第八話 一緒にごはん
自室の前で荒い息をついているうちに、ネルはやっと正気を取り戻した。倉庫を開けっぱなし、台車も置きっぱなしにしてしまったことに気がついて、慌てて走る。申し訳なさで泣けそうだ。
扉は閉まっていた。そしてもう誰もいないことを確認すると、部屋までとぼとぼ歩いて帰った。
これが自己嫌悪というものか。これまでそれほど落ち込むことのない人生だったが、ヒューゴと出会ってから、ネルは新しい自分を発見し続けている。
部屋にあったものを適当に食べた後、ヒューゴにもらったお菓子の存在を思い出した。
薄緑色を手に乗せて見つめ、ぱくりと口に入れると、なんだかいつもより苦い気がした。
罪悪感と恥ずかしさで悶々としているうちに寝てしまった翌朝、ネルは意を決してヒューゴに会いに行った。
しかし結果は空振り。上司に確認してみたところ。
「ああ、出張だよ」
「出張!? 研究員って出張するんですか!?」
のほほんと言った上司に、ネルはつかみかからんばかりに迫る。危険を感じたのか彼はすっと距離を取り、かなり広めのおでこを拭きながら言った。
「魔力のある人を探しにね。彼みたいに魔力測定ができる人材は貴重だからね。たまに役人と一緒に各地に行ってもらうんだよ」
なんと、ネルが寝こけていた早朝の暗いうちに出立したと聞いて、罪悪感は膨れ上がった。そんなに忙しい時に、彼は自分を探し出し、さらには倉庫の後始末をしてくれたのか。
「あ、そうだ、ヒューゴくんと言えば、昨日の備品倉庫のことだけど……」
上司からの注意を聞き流しながら、ネルはがっくりとうなだれていた。
会えないまま、一週間が経った。
ネルは寮の自室に帰ろうとしていた。窓から外を見ると、紫や薄紅色に変わりゆく空が綺麗だ。
こんな時間でも、食堂に駆け込むことなく自分で夕食を作る余裕がある。ヒューゴのおかげだ。胸の中を、ひゅるりと風が吹き抜けていった。
ついに幻覚が見えるようになったか、とネルは思った。
建物を出たところで、視界の隅に黒髪をとらえた。ぶんと音がする勢いで見ると、腕を組んで壁に寄りかかっていた紫のローブの人物は、ゆっくりとこちらを向いた。
逃げたい。
ネルはごくりと喉を鳴らした。あんなにも会いたかったのに、今すぐ逃げ出したくて仕方ない。無表情がこんなに恐ろしいことがあるだろうか。
じり、と思わず後ろに足を出したネルに、ヒューゴは腕を組んだまま近づいてきた。背はネルより少し高いくらいのはずの彼が、大きく感じる。
「ちょっと、顔貸してもらえます?」
とても嫌とはいえなかった。
ずんずん進んで行くヒューゴについていくネルは、牧場から連れ出される子牛のような気分だった。
どうやら怒っているらしい彼に話しかけることもできないうちに、研究所を出て、公園に入る。
人通りの少なくなるこの時間に来るのは久しぶりだ。夕日を背にした木々が黒っぽく、迫ってくるよう。何を言われるのか不安しかない。
ヒューゴは歩道を逸れた木の近くで立ち止まった。
「まず、備品倉庫についてですが」
「うぁ、ふぁい!」
「扉は作業中開けておくように言われませんでしたか? 古くて、勢いよく閉めると開かなくなってしまうそうです。気をつけてください」
ネルは地面に擦り付けんばかりに頭を下げた。
「はい! その節は私の不注意で、すみませんでした! しかも、台車とか、そのままにしてしまって、本当にご迷惑をおかけしました!」
声を張り上げたネルに、ヒューゴは感情の籠らない声で返す。
「……まあ、それはもういいです。それより」
それはいいのか、と頭を上げかけたとき、ヒューゴがこちらを向いたのがわかった。一歩近づく足。
