第四話 コントロールは難しい
「ええっと、もう一度いいですか?」
こめかみを揉みながら、ネルは唸った。
ヒューゴがネルの体質についての仮説を立てたと言うので、今日は訓練の後に資料室にやってきた。いつになく饒舌な彼は、心なしか生き生きしているように見える。
しかし大変残念なことに、ネルの頭にはその内容がすんなりと入ってこない。
「魔術師の中には、植物や大気などから力を吸収して己の魔力に変換し、魔術を扱う者がいたということだ。ここからはまだ推測の域を出ないけど、君はひょっとすると、食べ物を介して周囲からの力を得て、魔力に変換しているのではないかと僕は考えた。だから食べるほど魔力が増えるし、使うと空腹になる」
わかったような、わからないような。ヒューゴには悪いが、正直なところちょっと眠くなってきた。ネルがあまり普通ではないということだけは、理解できた気がする。
ネルは難しい顔をして、ふむと頷いた。
「なるほど……? それで、なんで魔力の制御が上手くなるといいんでしたっけ?」
「これまでの君は、体に留めておける魔力の量が少なかった。それなのに、出て行く魔力が多過ぎてふらついていたんだ」
「あれ? もしかしてじゃあ私、お腹が空き過ぎて倒れそうだったわけじゃないんですか!?」
目を見開いてヒューゴを見る。
「まあ、それも一因だろうけど。体内で魔力を上手く巡らせてやることができれば、それだけ取り入れた魔力を多く体に留めておけるはずだ。だからそうそう魔力不足になることはない」
「うーん……」
ネルは再び唸り、たっぷりと悩み、そしてひらめいた。
「あ! お財布が大きくなるみたいな感じですかね? 無駄遣いをやめて、しかもお財布が大きくなったから、お金が減りにくい!」
「まあ……そういう認識でもいい」
ヒューゴは呆れ顔だ。
次の瞬間、ネルは縋るような目でその顔を見た。
「ヒューゴさん、お昼です!食べに行きましょう!」
途端に鐘が鳴り出した。
諦めの表情で分厚い本を閉じ、ヒューゴは席を立つ。
「君の腹時計の正確さはすごいな。もうあの時ほどひどい状態にはならないはずだけど」
「それとこれは別です! 魔力があったってなくたってお腹は空きますからね! 食べるの大好きですし!」
ネルもガタリと席を立った。昼食を想いうきうきと椅子を整えたところで、ふと思い出して口を開く。
「そうだ、聞いてくださいよヒューゴさん。この街に来る前、私、男性に食事に誘われたことがあったんですけど」
「……食事に」
「はい。それで、お店に食べに行ったんです。あ、もちろん自分の食べた分は自分で支払いましたよ!」
ヒューゴは些かほっとしたように頷いた。
「そしたら、あんまりたくさん食べるからって、向こうから誘ったくせに振られたみたいになったことがあって。しかも二回も」
「……」
家族によると「黙っていれば美人」なネルは、年頃になると少々もてはやされかけたことがあった。が、彼らはすぐに離れていった。
曰く、食欲が度を越しているだとか、先のことを考えると金銭的にちょっと。だとか、そういうことらしかった。
ネルは憤慨した。
食べることが生きがいであり、恋愛や結婚に特別憧れのないネルにとって、そんなもの人生に必要ないと思わせるには、十分な経験だった。
もうすぐ十九歳。一生のうちに食べられる食事の回数は日に日に減っていくのだ。それならば、好きに働いて好きな物を好きなだけ食べる人生がいい。
そう宣言して引き止める家族を振り切り、はるばる都会まで出てきたのだった。
「あ、別にもう、全然、それはいいんですけどね! おかげで素敵な仕事も見つかって、好きなもの食べられるんで、むしろ彼らには感謝してますけどね!」
好きなもの食べられる、の辺りで満足気に笑ったネルは、次の瞬間には口を尖らせた。
「そりゃ、ちょっと、人よりかなり、よく食べますけど。残りそうなものがあると貰っちゃいますけど。でも、残さず食べるのって良いことだと思うんです。そして食事はとても大事です! 好きなもの好きなだけ食べたっていいじゃない! そうでしょ!?」
徐々に熱がこもり、最後は拳を握りしめて言い切った。
「まあ、たしかに」
静かに言ったヒューゴは、ネルの隣に並び。
「基本的に残さないのは良いことだし、量はともかく食事は大事だな」
わずかに笑みを含んだ声に、ネルはぶんと首を動かしてヒューゴを見た。
