猫はふみふみする 3
意識がすーっと浮上していく感覚がすると同時に、ぼんやりと目を覚ました詩織。
見慣れない天上と規則的な機器の音に、おそらく病院だろうということは分かった。ぼんやりとしながらもとりあえず今何時だろうと、いつもの癖で無意識にスマホを探そうとして、はじめて誰かにギュッと手を握られている感覚に気づく。
「しゅう、いち……」
かすれた声で傍らで目を閉じていた彼の名を呼ぶと、すぐに目を覚ました柊一が心配そうな顔で詩織の顔を覗き込んでくる。
「良かった、目が覚めて。気分はどうですか?」
「……うん。何か、まだちょっとフワフワしてる感じだけど、大丈夫そう」
詩織がそう答えると、柊一は握っていた彼女の手に自分のおでこを押し当てると、そのまま深い安堵のため息をついた。
一方的に別れ話をしたあとにも関わらず、どれほど彼が心配してくれたかを思うと胸が痛くなる。
しかし、柊一から告げられた次の言葉に、詩織の思考は完全にフリーズした。
「お腹の子も無事だって」
「……え?」
感情より先に、体の奥から一気に熱が込み上げて来るのが分かった。
言葉の意味が呑み込めずにいるのに、じわりと詩織の瞳の奥が熱くなったかと思えば、あとはもうボロボロと涙がこぼれていくだけだった。
「嘘……」
こぼれてもこぼれても目の前の柊一の顔がはっきり見えないほどあふれる涙。
「嘘じゃないです。詩織さん、僕たちの子どもを妊娠してるって……っ」
いまだ詩織の目は涙で滲んで柊一の表情はよく見えなかったが、彼のかすかに震えた涙声に詩織の胸はさらに熱くなった。
もちろん、交際期間中は柊一も詩織の体のことを思い、ちゃんと気遣ってくれていた。
それに年齢を重ねるうちに何かしらの不調がある日の方が多くなり、ここ最近の体調不良も心労や年齢からくるものだろうと思い込んでいた。
だから、まさかこんな事が起こるなんて夢にも思っていなかった。
まだ全然実感はないけれど自身の下腹部にもう片方の手をそっと当てると、指先がじんじんと熱くなっていく。
倒れるまで気づいてあげられなかった申し訳なさと、彼との子どもを宿した喜び、けれどそれと同じくらいの不安がごちゃ混ぜになって押し寄せてくる。
そんな詩織の手を、柊一はあらためてギュッと強く握り締めると、
「だから、もう一度言わせて……。僕と結婚してください。詩織さんのことは僕が全力で守っていきます。もちろん僕たちの子どもも。だから、お願いだから……結婚してください」
懇願するようにもう一度詩織にプロポーズしたのだった。
指先にかかる彼の息、握り締められた手から伝わる力強さとそのぬくもりが詩織の不安を丸ごと包み込んでくれる。
もう抗いようもなく、この愛と誓える。
きっと自分に必要だったのは、一緒に向き合っていくという勇気だったのかもしれない。
詩織は柊一の手を握り返すと、ようやく「はい」と答えたのだった。
◇◆◇
詩織の体調が落ち着くのを待って、二人は正式に挨拶をするために柊一の実家を訪れた。
彼の両親には柊一が先に事情を話してくれており、すでに婚姻の了承はもらっている。しかし、歳上でしかも授かってからの挨拶にきっと複雑な思いをしているに違いないだろう。
緊張した面持ちで自己紹介をしたあと、柊一の父親が静かに口を開いた。
「失礼ながら、最初に詩織さんの年齢を聞いたときは、正直、すぐに応えることができませんでした」
率直な言葉に、詩織も素直に頷いた。
「ご両親が心配なさるのは、当然のことだと思います。しかも、この度はご挨拶が大変遅れてしまい申し訳ありませんでした」
詩織が深くお辞儀をすると、柊一もそれに習って一緒に頭を下げてくれた。
「あ、いえいえ、頭を上げて下さい。もちろん柊一が一人息子だという想いもありましたが、理由はそれだけではなく……」
そんな二人に、彼の父親が少し慌てたように顔を上げるよう促す。そして隣に座っていた柊一の母親と顔を見合わせると、母親が小さく頷いて話し始めた。
