3.幻祥山脈
尾根伝いの移動は困難を極めた。疲労でへとへとになった一行は適当に風を避けられる場所を探し、今夜の宿とする。
「ちくしょう。歩きづらいったらありゃしないな」
「風も強くなってきたか」
「引き返そうよ」
「もう来た道の方が長い。それは難しい」
ドーナの弱音にロンズが首を振る。
山頂付近には雪が積もっている。それは湿り気を帯びた残雪で踏みしめると重く沈むのだ。一歩一歩が彼らの体力を奪って行く。行程を妨げるのはそれだけでは無い、山脈に当たる風が下方より噴き上がり、それが不安定な足場を進むシャズ達に死神の如く襲い掛かって来る。
昨日までは順調だったのだ。快晴の空に光る雪は幻想的ですらあった。様子が変わったのは今日の昼を過ぎた頃。突如現れた黒雲と共に大粒の雨が振り出した。幻祥山脈では非常に珍しい山頂付近の雨だが、それが残雪と交じり、行く手を阻んだ。
「こりゃあよう、雨が止むまで待つに限るぜ」
「そうだな。無駄に体力を失う事は無いだろ」
「びしょびしょだよ。尻尾が重いー」
ドーナのいつも元気に横揺れしている尻尾も、湿り気を帯びて垂れ下がっている。
「どちらにせよ、このままでは進めないな」
「どれくらい来たんだ?」
「五分ってとこか?何せ見通せねぇから難儀だぜ」
シャズの疑問にドドランが曖昧に答える。
「問題は下りだ」
「下り?」
「おーよ。ミングの村に辿り着く為に目印があるのさ」
「ムガ族の村か」
ラパラを出た事の無いシャズやドーナもムガ族は知っている。左右の頭角を持ち、蹄のある強靭な脚が特徴的な種族だ。彼らは山歩きを得意とし、山と共に生きる事を生業としている。時折幻祥山脈を越えてラパラを訪れるムガを二人は見たことがある。
「この先二峰越えたあたりに清水が噴き出す岩があるのさ、川の源泉てやつだ。そいつを行けばミングに辿り着くって寸法よ」
「分かりやすいな」
「だが、この雨、か」
「そうだ。雨で噴き岩がどれか分かりゃしねぇ」
「それじゃ迷子ってこと!?」
「止むまで待つしかないか」
「焦ったってしょうがねぇや。ここはどんと構えようぜ」
「そうだな。幸い、この場所は雨風が凌げる」
シャズは辺りを見渡した。庇のように突き出した岩の下、ロンズの言う通り、ここならば体力を消耗せずに済む。
「さあ、濡れちまった薪を乾かすぞ」
背負っていた薪束の下から乾いた薪を取り出し、濡れた薪を周りに配置する。こうすれば、湿気た薪も再利用が出来る。四人は降り止まない雨を横目に野営の準備に入った。
「ドドランは将来、山師になるのか?」
「馬鹿言うなや、おりゃあもう立派な一人前よ」
「ドドランは凄いよね!僕らの知らない事一杯知ってるし」
人心地ついて、火に当たりながら、乾いた尻尾の具合を確かめつつドーナがドドランを褒めると、ドドランも吝かではないのか、よせやいと照れながら返す。長雨の中、四人は車座になって身近な事やこれからの旅の事をぽつぽつと話し出す。
「山を越えたとして、ミングの村からはどう動けばいいのか、全く分からないな」
「そらそうだぜシャズ。ラパラを出たダパなんてほんの一握りだろうさ、しかも全員船旅と来てやがる」
「聞き回った限りでは、ミングの村から北は荒地らしい。それ以上詳しい事を知る大人は村にはいなかった」
「ねぇやっぱり船を待った方が良かったんじゃない?」
ドーナの無邪気な一言に一同は黙ってしまう。
「いつもなら秋口の前に船が来るよね?」
「夏に収穫したモロコシを運ぶ船か」
「そうそう。身の詰まったモロコシは美味しいよね」
「来るか分からない船を待つのは性に合わん」
「おれもロンズに賛成だぜ。何より海は怖くてなんねぇ」
ダパは水に弱い。毛量が多く、長く泳ぐ事が出来ない。ましてや、海に落ちれば命は無い。海を嫌うダパは多い。
「ドーナ、何度も話しただろ。この時期の船は北には行かない。東に向かう船なんだ。それも命懸けで大洋を渡る船だ。この旅とは目的が違いすぎる」
