異質な少女――ノアは、暗闇の中でも見えているのか、手元の分厚い革表紙の本をただ静かに指でなぞっていた。


(……気味の悪い連中だ)


シリルは内心で舌打ちをし、双短剣を鞘に収めた。 その時、ローランが低く、重々しい声で口を開いた。


「……獅子と百合の意匠」


その言葉に、シリルの銀色の瞳がスッと細められた。 先ほど、ローランがレオナードの剣の柄尻に見つけた紋様だ。


「聖都アヴァロンを治める『議長家』の紋章とお見受けした。……間違いないな」


暗闇の中、老騎士の深い藍色の瞳がシリルを射抜いている。 ごまかしは利かない。それに、あの老練な武人を相手に下手な嘘をつけば、不要な警戒心を煽るだけだ。シリルは冷徹な読みに照らし、事実を切り売りする方が安全だと判断した。


「……ご明察で。アルカディアの近衛騎士団長殿の目は、節穴ではないようですね」


シリルは軽く肩をすくめ、あえておどけた口調で応じた。


「ええ、その通りです。あの泥まみれのお人好しは、レオナード・カスティーユ。光り輝く聖都アヴァロンの次期議長様……の、成れの果てですよ」


「っ……!」


イリアが、小さく息を呑む音がした。 無理もない。たった今、見捨てられた難民たちのために泥にまみれて井戸を掘っていた男が、このキャンプを見捨てた冷酷な聖都のトップ、その跡取りだと言うのだから。


「なぜだ」


ローランが静かに問う。


「次期議長ともあろう者が、なぜそのような身分を捨て、この死帯で泥を被っている」


「馬鹿だからですよ」


シリルは吐き捨てるように言った。 主君に対する侮蔑ではない。あまりにも不器用で、まっすぐすぎるその生き様に対する、シリルなりの呆れだった。


「あの城壁の中は、光と水に溢れた楽園です。ですが、その豊かさは、外の大地から星の恩恵を搾取し、民草を見殺しにすることで成り立っている。……あの男は、その『選民思想』に吐き気を催したんです」


真鍮の六分儀を指先で弄りながら、シリルは淡々と語り続ける。


「自分たちだけが神に選ばれた特権階級だと思い上がり、壁の外で死んでいく人間を『星の導き』だと切り捨てる。あの男は、そんな狂った連中のトップに立つことを拒絶した。……特権を捨て、騎士の称号を捨てて、壁の外へ飛び出したんです。自分の手で、外の連中に泥水を飲ませるためにな」


天幕の中に、重い沈黙が下りた。


イリアは、信じられないものを見るような目でこちらを見つめていた。 彼女は、帝国の暴力によって国を『奪われた』。 しかし、レオナードは自らの意志で、約束された未来と豊かさを『捨てた』のだ。


同じように泥にまみれ、すべてを失ったように見える二人の、その根底にある「覚悟の重さ」の違い。 温室で育った王女の心に、それはどれほどの衝撃を与えただろうか。シリルは観察者の目で、イリアの瞳に生じた激しい動揺を正確に読み取った。


「……愚かな。一人の力で世界を救えるなどと、本気で思っているのか」


ローランが、悲痛な声で呟いた。


「ええ、本気でそう信じているから救いようがありません」


シリルは皮肉な笑みを浮かべてみせた。


「あの男の至誠しせいとやらは、一粒のパンも生み出さない。明日の朝になれば、あいつが助けようとした難民どもが、水と食料を寄越せと暴徒になってこの天幕に押し寄せてくるでしょう。……それが人間の本性だ。あいつの非合理な熱は、いずれあいつ自身を焼き殺すことになる」


「……ならば、そなたはなぜ付き従う」


老騎士の問いに、シリルの六分儀を弄る指先が一瞬だけ止まる。


「聖都の権力者の道が断たれた今、彼に付き従っても何の利益もなかろう。そなたのその冷めた目なら、彼の理想が泥に沈む結末など、とうに見えているはずだ」


シリルは六分儀を懐にしまい、壁の布切れに寄りかかった。 自嘲の笑みが、自然と漏れる。


「……俺は、イニャス家の三男坊です。没落し、聖都の片隅で埃を被っていた貧乏貴族の末っ子ですよ。あの壁の中には、最初から俺の居場所なんてなかった」


シリルは銀色の瞳で、暗闇を見つめた。


「どうせクソみたいな世界だ。壁の中で腐りゆく特権階級の顔色を窺って生きるくらいなら……一番馬鹿で、一番損な生き方を選んだ男の『影』になってやるのも悪くないと思ったんですよ」


それは、忠義というような美しい言葉で飾れるものではなかった。 ただ、この冷え切った世界で、レオナードの放つ「非合理な熱」だけが、シリルの冷徹な読みを狂わせる唯一の異物であり、彼を現実に繋ぎ止める微かな温もりだったのだ。


