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ep13 泥の王子の従者

【新生歴一二〇年刊・歴史編纂書『五星の鎮魂歌』 第三章 冒頭より抜粋】


光が強ければ強いほど、その足元に落ちる影は濃く、そして冷たい。


神の恩寵と讃えられた極光は、決して等しく降り注ぐものではなかった。天を指す塔は、大地から残された命の熱を吸い上げ、選ばれた者たちの空だけを照らした。厚い石壁の外側で、無数の民が泥をすすり、渇きに抗いながら死んでいく。最も残酷な略奪は、常に「祈り」という美しい布に包まれて行われる。


だが。その冷え切った泥沼の底から、素手で熱を掘り起こそうとした愚か者がいた。彼の両手からこぼれ落ちた泥こそが、世界を動かす最初の火種であった。そして、その泥を喜んで共に被ろうとしたもう一人の影がいたことも、正しく記憶せねばならない。


——ミア・エーテルガルド著『五星の鎮魂歌』より



   *



ザクッ、ザクッ。


単調な音が響く。硬い岩盤を砕き、泥を抉る無骨な音。 シリル・イニャスは、岩陰に身を預けたまま、ひどく冷めた銀色の瞳でその音の震源を見つめていた。


頭上には、聖都アヴァロンの七つの集光塔が偽りのオーロラを放っている。だが、巨大な城壁の外側に広がるこの谷底には、神の光は一筋も届かない。あるのは、汚物と死臭が入り混じる泥濘ぬかるみと、継ぎ接ぎだらけの天幕の群れだけだ。星の加護を失い、詠唱で火を熾すことも傷を癒やすこともできなくなった難民たちは、人間としての尊厳を失い、泥の塊のように地面にへばりついていた。


「やめとけって。どうせ水なんて出ねえよ」


「お坊ちゃんの泥遊びだ。腹が減るだけ無駄だぜ」


何人もの男たちが、嘲笑と苛立ちの混じった声を投げかけていた。彼らの視線の先では、一人の男が泥まみれになって巨大な穴――井戸を掘り続けていた。


衣服はボロ布のようにすり切れ、地肌が見えている。だが、その筋肉の動きには一切の無駄がない。泥を掘り、掻き出し、再び振り下ろす。その反復に込められた熱量は、死に絶えたような難民キャンプの中で完全に異質だった。


(……やれやれ)


シリルは小さくため息をつき、手遊びに真鍮の六分儀を回した。


泥を掘る男の名は、レオナード・カスティーユ。つい先日まで、あの光り輝く城壁の内側で、聖都議長の長男として約束された未来を享受していたはずの男だ。だが彼は、特権階級の「選民思想」に吐き気をもよおし、自ら騎士の称号を捨てて城門の外へ飛び出した。見捨てられた民に、己の手で水を与えるために。


(愚かだ。あまりにも非合理的すぎる)


冷徹な読みに照らし合わせる。この死帯ヴォイドで、枯渇した精霊結晶エーテルコアは役に立たない。星法という奇跡が使えなければ、水脈を探り当てることなど不可能だ。泥を這いずり回る主君の姿は、シリルからすれば極限状態における狂気か、自己満足の偽善にしか見えなかった。


「もうやめろよ、レオ。手の皮が剥けてるぞ」


シリルは人垣を掻き分け、歩み出た。右手には、光を失って黒く変色したコアを握っている。現実を突きつけるための小道具だ。


「この死帯じゃ、コアはもう光らない。星法が使えなきゃ、水脈なんて見つけられないんだ。こんな泥をいくら掘ったって……」


「だからどうした」


泥を掘る手は止まらなかった。スコップの柄を握るレオナードの手に、血が滲んでいる。


「星の光なんざ当てにするから、こんな泥水をすする羽目になるんだ」


「でも……」


「奇跡が降ってこないなら、自分の手で掘り当てるまでだ。天を見上げて口を開けてる暇があるなら、泥を舐めてでも土を掘れ。水は、俺たちの足元にある」


無骨な一撃が、泥の層を深く抉った。周囲の男たちが呆れ顔で散っていく。シリルもまた、呆れと諦めが入り混じったため息をこぼし、岩陰へと戻った。


(……救いようのない馬鹿だ。だから、放っておけないんだがな)


