ep14 未来からの搾取
泥の底から湧き出す、細く濁った水流。 死帯においては、黄金よりも価値のある液体だ。
シリルは岩陰で双短剣を下げたまま、その光景を冷ややかに見つめていた。
レオナードが泥まみれの両手で水をすくい、ひび割れた唇を潤す。その背中は泥と血にまみれていたが、息も絶え絶えだった先程とは違う、奇妙な力強さを取り戻していた。
「水だ……」
誰かの掠れた呟きが、谷底の静寂を破った。 水の匂い。極限の飢餓状態にある難民たちの本能を、一瞬で狂わせる麻薬だ。
ざわめきが波紋のように広がる。 泥のように地面にへばりついていた人々の瞳に、異常な飢餓の光が宿った。病人も、老婆も、男たちも。亡者の群れとなって井戸へと殺到する。
「どけ! 俺が先だ!」
「水を、一口でいい……子供に!」
哀願は一瞬にして暴行へと変わる。 押し合い、怒号が飛び交う。無秩序に伸ばされる手。せっかく湧き出た水脈が、無数の足に踏み荒らされそうになる。
「やめろ! 押し合うな、穴が崩れるぞ!」
レオナードが叫び、両手を広げて井戸を庇う。 だが、暴徒と化した群衆には届かない。巨躯のレオナードでさえ、飢えた腕の波に引きずり倒されそうになる。
(醜い。これが人間の本性だ)
シリルは内心で吐き捨て、地を蹴った。
「下がれッ!」
裂帛の気合。 シリルは人垣を縫うように躍り出た。両手の双短剣を翻し、刃を返すことなく、柄と峰で先頭の男たちの鳩尾や膝裏を的確に打ち据える。
「ぐはッ!」
数人が泥の上に転がった。 殺意と暴力の行使。冷水を浴びせられ、群衆の足がピタリと止まる。
「並べ。一滴残らず分配してやる。だが、穴を踏み荒らす奴の喉笛は、水より先にこの刃が潤すことになるぞ」
シリルは氷のように冷たい声で凄んだ。 暴動の熱が、急速に萎縮していく。恐怖による統制。美しくはないが、極限状態においては最も合理的な手立てだ。
「……シリル。怪我はないな」
「お人好しも大概にしてくださいよ、レオ。あんたが掘った水だ、まずはあんたが飲め」
シリルは双短剣を下げ、呆れたようにため息をついた。 レオナードは泥だらけの顔で苦笑し、再び穴の底へ向き直ろうとする。
「……どうして」
震える声が響いた。 背後で、ボロボロのドレスを纏った少女が、両手で胸元を握りしめていた。 泥に塗れた惨状を、悲痛な目で見下ろしている。
「どうして、こんな泥水を奪い合って傷つけ合うの……。あの城壁の中には、まだ光も水もたくさんあるんでしょう? どうして門を開けて、この人たちを助けてあげないの……!」
壁の中で守られて育ったであろう少女の、悲痛な、しかし他力本願な願い。 星法(奇跡)の残酷さを知っていてもなお、物理的な豊かさを持つ聖都の「慈悲」にすがろうとする甘さ。
その言葉は、凍りついた空気をさらに冷たくさせた。 周囲の難民たちが、少女を憎悪の目で睨みつける。シリルは温室育ちの世間知らずめと内心で毒づき、軽く肩をすくめた。
レオナードの動きが止まる。 ゆっくりと振り返る。大地の琥珀色をしたその瞳には、先ほどの難民たちへ向けた慈愛は欠片もない。激しい怒りが渦巻いていた。
「助ける、だと……?」
地の底から響くような声。
「あんたは、あの壁の中の豊かさがどうやって作られているか知っているか?」
「……星法で、星の命を削って……」
「それだけじゃない。奴らが星法で清らかな水を呼べば、代償として外の大地のどこかが必ず乾く。誰かの畑が枯れ、誰かの飲み水が奪われる。あの城壁は、外の民からすべてを搾取し、自分たちだけが生き残るための防壁だ。助けるわけがないだろう」
少女が息を呑む。 シリルは目を伏せた。知っている。レオナードのその怒りの根源を。
聖都アヴァロンの特権階級は、外の民を犠牲にして光を貪っている。その欺瞞に耐えきれず、彼は約束された未来を捨てたのだ。星の光を独占し、搾取を続ける者たちへの、底知れぬ憎悪。
「俺たちは、未来の子供たちの喉の渇きを先借りして、今の豊かさを貪ってきた。そのツケが、この『星の渇き』だ。だから俺は、二度とあの壁の中の連中には頼らない」
レオナードは再び、泥の底へ向き直った。
「奇跡が降ってこないなら、この手で掘り当てる。どれほど不格好でも、誰の明日も奪わない水で、俺は生きる」
静寂が下りる。 難民たちも、老騎士も、誰も言葉を発しなかった。レオナードの血を吐くような覚悟の前に、あらゆる反論は無意味だった。
だが。 シリルは不意に視線を感じ、横へ顔を向けた。
あの亜麻色の髪の少女――ノアが、レオナードの背中を見つめていた。
(……なんだ、その顔は)
シリルの背筋に、再び冷たいものが走る。 ノアのガラス玉のような碧眼は、先ほどまでの無機質な観測者のそれとは異なっていた。
特権を捨て、泥にまみれ、奇跡の救済を全否定するレオナードの不格好な生き様。先ほど彼を「美しい」と評した異常な言葉は、気まぐれではなかったらしい。彼女は今、その泥だらけの背中の中に、どんな星法よりも強烈で純粋な光でも見出したかのように、静かな熱を帯びた瞳で見つめているように見えた。
理解不能な感性。 極限の飢餓の中でも、血の滲む泥の中でも、彼女はただ世界の歪みと理だけを見つめているように思えた。