嫌な予感にぴょんと起き上がったネルは、続く言葉が怖くてぎゅっと耳を塞いだ。ついでに目も瞑る。
「……自分だけ好き勝手言っておいて。言い逃げとは」
ネルの知る限りヒューゴ史上一番低い声が、塞いだ耳から入ってきた。見えないのに、その表情がわかる気がする。後ずさった背中は行き止まりだ。ネルは叫ぶように言った。
「ごめんなさい聞きますどうぞ!」
「いや全然聞く気ないだろ!」
左手が捕まり、耳から離れた。
「ここのところ、ろくに研究が進まない。出張先で魔力を測定するのにも苦労した」
ヒューゴは苛立っているようだった。
「……どれだけ僕を振り回せば気が済むんだ、君は」
こぼれた言葉に思わず目を開けたネルは、ヒューゴのまつ毛が意外に長いことに気がついた。それから、目の下の隈にも。
「君が言ってくれたことは」
つかまれた手に力がこもる。鼓動の音が聞こえる。
「うれしかった。僕は愛想もないし、見た目も良くないし、気の利いた話もできない。女性から……その、告白、されるなんて縁のないことだと思ってた」
「そんなことないですよ! あと、女性だと思ってくれてたんですね!」
目の前の眉がぐっと寄るのを見て、ネルは黙った。
距離の近さに、何かしゃべっていないとおかしくなってしまいそうだ。
彼の視線はネルを通り過ぎ、どこかを彷徨う。
頬が赤いのは夕日のせいか、それとも。
「正直、その、……返答になるかどうか、わからない。ただ」
ヒューゴは目を伏せ、息を吐いた。
「君といる時間は、楽しいと感じる」
ネルは開きそうになる口をぎゅっと閉じていた。
心臓はきちんといつもの場所にあるだろうか。音がとても大きく聞こえるのだけど。
「だからもっと……長い時間を、過ごしてみたいと……思う。……以上」
最後は不貞腐れたような、ぶっきらぼうな口調だった。
どこを見ているのか顔ごと横を向いてしまったヒューゴに、ネルはぐっと近づいた。
紫色のローブに手が触れる。すうっとする香りが鼻をかすめる。
「私も!」
むくむくと想いが膨らんで、もう一秒だって身体に留めておけなかった。
「私も、ヒューゴさんともっと一緒にいたい」
顔を寄せた。息遣いを感じる。
――近づきたい。
あと少し。
「ちっ、イチャイチャすんなら他所でやれよなー」
通行人の大きな舌打ちが聞こえて、ヒューゴは手を離し、ズザザザザッと後ずさった先の木に張り付いた。
「あ、手、ごめん、だいじょう……」
ヒューゴは目を合わせない。
「大丈夫じゃないです」
ネルはすたすた近づいていって、その手を奪った。
「こういうこと、したいです」
ヒューゴは握られた手をびくりとさせたが、振り解きはしなかった。そのまま固まったように動かない。
のぞき込もうとすると顔を背け、ネルの方を頑なに見ないまま突然、歩き出した。
「どこ行くんですか?」
「……」
「ごはんですか?」
「……君は、そろそろ食べないとだめだろ」
見間違いじゃない。耳が真っ赤だ。不機嫌そうな声に、ネルは笑って返した。
「はい! ぺこぺこです!」
控えめに握り返された手がうれしくて、ネルはぶんと振り上げる。斜め上を睨み続けていたヒューゴはたたらを踏んで、ネルをじとりと睨む。
「言っとくけど、公園を出るまでだからな」
「ええー」
公園を出る少し前に本当に振り解かれて、ネルは不満顔だ。
ほっとしたようなヒューゴだったが、ネルの様子を見て立ち止まる。
「……手」
反射的に手を出すと、手のひらに置かれたのは茶色の包み紙。ヒューゴはすたすたと先に歩いて行ってしまう。
ネルは急いで中身を口に入れ、追いかけた。
薄緑色の焼菓子は、いつもよりとても甘かった。




