静かなる無心の領
「魔晶石一つで夢が叶うはずだった——しかし、世界はいつも代償を求める。」
影の侯爵ゼルドランは、霧に包まれた暗黒領「ヴェイルシャドウ」を統治していた。
表向きは冷酷で計算高い悪役領主として知られ、税を厳しく取り立て、裏切りを許さないと恐れられていた。
しかし実際は、配下の魔族が飢えないよう、領地の均衡を保つことに腐心する善政の領主だった。
ある日、ゼルドランは古い禁書から「絶対服従の影冠」を作った。
「これを使えば、争いをなくし、皆が平和に暮らせるはずだ」
彼は冠を被せた者に穏やかな忠誠を植え付け、領地内の無駄な争いや反乱を防ぐつもりだった。
家臣たちは満足した。侯爵の善政がより安定する。
下級魔物たちは冠を被せられ、初めて十分な食料を与えられ、喜んだ。
人間の残党たちも、過酷な労働から解放され、静かに暮らせるようになった。
ヴェイルシャドウは見違えるほど平和になった。
税は公平に集められ、誰も飢えず、争いも起きなかった。
ゼルドランは玉座で静かに微笑んだ。「これでようやく、皆が幸せになれる」
しかし、数ヶ月が過ぎた。
家臣の一人は、朝起きると自分の感情がほとんど残っていないことに気づいた。
下級魔物たちは、冠の効果で笑うことも怒ることもなくなり、ただ与えられた仕事を機械的にこなすだけになった。
人間の残党たちは、感謝の言葉すら失い、ただ黙って生きていた。
やがて影冠の効果はゼルドラン自身にも及び始めた。
彼は善政を続けようとしたが、自分の心が徐々に薄れ、臣民を「管理する対象」としてしか見られなくなった。
善意で始めた統治が、ただの無感情な秩序に変わっていくのを、侯爵は静かに感じていた。
ゼルドランは最後に、自分の冠の内側に刻んだ小さな文字を読んだ。
「絶対服従の影冠はできる。しかし、善政を望む者が自らそれを使えば、世界は本物の自由を十重に求める。偽りの平和は、善意であっても均衡を失う。」
影の侯爵ゼルドランは、玉座に座ったまま動かなくなった。
領地は完璧な平和を手に入れたが、そこに住む者は誰も「自分」ではなくなっていた。
今ではその領地は「静かなる無心の領」と呼ばれ、魔王軍ですら近づかなくなった。
「魔力の均衡は、決して保たれなかった。人間がそれを試すたび、世界は静かに、しかし確実に代償を回収した。」