「シリル。柄から手を離せ」
背後からかけられた声に、シリルはハッと我に返った。無意識のうちに、双短剣の柄を強く握りしめていたのだ。 レオナードが、難民たちへの分配を終え、こちらを見ている。
「客人だ。水が出るまでの時間を稼いでくれた。……それに、パンの礼もまだだからな」
シリルは内心で舌打ちをする。素性の知れない三人組――手負いの老騎士、温室育ちの少女、そして底知れぬ異質さを抱えた亜麻色の髪の少女。こんな極限状態のキャンプに引き入れるには、あまりにも危険な劇薬だ。 だが、レオナードが一度口にした決定を覆さないことは、一番よく知っていた。
シリルは無言で双短剣を鞘に収め、軽く肩をすくめた。
「お人好しで命を落としても、知りませんよ」
レオナードはノアたちを振り返った。
「案内する。火はないが、風よけの天幕くらいならある」
*
獣の皮と継ぎ接ぎの布で作られた粗末な天幕。 悪臭と寒風を完全に防ぐことはできないが、吹き晒しの荒野よりは幾分かマシだった。 星法が使えないこの死帯では、詠唱で暖を取ることもできない。
シリルは天幕の入り口に立ち、腕を組みながら冷ややかに客人たちを観察した。
巨体の老騎士は壁際に座り込み、目を閉じて息を整えている。その装甲のひしゃげ方と、肉に達する深い傷。ひと目見て、それが並の星法使いによるものではないと見抜く。帝国の機甲兵か、それに類する圧倒的な質量の暴力の痕跡だ。ただの野盗にやられた傷ではない。
ボロボロのドレスの少女は、天幕の隅で膝を抱えて小さく丸くなっている。先ほどのレオナードの言葉に打ちのめされ、信じていた世界が崩れ去ったショックから立ち直れずにいるのだろう。
そして、ノアと名乗った少女。 彼女は壁に背を預け、手元にある分厚い革表紙の本を静かに撫でている。その瞳は天幕の中の誰を見るでもなく、まるで空間に引かれた見えない線を追っているかのようだった。
(……気味が悪い)
シリルは視線を外し、荷物から乾布を取り出してレオナードに放り投げた。
「拭いておけ。泥が傷口から入れば、水が出る前にあんたが死ぬぞ」
「悪いな」
レオナードは乾布を受け取り、顔と腕の泥を乱暴に拭う。
「……先ほどは、失礼な物言いをした」
沈黙を破ったのは、老騎士だった。目を開き、レオナードを真っ直ぐに見据える。
「アルカディア王国近衛騎士団長、ローラン・ヴァロア。……そしてこちらが、我が国の王女、イリア殿下だ」
(アルカディアの王族だと?)
シリルは銀色の瞳を微かに見開いた。 帝国に焼き払われたという西方の美しい都。その生き残りが、なぜこんな南の死帯にいるのか。 だが、レオナードは驚く様子もなく、ただ泥を拭う手を止めただけだった。
「そうか。……なら、引き返すことだな」
レオナードは低く、冷たい声で返した。
「あんたたちの目指す聖都アヴァロンの城壁は、もう開かない。あの壁の中には、あんたたちのような『過去の遺物』を保護する余裕なんてない」
「……」
ローランは何も言い返さず、ただ静かに深く頷いた。彼もまた、先ほどの惨状を見て聖都の冷酷な現実を悟ったのだろう。
だが、ローランの深い藍色の瞳が、不意にテントの隅に向けられた。 その視線の先にあるものに気づき、シリルは舌打ちを噛み殺した。
テントの隅に無造作に立てかけられた、レオナードの長剣。 装飾を削り落とし、泥と血にまみれた無骨な剣だが、柄尻の金属部分に微かに彫り込まれた紋様が残っている。「獅子と百合」。聖都アヴァロンの特権階級、高位の聖騎士のみに許された意匠だ。
(……気づかれたか)
シリルは音もなく踵を浮かせ、いつでも双短剣を抜ける体勢をとる。 没落したとはいえ王国の騎士団長。聖都の事情に明るければ、意匠からレオナードの素性に辿り着くかもしれない。極限状態の難民キャンプの中で「元・特権階級」という身分が露見すれば、それは致命的な火種となる。
だが、ローランは剣から視線を外し、再び目を閉じた。
「……我らのような流れ者を招き入れていただき、感謝する。少し、休ませてもらう」
それ以上は何も問わないという、老練な武人なりの配慮だった。シリルは警戒を解かず、ただ微かに踵を下ろした。
夜が深まる。 天幕の外では、寒風に混じって難民たちのざわめきが絶え間なく聞こえてくる。 水が出た。その事実は、彼らを救ったと同時に、彼らの底知れぬ強欲に火をつけたのだ。
『水が出るなら、隠し持っている食料もあるはずだ』
『あいつは元貴族だ。俺たちにもっと施すべきだ』
そんな醜い囁きが、闇の中で増殖していくのがシリルには手に取るように分かった。 明日の朝には、今日以上の地獄が待っている。
暗闇の中で真鍮の六分儀を弄りながら、シリルは壁際で浅い眠りにつこうとするレオナードの無防備な背中を睨みつけた。
(……あんたのその非合理な熱が、明日、あんた自身を焼き殺すことにならなければいいがな)
シリルの読みに照らし合わせれば、明日の生存確率は極めて低い。 それでも、この愚かな主君を見捨てるつもりはなかった。
天幕の外で、灰色の雪が降り積もる。 星法なき世界で、生き残るための過酷な夜が更けていった。
(第14話 完)