「でも、お願いしたら、北に寄ってくれるかもしれないよ?」
「あいつらが大好きな金とやらを沢山積めばな」
シャズは時折船で来るズマの民の顔を思い出す。大陸西部を拠点とする種族で猿人の亜種らしい。不思議な事にその体は体毛が非常に薄く、尻尾すら生えていない。しかも耳が横に付いているのだ。そいつらはダパを見下したような表情でやって来て、パタグマの肉をいくらかの金と交換する。さらにその金で彼らからモロコシを幾分か購入する。その流れがダパ唯一の交易だった。
「まあつまりは山を越えて荒野を行くしかないってこっちゃな」
「気が滅入るな全く」
「まあそう言いなさんなロンズ。これはダパ始まって以来の大冒険だぜ。上手いこといきゃ、末代まで語り継がれるような話だ。無事帰りゃ嫁さんも選り取り見取りときたもんだ」
「え、じゃあシンリーちゃんも!?」
「お、ドーナは好きな娘がいるのか。ロンズはどうなんだよ」
「あ、いや、俺は……」
そう言いながら、顔を真っ赤にするロンズ。
「おやおやおや?次期族長様も好いた娘がいるようだ」
「なんだロンズ。そんな形して、やる事やってるのか?」
「お前達には関係無いだろ!」
ドドランとシャズが詰め寄るとロンズは鬱陶しそうにそっぽを向いてしまった。
「そんな怒るなよ。悪かったって」
「そうかぁ、シンリーちゃんが僕のお嫁さんに……」
一方ドーナは一人の世界に入ってしまっている。そんな姿を見ながらシャズは考える。そんなに好きと想える相手が自分にはいるだろうか。大事な人。父さん、母さん、そして弟。考えはそこで途切れる。どうやら、シャズの春はまだ来ていないようだ。
「帰ったら……」
「ん?」
「結婚を申し込む相手は決めてある」
ロンズが小さな声でそう呟いたのを危うく聞き逃しそうになる。
「おーそりゃあ何としても帰らなきゃな」
「ロンズは一途そうだよな」
「シンリーちゃん……」
そんな他愛無い話をしながら、外の降り続く雨が消えるのを願う四人だった。
雨は止まなかった。丸二日立つが、その雨足は弱まる気配すら見せない。
「こんなに降るなんて」
「雪もすっかり溶けちゃったな」
「まずいなこりゃあ、飯が底を尽きそうだぜ」
ドーナの不安を隠す事の無い声色にシャズも同意を表す。ドドランは背嚢を確かめながら顔を顰める。
「だが幸いな事に少し暖かくなった。もし、明日まで止まなければ無理にでも先に行くしかないかもな」
「この冷たい雨の中を行くの!?」
ドーナの悲鳴が木霊する。だが、ロンズの言う通り、雨によって雪が溶けたせいか、若干気温が上がっている。今ならばそこまでの体力を消耗せずに先に進めるかもしれない。
「そうだな。山を無事降りれれば、食料も探すことが出来る」
「えー、僕は反対だなぁ」
「かぁー、自慢の熊腹が泣いてるぜ、男なら覚悟決めろ!」
そう言ってドーナの腹を叩くドドラン。ドーナは突然叩かれて不服そうだ。
「薪が今日で尽きる。どちらにせよ、明日出発だ」
「分かったよ。今日は寝とこう」
その日の夜は静かだった。
朝日と共にシャズは目を覚ました。山影から朝日が差し込んでいる。待ち望んだ太陽が昇っていた。
「見ろ!晴れたぞ!」
「んーまだ眠いよぉ……」
「お、こりゃあ立派なお天道様だ」
「よし、出発の準備だ」
黒雲はすっかり晴れていた。まだ濡れた山並みがきらきらと輝いている。一行は足も軽く行程を進む事になった。
歩く事半日程、まだ噴き岩は見えないが、随分と目的地に近付いて来たと思われる。
「おい、止まれ」
突然、ドドランの鋭い声に全員が動きを止める。
「どうしたの?ドドラン」
「しっ!」
ただならぬ様子のドドランに三人は戸惑う。彼は耳を地面につけるとじっと動かなくなる。
「まずいな」
「何がだ?」
「山狗だ」
「ひえ!山狗だって!?」
山狗は群れで狩りを行う動物だ。夏のある時期のみラパラにも現れ、パタグマを襲う。時折だが、ダパをも襲う事もあると聞いた事がある。
