猫はぽむぽむする 2
今でこそ洋希の思いつきで始めたおまじないのおかげで、夕希は病室まで父親に会いに行けるようになったのだが、当初はなかなか行くことが出来なかった。
洋希の病気が発覚し最初の入院から帰ってきた時、以前の父とは変わってしまった姿に夕希は大きなショックを受けた。
もちろん父親だということは分かっている。けれど、まだ幼い娘にとって父の病気がどういうものなのか理解するのは難しかったが、その姿を見てそれがどれだけ怖いことかを感じ取ってしまったのだろう。
しかも、父親の治療はそれが始まりだった。それから定期的に入退院を繰り返すことになる。夕希にとって病院は病気を治すところだということは何となく理解している。それなのに全然そうは見えない父の姿に、病院は怖いところだと思い込んでしまうのも無理はなかった。
父親である洋希もまた、当初は病気でしんどい姿を娘に見せるのには抵抗があった。
退院した時の夕希が号泣したことを思い出すと、なるべく元気な姿だけを見せてあげたい気持ちだった。しかし、退院が伸びてしまった時などは、先の不安から1秒でも多く娘との触れ合う時間を大切にしたいという気持ちが沸いてきてしまった。
そんな時ふと思いついたのが、ネコ電車のおまじない。
嬉しそうにスタンプを押していく娘の姿に、洋希がどれだけ救われていたか。
そして、数ヶ月後――。
洋希の治療がようやく終わりを迎えた。
それから体調がだいぶ落ち着いた頃、念願の遊園地に連れて行った時の夕希のはじけるような笑顔は洋希の心に焼き付いている。
あの猫のスタンプは最後まで貯まっていなかったのだが、父親が家に帰ってきてくれた事と家族で遊園地に行く約束が果たされたおかげで夕希の精神も安定したのか、たまに思い出したように乗りたいという時はあったが、以前のように熱心にこだわることはなくなっていた。
休業していた仕事もリモートワークという形で少しずつ社会復帰を目指そうとしていた。しかし、そんな穏やかな日々もつかの間、その後の検査で再び洋希は病と向き合う事になってしまったのだった。
その日は朝から雨がぱらついていた。
ワンオペ生活に戻った望美に急かされながら夕希が保育園に着て行く服と格闘していると、ふいに望美の携帯に着信が入った。バタバタしながら画面を見た望美の顔色が一瞬にして曇る。
その時の夕希はまだ着替えに四苦八苦しており、母親の話す声がだんだんと低くなっていく様子に気づくことはなかった。
通話を切ると同時に、普段の望美とは違った硬い声が飛んできた。
「夕希、今からパパのところに行くよ」
何となく気持ちが張り詰めているような母親に、幼いながらも夕希は嫌な空気を感じ取っていた。
それから望美は夫である洋希の母親に電話した。短いやり取りを終えると、途中だった夕希の着替えを望美が手早く済ませる。普段は「自分でやりなさい」と、夕希が途中で母親に甘えてきても手伝うことはせず自分で出来るようにやらせていたのに、それをしない事が逆に夕希の不安をさらに大きくさせていた。
望美は必要最小限のものだけ鞄に放り込むと、夕希の手をぐいっと引いて急いで玄関に向かおうとした。
「ママ? 朝からパパのところに行くの?」
有無を言わせない母の様子に、夕希はおそるおそる聞いた。
「そうよ。保育園にはお休みの連絡したからね」
夕希の顔を見ることなく靴箱から靴を取り出すと、そのまま娘の足を持ち上げて履かせようとした時、夕希はハッと思い出した。
「待って、パパのところに行くならポシェットがないと……」
以前ほどではなくなったが、出掛ける時は一応メモ帳とスタンプを持ち歩くのが習慣になっていた。
「今はポシェットなんて、どうでもいいから!」
思いがけない母親の大きな声に、夕希が体をビクッとさせると途端に目に涙が滲んだ。そこでハッとしたように娘の顔を見ると、夕希の泣きそうな表情に望美も少し我に返った。
しかし、今は少しの時間も惜しく感じてしまいそのまま靴を履かせようとしたけれど、夕希は母親の手を振り払うとものすごい勢いでリビングに引き返し、急いでポシェットを手に取ると、母親が追いかけて来る前に玄関へ戻って来た。
少しばかり気まずい空気が流れる。
「さっきは大きな声出してごめんね」
望美が謝ると夕希もこくんと小さく頷き、素直に靴を履きヘルメットを被る。
「パパの方のおばあちゃんも一緒に行くから、一旦パパの実家に行くね」
夕希を電動自転車の後ろの席に乗せると、自宅から自転車で5分の父親の実家に向かった。
「お義母さん……!」
すでに玄関前に出て待っていてくれた洋希の母親である珠江は、夕希たちの姿を見ると手を振った。
「準備は出来てるわ。タクシーも呼んでおいたから、もうすぐ来てくれると思うから。お父さんにも一応連絡しておいたわ」
「ありがとうございます。お義母さん」