没落貴族の三男坊であるシリルが、すべてを捨てた男に付き従っている理由。それは忠義などという美しいものではない。ただ、この絶望的な世界において、レオナードの持つ「非合理なまでの熱」が、冷え切った心をわずかに温めてくれるからだ。泥を被るのはシリルの役目だ。主君が狂気の中で倒れるその時まで、現実の泥濘から少しでも遠ざけてやる。


腰の双短剣の位置を確かめ、周囲の警戒に戻った、その時だった。


「……ん?」


視界に、異質な三つの影が入り込んだ。


淀んだ空気を切り裂くように、キャンプの奥へ向かって歩いてくる三人組。巨体の老人は、ひしゃげた白銀の甲冑を引きずっている。歩みはふらついているが、隙がない。歴戦の武人の歩法だ。その背に隠れるように歩くのは、ボロボロのドレスを纏った少女。気品ある顔立ちは泥に塗れているが、瞳の奥に強い意地が燃えている。


だが、シリルの視線は先頭を歩くもう一人の少女に釘付けになった。


陽光を透かす亜麻色の髪。少しサイズの大きい書記官用のベスト。極限の飢餓と悪臭に満ちたこの場所で、彼女だけが奇妙なほどの『静けさ』を纏っていた。絶望に顔を歪めるでもなく、同情に涙を流すでもない。ただ、冷徹なガラス玉のような碧眼で、周囲の悲惨な光景を、地図に書き込む価値もない風景として眺めている。


(……なんだ、あの眼は)


影として培われた勘が、警告を発する。あの少女は、世界を同じ視座で見ていない。強者特有の威圧感とも違う、底知れぬ異質さ。


少女は迷うことなく、真っ直ぐに――レオナードが井戸を掘っている場所へと向かって歩を進めてきた。


シリルは音もなく岩陰から滑り出し、双短剣の柄に親指をかけた。極限状態の難民キャンプにおいて、見知らぬよそ者の接触は略奪か殺戮のどちらかと相場が決まっている。


(これ以上、あの男の泥遊びを邪魔させるわけにはいかない)


冷たい殺気を隠し、三人の行く手を遮るべく、足音を殺して距離を詰めた。


「……止まれ」


両手の双短剣をだらりと下げたまま、低く冷たい声で警告した。


殺気は放たない。だが、踏み込めば即座に喉笛を刈り取るという、極めて実戦的で研ぎ澄まされた間合い。


巨体の老騎士がピタリと足を止め、腰の折れた剣に手をかけた。その顔には疲労の色が濃いが、構えには微塵の隙もない。シリルは内心で舌を巻いた。あの手負いの状態からでも、相打ちに持ち込むだけの「死の技術」をこの老兵は持っている。


「……我らは争いを求めに来たわけではない。退いてはくれまいか」


「同情を誘うなら他所でやれ。ここは、お前たちのようなお歴々が物見遊山で来る場所じゃない」


シリルは銀色の瞳を細め、老騎士の背後に立つ亜麻色の髪の少女を睨み据えた。


彼女は、抜かれた刃を一瞥だにしなかった。彼女のガラス玉のような碧眼は、シリルの存在を通り越し、後方で泥を掘り続けているレオナードにのみ固定されている。


(俺の刃が、見えていないのか? ……いや、違う)