微かに上がった口角と、面白がるような緑の目が見えたのは一瞬で。すぐに元の表情に戻ったヒューゴはすたすたと歩いていく。
「行かないのか?」
「行きます!」
聞いておきながらそのまま出て行ってしまう彼を見て、ネルは慌てて後を追った。
柔らかな陽の光に照らされ、木の葉がつやつやと光っている。ふっくらとした蕾の先が色づいて、花咲く予感に胸がときめく。
いつもの公園の景色が、いつもより鮮やかに目に飛び込んでくるような気がして、ネルは弾むように歩いた。
「ヒューゴさんは、魔術師の試験を受けないんですか?」
追いついてその横顔を見ていると、ネルの口から気になっていたことが飛び出してきた。
「……」
彼はネルをちらと見て、また前を向いた。
「受けない。……少なくとも今は」
その声には何の色も感じられない。
「やりたいことが他にあるとか?」
「……まあ、そんなところ。しかし君までそれを言うとは」
ヒューゴは顔を前に向けたままだ。
気を悪くしただろうか。ネルは途端にしおしおと元気が萎んだ。
「ごめんなさい。気になっただけで、どうしろとかこうすべきとか言うつもりはないんです。そういうの、嫌ですもんね。女は結婚すべきとか、控えめであるべきとかほんと勘弁してほしかったです」
少し視線を落とし、ヒューゴはつぶやくように言う。
「別に気にしてない。ただ……」
黒髪が風にそよぐ。
「いや、何でもない」
眼鏡の奥の緑が揺れた。
浮かんですぐに消えた迷い子のような表情に動揺して、ネルは思わずヒューゴの前に飛び出した。
「ヒューゴさん急ぎましょう! とにかくごはんです! 腹が減っては頭も回りませんからね」
人差し指を立ててしかめつらしく言ったネルに、ヒューゴは眉を少し上げた。そしてわずかに口の端を上げる。
「君ほど空腹じゃない」
――また、笑った。
体が浮いていきそうなほど軽くなった。なんだかうずうずした気持ちのまま、ネルはくるっと前を向いてヒューゴの先を歩く。
「ヒューゴさん、今日は私、サラダも食べようかと思います」
「……いいんじゃないか」
「分け合いません?」
「僕の分が残るとは思えないけど」
「たしかに! あ、でも私、野菜はそんなになくても大丈夫ですから!」
「君には野菜も、せめて一皿分は必要なんじゃないかと思うけどな」
振り向いて見たヒューゴの呆れ顔を見て、ネルはまたうれしくなってスキップした。
その翌日。
「ふっふっふ」
会うなり怪しげな笑い方をするネルを見て、ヒューゴは不気味そうな顔をした。
「やりましたよ。ヒューゴさん。ついに昨日の午後はおやつほぼなしでいられましたよ!」
「ほぼ……? それはおめでとう。じゃあ始めよう」
ヒューゴにおめでとうと言われ、ネルは心が晴れ渡るようだった。しかしにこりともしないヒューゴを見て、少し冷静さを取り戻す。
魔石に適量の魔力を込めるため、魔力を絞って少しだけ流す。
その「少しだけ」の具合がなかなか難しいのだった。最初よりは良くなっていると思うのだが。
半透明の石に手をかざしたネルの手首に、ヒューゴの指が触れる。何度も繰り返したことだ。今日は少し緊張が走っただけ。
それなのに、どうしたというのだろう。せっかく整うようになってきた魔力の流れが、大幅に乱れた。
「……」
視線を感じる。ネルは焦った。深呼吸をして落ち着けようとするが、どうにもうまくいかない。
指が離れる。
「何かあった?」
「いえ、何も……本当に、どうしたんでしょう」
徐々に落ち着いてきたネルは胸を押さえ、首をかしげた。
思案顔で差し出された手にぽんと手を乗せると、またしても魔力は好き勝手に動き始めてしまって、ネルは愕然とした。
「今日はやめておこう」
手を離してあっさり言ったヒューゴの腕を、ネルはつかんで引き留める。
「あの、もう少し! せっかく……あの、時間、取ってもらってるのに申し訳ないですし」
「いや、調子の悪い時にやっても良くない。こういうのは精神的な影響も受けやすいものだし、少しずつ上手くなってるからそれほど急がなくてもいい」
「すみません……」
「……」
うなだれたネルの肩に、何か触れたような気がした。
「こういう日もある」
勢いよく顔を上げると、ヒューゴはもう部屋の扉に手をかけていた。
「次は休み明けに」
「はい! 次こそがんばりますね! 先生!」
「……先生はやめて欲しい」
嫌そうな声が返ってきて、ネルはくふっと笑った。