シリルはそれ以上語るのをやめ、目を閉じた。


「……おしゃべりはここまでです。明日の地獄に備えて、少しでも熱を温存しておくことですね」


天幕の中に、再び灰色の風の音が響き始める。 暗闇の中で、ノアの視線がこちらに向けられているのを感じた。


ガラス玉のような、すべてを透かして見ているようなあの碧眼。 彼女の眼には、自分とレオナードのこの奇妙な主従関係が、どのように視えているのだろうか。


シリルはそれを問う気にはなれず、ただ冷たい双短剣の柄を握りしめたまま、短い眠りへと意識を沈めていった。



   *



どれほどの時間が経っただろうか。


シリルは、浅い微睡まどろみの中から急速に意識を浮上させた。 影として培われた、危機を察知する本能。 テントの外の気配が変わったのだ。


灰色の雪が降る微かな音を掻き消すように、複数の足音が近づいてくる。 それも、忍び寄るような足音ではない。明確な敵意と、集団心理によって肥大化した「熱」を持った足音だ。


天幕の入り口の布がめくられ、冷気とともに大きな影が滑り込んできた。 レオナードだ。 見回りから戻った彼のバフコートには、うっすらと白い灰が積もり、その顔には深い疲労と沈痛な影が落ちている。


シリルは音もなく身を起こした。


「……随分と、騒がしい夜明けになりそうですね」


低く囁くと、レオナードは無言のまま短く頷いた。


「俺が水を出したことで、かえって焚き付けてしまったらしい。……お前の忠告通りにな」


外から、ざわめきが大きくなってくる。


『おい、本当にあいつ、アヴァロンの貴族なんだろうな!?』


『間違いない、剣の柄に紋章があったのをこの目で見たんだ!』


『水が出るってことは、もっと何か隠し持ってるに決まってる! 俺たちに隠れて、美味いもんを食ってやがるんだ!』


飢えと渇きに狂った難民たちの、根拠のない憶測と被害妄想。 彼らは昨日、レオナードが己の血肉を削って掘り当てた水に縋って生き延びたはずだ。 だが、喉の渇きが癒えた瞬間、彼らの頭の中を支配したのは「感謝」ではなく「もっと奪える」という底知れぬ強欲だった。


「だから言ったでしょう」


シリルは冷たく吐き捨てた。


「あの連中に、高尚な理屈は通じない。彼らは『聖都に見捨てられた可哀想な被害者』なんかじゃない。力がないから奪えなかっただけの、ただの飢えた獣です」


「……」


レオナードは反論しなかった。 彼の大地の琥珀色をした瞳には、理想と現実の残酷なギャップに対する痛みが渦巻いている。


テントの奥で、ローランが静かに立ち上がった。 老騎士の顔には、人間の業の深さを幾度も見てきた者特有の、重い諦観がある。


イリアは、外の怒号に肩をすくませながらも、ボロボロのドレスの胸元を強く握りしめ、必死に震えをこらえていた。 『聖都の人間なら、我々を救って当然だ』という外の暴徒たちの理屈。それは、つい数時間前までイリア自身が口にしていた「強者への甘え」と同じ構造だ。 その醜さを鏡で見せつけられているかのように、イリアの顔は青ざめ、しかしその瞳の奥には強い自己嫌悪と決意の火が灯り始めているのを、シリルは静かに観察していた。


(お姫様も、少しは現実が見えてきたようだな)


そして。 ノア・レクシア。 彼女は、外の暴動の気配にも一切動じることなく、壁際で静かに分厚い革表紙の本を抱えていた。 そのガラス玉のような碧眼は、暴徒への恐怖でも、彼らの強欲さに対する怒りでもなく、まるで「世界のことわりが間違った方向へ歪んでいる」のを見極めるような、冷徹な光を帯びていた。 極限状態の中で彼女だけが纏うその『静けさ』に、シリルは改めて底知れぬ気味の悪さを覚えた。


『出てこい、元貴族様! 俺たちにもっと施しをしろ!』


ドスッ、とテントの外から鈍い音が響いた。誰かが石を投げつけたのだ。


「……仕方ありませんね」


シリルは短くため息をつき、両手の双短剣を抜き放った。 チャキ、という冷たい金属音がテント内に響く。


「俺が外に出ます。……先頭の五、六人の喉笛を刈り取れば、残りは怯えて蜘蛛の子を散らすように逃げていくでしょう。救う価値などない連中です」


シリルは、極めて事務的に殺戮の手順を告げた。 それが、この極限状態における最も合理的で、被害の少ない手立てだ。


だが。


「待て、シリル」


レオナードの太い腕が、肩を力強く掴んだ。


「お前は下がっていろ」


レオナードは剣を抜かなかった。 武器を持たず、泥と血にまみれた両手をだらりと下げたまま、天幕の入り口へと向かう。


「レオ、正気ですか!? 奴らは話が通じる状態じゃありませんよ!」


「分かっている」


レオナードは振り返らず、ただ重く、揺るぎない声で答えた。


「だが、ここで俺たちが剣を抜いて彼らを切り捨てれば、壁の中で彼らを見捨てた奴らと何も変わらない。……俺は、二度とあの壁の中の理屈には戻らない」


それは、あまりにも愚かで、非合理な「至誠」だった。 シリルは双短剣を握りしめたまま、その広くて不器用な背中を、ただ歯噛みして見送ることしかできなかった。


テントの布がめくられ、レオナードが外の灰色の吹雪と、暴徒たちの渦の中へと足を踏み出していく。


(第15話 完)

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