本能が告げていた。この少女は、シリルを「脅威」として認識すらしていない。路傍の小石か、あるいは意味を持たない風景の一部としてしか見ていないのだ。


「……道を開けてください」


少女が、静かな声で言った。それは命令でも懇願でもなく、ただ「そうなるべき事象」を告げるような、酷く平坦な響きだった。


「断ると言ったら?」


「貴方の刃は、私には届きません。……その軌道は、すでに視えていますから」


ハッタリではない。背筋に、氷を当てられたような悪寒が走った。瞬きすらしないガラス玉のような瞳に見つめられたその瞬間、自分の筋肉の収縮から踏み込みの角度まで、すべてを冷徹に見透かされたような奇妙な錯覚に陥った。


思わず一歩後ずさった、その隙を突いて。少女は音もなくシリルの間合いをすり抜け、井戸の底へと歩みを進めた。


「おい、待てッ!」


振り返るよりも早く、彼女は泥だらけになってスコップを振るうレオナードの背後へと辿り着いていた。


レオナードの動きが、ふと止まる。彼は荒い息を吐きながら、泥まみれの額を拭った。限界が近い。これ以上泥を掘り続ければ、体内の熱が完全に失われ、倒れる。傍目にもそれは明らかだった。


ゆっくりと歩み寄る少女の足音に気づき、レオナードが振り返る。泥と汗にまみれた顔。だが、その大地の琥珀色をした瞳は、意志の強さを失っていない。


「……なんだ。見世物じゃないぞ」


警戒を含んだ、低くしゃがれた声。少女は無言のまま、懐に手を入れた。


(武器か……!?)


シリルが双短剣を握り直して飛び込もうとした瞬間。少女が取り出したのは、固く焼かれた乾パンの包みだった。彼女はそれを、泥だらけの男の目の前へ静かに差し出した。


「……何の真似だ」


「水が出るまで、あと少しです。貴方の熱が足りなくなる前に、補給を」


レオナードは乾パンと、差し出された手を交互に見た。シリルもまた、我が目を疑った。極限の飢餓状態にある難民キャンプで、見ず知らずの他者に食料を渡す。それがどれほど異常な行動か。


(狂っているのか、それとも極限状態の偽善か)


冷たい目で少女を見定める。見返りを求めているようには見えない。


「俺を哀れんでるのか」


レオナードが低く唸る。


「哀れみではありません」


少女は、真っ直ぐに見据えて答えた。


「貴方の引こうとしている線が、途切れるのを見たくないだけです。……それは、とても美しい形をしていますから」


(美しい……?)


シリルは思わず眉をひそめた。泥水に塗れ、絶望の中でスコップを振るう男の姿の、一体どこが美しいというのか。


だが、レオナードは一瞬、戸惑うように眉をひそめた後、少女の瞳の奥にある真意を探るように見つめ返した。やがて、泥だらけの手で乾パンを受け取る。


そのまま固いパンをかじり、咀嚼する。わずかに生気が戻った琥珀色の瞳が、再び少女を向いた。


「……レオナードだ。レオナード・カスティーユ」


ポツリと、フルネームを名乗る。


「ノアです。ノア・レクシア」


ノアと名乗った少女の顔に、初めて微かな感情の揺らぎ――敬意のようなものが浮かんだのを、シリルは確かに見た。


レオナードは短く頷くと、熱を取り戻した腕で再びスコップを握り直し、泥の底へ向けて力強く突き立てた。


ザクッ。


その無骨な一撃が泥を貫いた、その時だった。


スコップの刃の先から、チョロチョロと、かすかな水音が響いた。濁ってはいるが、確かな水脈の脈動。泥の中から、命を繋ぐ水が湧き出し始めていた。


「……嘘だろ」


思わず双短剣を取り落としそうになる。星法という奇跡に頼らず、枯れ果てた死帯の泥の底から、人間の力だけで水を引き当てたというのか。


背後で、老騎士が静かに頷き、ドレスを纏った少女が短く息を呑む気配がした。


見捨てられた絶望の谷底に、一つの小さな、しかし強烈な「生命の熱」が生まれた瞬間だった。シリルは湧き出す水と、それを見下ろすノアの横顔を、ただ言葉を失ったまま見つめ続けていた。


(第13話 完)

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