正直、病院からは意識の混濁がみられるという連絡で、詳しい状況はまだ分かっていなかった。一時的なものかもしれないけれど、とりあえず病院へ行く事にしたのだった。
落ち着かない様子で待つこと数分。義実家の前にタクシーが到着した。
けれど夕希は車の姿を見た瞬間、
「車で行くの?」
ぽつんとこぼした夕希の言葉に、望美はドキリと嫌な予感がした。
「ごめんね、夕希。今日は今すぐパパに会いに行かないといけないの」
普段ならここまで言うと夕希も幼いながら本当に困っている空気を読んで諦めてくれるのだが、だんだんと雲行きの怪しくなっていく夕希の表情に内心焦り出す。
「何で?」
案の定、素直にうんと言わない娘の様子に、けれど望美もこの時ばかりは辛抱強く構ってあげることは出来ない。
「何ででも。今日だけ車で行くの」
有無を言わせない母親に、その一言を言ってしまえばどれだけ困らすか分かっていた。それは大人から見ればただのワガママに見えるかもしれない。けれど、それでも夕希には幼いながらも自分に出来る精一杯の想いがあったのだ。
「にゃんにゃんで……行く」
とうとう恐れていた言葉が夕希の口から放たれると、望美も思わずカッとなってしまった。
「こんな時に、わがまま言わないのっ……! お願い、夕希。今日だけだからっ……」
母親の必死の懇願にも、夕希はふるふると首を横に振る。
「にゃんにゃん……」
「夕希っ!」
聞き分けのない娘をタクシーに無理やりにでも乗せようと、望美はとうとう嫌がる娘を抱き上げたまま一緒に乗り込もうとした。
すると夕希は咄嗟に体をねじり母の腕から抜け出し、そのまま車道に飛び出そうとした寸前で珠江が抱き止めた。
「二人とも、ちょっと落ち着いて」
珠江にそう言われ、娘が飛び出した時心臓がギュッと押し潰されそうになった望美はふうと大きく安堵の息を吐いた。
「夕希ちゃん。パパがね今とても大変なの。早く会いに行って、がんばれって応援してあげて欲しいの」
珠江の言葉に、夕希はとうとうこらえきれずに泣きじゃくりながら必死に訴える。
「だからっ……にゃん、にゃんに、乗るの」
「どういうこと?」
「パパがっ……にゃんにゃんに、乗ったら……ねがいが、叶うって」
しゃくり上げながら、ポシェットの中からメモ帳を取り出す。
「ずっと……パパが、元気になるよう、お願いしてたもん」
望美や洋希はてっきりずっと遊園地に行くのを楽しみに集めていたとばかり思っていたが、最初から夕希の願いはそれだった。
父親が元気を取り戻したことで一旦は落ち着いていたが、居ても立っても居られず自分に出来る事を考えたのだ。
「それは……洋希のただの……」
思い付きで言っただけの事で、でもまだ幼い娘がどんな思いでコツコツとスタンプを集め続けていたかと思うと、はっきりとそう言うことも出来ず言葉に詰まっていると、見透かしたように夕希が言った。
「ホント……だもん。だって、あの電車で……パパはママと出会ったって……そのおかげで私にも出会えたんだって……パパの願いが叶ったて……言ってたもん!」
娘の言葉に、ブワッと記憶が一気に蘇る。
洋希と出会ったのは路面電車だった。出会ったと言っても最初は通勤の時に時々見かけるだけの存在で、けれどある時車内でふとしたきっかけで話すようになったのが二人の始まりだった。
その時乗っていたのがあのネコの路面電車だったいうことを、今思い出した。あとになって聞いたことがあった、洋希はずっと望美のことが気になっていて毎朝「今日こそは」と話しかけるタイミングをずっと探しながら電車に乗っていたらしい。
望美はすっかり忘れていたが、洋希はずっとそのことを覚えていた。だからこそ思い出のある路面電車で夕希のためのおまじないを思いついたのかもしれない。
「望美さんはタクシーで先に息子のところに行ってあげて。夕希ちゃんは私が責任持って連れて行くから」
夕希の話を聞いていた珠江が望美にそう申し出た。
「お義母さん、でも……」
「洋希に夕希ちゃんが行くまで何が何でも頑張れって、私の分まで励ましておいて」
望美は大きく迷う。
本気で連れて行こうと思えば、今度はきっと連れて行けるだろう。
しかし、父親を思う娘の気持ちを無視して無理に連れて行けば、娘の心にしこりを残してしまうかもしれない。
それに、自分もまた夫の無事を信じて祈りたかった。
何も根拠がないものに縋るのは馬鹿げた選択だと言われるかもしれない。
けれど、望美は迷った末に、
「夕希をよろしくお願いします」
そう決断したのだった。
「夕希」
泣きはらした顔でジッと固まっていた娘に呼び掛けると、夕希の表情が揺れた。
「……ママ」
きっと罪悪感でいっぱいなのだろう。娘の震える声に望美も胸がギュッと締め付けられる。
望美は夕希を抱き寄せると、安心させるように背中をトントンする。
「パパと待ってるからね」
そう耳打ちをすると、夕希もギュッと母親を抱きついた。
そして望美は夕希を珠江に託して、一足先にタクシーで洋希の元へ向かったのだった。