「実は私自身、結婚をしてから数年経っても子どもに恵まれず……大変な思いをしてようやく柊一を授かることが出来ました。だから、もしかしたら貴女もそういう苦悩を抱え込んでしまうんじゃないかと思って……」
思ってもみなかった言葉に、詩織は思わず目を見開く。
「お義母さま……」
まだそう呼んでいいのかどうか分からなかったが、詩織の口は自然とそう呼んでいた。それに対して柊一の母親はちょっと照れたようにはにかんだ。
両親にとっても柊一が一人息子であり、孫への思いもどこかにはあった。
それでも、最終的には本人たちの気持ちに任せるつもりだったが、自身がそうだったようにもし一緒になったとしてもそれに対して思い悩み、相手に対して申し訳なさを抱えながら過ごしてしまわないだろうか、かつての苦悩を思い出して心配していたのだ。
息子から語られたこれまでの経緯を聞き、きっとそういう優しさを持った女性なのではないかと思った。
「息子はこういう性格でしょう? 頑固なところもあって、その思い込みが逆に貴女を思い詰めてしまわないか心配だったの」
母親からの思わぬ発言に、隣の柊一はほんの少し決まりが悪そうな顔で苦笑いしており、詩織も彼のそういうところは何度断っても告白をして来た時に経験しているので、思わずくすりと笑ってしまった。
ずっと緊張で強張っていた詩織が笑ったことで、その場の空気が柔らかくなる。
詩織は柊一の両親が心配していたのは息子のことだけではなく、自分の気持ちまで気遣ってくれていたことに深い感動を覚える。
「最終的には息子が選んだ相手なので、ゆっくり家族になっていければと考えていました。だから赤ちゃんの話は、私たちにとってもとても嬉しいことでした」
「しかも、双子だなんて。すごく大変だと思うけど、遠慮なく私たちに頼ってね。お父さんがさっき言ったように私たちはこれから家族になるのだから」
彼の母親の言う通り、なんと詩織は双子を妊娠していたのだ。高齢での初産、しかも二人となるとその不安は尽きない。すでに両親が亡くなっている彼女にとって、その言葉はとても心強かった。
「詩織さん、これからよろしくお願いします」
「お義父さん、お義母さん……こちらこそ、よろしくお願いします」
二人の言葉に感極まって泣いてしまった詩織の背中を、柊一が優しく撫でてくれたのだった。
◇◆◇
それから詩織は妊娠中のマイナートラブルに襲われたが、夫となった柊一はもちろん、それ以上に彼の母親が親身になってサポートをしてくれたおかげで、無事に健康な双子の男の子が生まれた。
詩織にとって、それは本当に奇跡のように思えた。
そんな心配をよそに、生まれてきた息子たちはというと二人ともとにかくわんぱくだったため、産後も義実家で育児を手伝ってもらうことになったのだが、大人4人体制でもボロボロになるほど大変だった。
詩織も彼の母親も目の下に大きなクマが出来ていて、ある日ふとお互いの顔を見て、ひどい有様に何だか可笑しくなって笑いが込み上げたこともある。そんな二人を疲れ過ぎてどうにかなったのかと心配する柊一と彼の父親の様子が面白くて、また笑ってしまった。
大変だけどでもその全てが愛おしく思える、かけがえのない家族の時間だった。
そんな育児に追われるある日、柊一と一緒に息子たちを双子用のベビーカーに乗せ散歩をしていた時、息子たちが急に「あぅ、あぅ」と何かを指差していたので、詩織が視線を向けるとネコ電車が通り過ぎて行った。
その時、詩織はふと路面電車の中で出会った不思議な猫の事を思い出した。
あのあと色々あり過ぎて、すっかり忘れていたけれどいま思い返して見れば、あの時、膝の上で何度もふみふみしたあと、頭を詩織のお腹の辺りに何度もこすりつけるような仕草をしたあの猫は、もしかしたらお腹に赤ちゃんがいたことを知っていたのだろうか。
あの時願った柊一の幸せが、今ここにある。
そんな彼の隣に自分がいること、そして元気な息子たちに囲まれていることに、心から感謝するのだった。
(=^・ω・^=) b!
お読みくださった皆さまに感謝です。
次話から新しいエピソードになります。
引き続き、最後まで見届けてもらえたら嬉しいです。