「さっき遠吠えが聞こえたぜ。まだ距離があるが、奴らの脚ならすぐだ」
「どっちからだ?」
ドドランは何も言わず後ろを指差す。
「ならば先を急ごう。噴き岩さえ見つければこちらのものだ」
「間に合うか?」
「山狗は泳げない。川さえ見つければ逃げ切れる」
「はやくはやく!行こう!」
四人は走り出した。険しい岩肌を跳ぶように駆ける。後方から遠吠えが聞こえた。あちらも気付かれた事を悟ったようだ。まだ姿は見えないが、確実に近付いて来ている。
「ちくしょうなんとも上手くいかねぇな!」
「口を開く前に走れ!狗共の餌になりたいのか!」
「うわー!」
シャズは走りながら後ろを振り返る。既にその姿が見えていた。六頭はいるだろう。凶悪な牙を揃えた口に四本の強靭な脚。背中に棘のある背鰭のような物がある。山狗だ。
「向こうの方が速いぞ!」
「そらそうだろうよ!」
「お肉投げたらそっち行かないかな!?」
そう言いながらドーナが干し肉を後ろに投げ捨てる。
「お、食い付いてやがる!」
ドドランの言う通り、二匹程肉に喰らいついた。しかし、残りの四匹は一心不乱に駆けてくる。
「皆も投げてよー!」
「俺は無い!」
「こっちもだ!」
ドーナは余分に食料を背負って来たのをシャズは知っている。シャズ達は肉は先に食べてしまったのだ。
「ロンズ!」
「なんだ!」
「鍋貸してくれ!」
「あ、ああ?」
「いいから!」
ロンズの背中から鍋を毟り取るとシャズはその場に足を止めた。
「先に行け!こいつらを引きつける!」
「バッカ!いいから走れ!」
「シャズ!」
「シャズ駄目だよー!」
「ミングの村で落ち合おう!」
追い掛けて来ないように逆に走り出す。シャズには勝算がある訳では無かった。ただ、仲間を守りたかった。親友のドーナ、次期族長のロンズ、旅には必要だろう物知りのドドラン。盾になるなら守る者の無い自分だろう。後ろを一度振り返るとこちらに来ようとするドーナをロンズが引きずって行くところだった。
「よし、さあ来い山狗共!」
ロンズの鍋を両手に持ち山狗に向かって走る。一匹目が食い付いて来た。鍋の取手を持ち、その鼻先にスイングする。
キャインッ!
思わぬ反撃にもんどりを打って転がる山狗。一匹目の出鼻を挫いたので、周りの三匹が警戒して攻めてこない。
「こっちだ!」
皆の所へは行かせないように尾根を降りる。
「さあついてこい!」
後ろからさらに二匹が合流して六匹になる。どうやら先行する三人を狩るより確実にはぐれた一人を狩る事に決めたようだ。次々に襲い掛かって来る山狗達を巧みに躱しながら、山裾を飛び降りて行く。
「あぐっ」
だが、限界が来た。先程の鼻先を殴り飛ばした一匹が執念で肩口に喰い付いて来る。何とか弾き飛ばしたが、肩からは止めどなく血が垂れていた。
「はぁ、はぁ……ここまでか」
シャズは覚悟を決める。鍋を投げ捨てると、背負った荷物も下ろして身軽になる。パタグマの毛皮一つを首に巻き付け、断崖を見下ろす。高い、今までこんな高所から飛んだ事は無い。だが、生きる道は他に無い。山狗達が飛び掛かって来た、しかし、遅い。
「じゃあな。無駄骨だったな狗共」
そう言うと、断崖に身を投げる。自然落下の凄まじい風圧がシャズを襲う。
「むうううう!」
地面が見えた。シャズはあらん限りの力で飛膜を開く。落下は緩やかになった。みるみる山肌が遠ざかって行く。既に見えなくなりつつある。
「ぐううう、なんて冷たさだ!」
飛膜が風を受け続けるだけ、体温を奪って行く。腕が動かない。方向を制御出来ない。地面が近付いて来た。森だ。ラパラでは見ないような葉の大きな木ばかり、しかし、今のシャズにはそんな事を気にする余裕は無かった。
「くそぅ、こんな所で……」
もう少しで森に着陸出来る。その手前で……シャズは意識を失った。
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