猫はぽむぽむする 1
目の前に路面電車が停まった。
「ほら見て、夕希の大好きなお菓子の電車だよ! これもすっごく可愛いし、たまにはこれに乗って行こうよ!」
望美は娘の夕希に、わざとテンションを高くして車体に描かれたイラストを褒めながら乗車を促してみたものの、
「にゃんにゃんがいいの!」
しかし肝心の娘は顔をぶんぶんと横に振り、力強く拒否する。幼いながらも強いこだわりを見せる彼女に望美は別の手を考える。
「でも、お見舞いの時間は限られてるし……、パパに早く会いに行きたいでしょ?」
すると、頑なな態度だった夕希も母親のその言葉には、少し考え込む様子を見せた。そんな娘を見て一瞬、行けるかもと思った望美だったが、夕希は肩から斜めにかけているポシェットを上からギュッと抑えると、やはり顔を横に振るのだった。
そこで望美は仕方なくこちらの様子を伺っていた運転士に乗車しない旨をジェスチャーで伝え、目の前の路面電車を見送るのだった。
この街には駅前の電停から東に路面電車が走っていて、途中で南に曲がる路線が2本ある。そこを走る車両のひとつにネコ電車があった。
車体には可愛い猫のイラストがいくつも描かれており、車両の両端にはちゃんと猫の耳の形をした飾りも付いている。内装も猫をモチーフにした模様となっており、肉球のマークが描かれた降車ボタンを押すと「にゃ~」と猫の鳴き声で報せてくれる。
ただ、実際にそれを聞いてみると想像と違ってちょっとリアルな感じで「なぁーう」と聞こえる気がする。
先ほど見送った車両には、この街の銘菓のパッケージの柄が描かれており、こちらもふんわりとした色合いでモダンで可愛いらしい見た目なのだが、幼いながらも強いこだわりを見せる夕希は頑なにネコ電車を待っていたのだ。
もちろん父親に早く会いたい、けれどそれと同じくらい大事な事がこの時の彼女にはあったのだ。
「パパ!」
病室に着くと、夕希は怖がる様子も見せず父親の洋希へ駆け寄った。
「夕希、よく来たな。今日も保育園は楽しかったか?」
妻である望美からあらかじめ伝えられていた見舞いの日程に合わせて、洋希は顔色が少しでも良く見えるような色合いの服装とニット帽をかぶって、娘の夕希を出迎えた。
「うん! あのね、今日ね、あ、その前にパパ……今日の」
嬉しそうに保育園の話をしようとした夕希だったが、肝心なことを思い出してポシェットを洋希の前に差し出した。
「今日も乗って来たのか?」
そう聞かれ夕希は満面の笑顔で「うん」と大きく頷く、娘のそんな様子に彼は目を細めながらぽんぽんとその小さな頭を撫でてやる。
「あ、ママは見ちゃだめだからね!」
ポシェットからあるものを取り出そうとして、夕希はハッと望美の方を振り返るときっぱりとそう言った。
「はいはい。ママには内緒ってやつね」
娘に追いやられた望美は苦笑いをしながら席を立つと、夫の着替えの服などを新しいものと交換したり、消耗品の補充のチェックなどを先に済ませることにした。
とは言え、娘の日々の様子は夫婦で連絡のやりとりをして共有しているので筒抜けなのだが、ベッド脇でこそこそと話し始める父娘。
一見、顔色がよさそうに見えるものの、洋希のかすれた声の細さに、望美は思わず胸がギュッと締め付けられてしまった。こそこそと話しているからと思いたかったけれど、おそらく彼はそれが精一杯なのだろう。
普段、娘の前では極力悟られないように抑え込んでいる不安がじわじわと込み上げてくる、けれどその時、望美の耳に夕希のキャッキャと楽しそうな笑い声が聞こえてきて、暗闇に飲み込まれそうになっていた意識を日常に引き戻してくれたのだった。
「見て見て、だいぶ貯まったよ」
夕希はポシェットから大好きなキャラクターが描かれた小さなメモ帳を取り出すと、自慢するようにぱらぱらとページをめくって洋希に見せる。
「たくさん乗ったんだね。すごいな、夕希」
「うん! あのね、お買い物に行く時にも乗ってるんだよ。でも、保育園に行くときはダメだってママが……」
「朝は……ママも忙しいからな。あまりワガママを言って困らせないようにな……」
口をほんの少し尖らせて不満そうな顔をする夕希に、洋希は思わず苦笑いをしてしまった。
最初はただの思い付きだった。
まだ甘えたい盛りなのに、娘には何かと我慢をさせてしまっているであろう。今年の夕希の誕生日に彼女が大好きなキャラクターがいる遊園地に行くという約束もまだ叶えてやれていない。
少しでも気休めになればと思い、洋希が考えたおまじない。
――このメモ帳がいっぱいになるまでネコ電車に乗ったら願いごとが叶うんだよ。
洋希にとっても思い出のある車両で子どもにも人気だろうと、夕希の好きなキャラクターが描かれたメモ帳と猫の足跡のスタンプを買って渡してあげたところ、洋希が思っていた以上に夕希はスタンプ集めに夢中になってしまった。
ネコ電車に乗るごとに1ページに1個ずつ押していくのだが、それ以来、夕希は事あるごとにネコ電車にこだわるようになってしまい、妻の望美から密かにクレームが入るほどだった。
「あともう少しだな」
「うん! ……」
元気よく返事をしたものの、ふと娘の顔が曇る。
「どうした?」
「これで本当に……お願いごと叶う?」
「ああ、もちろん。夕希がずっと行きたがっていた遊園地に行こうな」
「……うん」
よほど楽しみにしているのだろう、やや不安そうに聞いてくる娘に洋希は安心させるように笑った。
二人の話が終わった頃を見計らって、用事を済ませた望美が声を掛ける。
「洋希、他に必要なものがあったらメールしてね」
「望美、いつもありがとう。君に任せきりになって……ごめん。一人で大変だと思うけど、夕希のこと頼むな」
「こっちの心配は大丈夫だから。お義母さんとお義父さんにもたくさんサポートしてもらってすごく助かってる」
望美が仕事で遅くなる時は義実家で娘の夕希を預かってもらっており、娘の夕食の世話だけではなく作り置きのおかずなどもたびたび持たせてくれて、夫の両親には本当によくしてもらっていた。
「今度ね、おじいちゃんとおままごとする約束してるの」
夕希がそう言うと、洋希は思わず吹き出してしまいそのまま少し咳き込んでしまった。
「洋希、大丈夫?」
慌てて洋希の背中をさする望美。
「大丈夫。父さんがままごとしてる姿想像したら、可笑しくて……思わず」
咳が落ち着くと、そろそろ面会時間の終わりを察してかしょんぼりとしている様子の夕希に声を掛ける。
「ママの言うことちゃんと聞いて、お利口にしてるんだよ」
寂しさでバイバイをするのが嫌だったのか、夕希は黙りこくったまま小さくうなずと母親の足にしがみついたのだった。
病院をあとにし帰りの路面電車の電停近くまで歩くと、到着したばかりの路面電車で乗客が乗り降りをしていた。ネコ電車には行きに乗ったこともあり、望美としては帰りはこれに乗って早く家に帰って家事を済ませたいところだが……。
「ねえ、帰りはこの路面電車に乗ろっか? ほら、可愛い……何だろう?」
その車両にはローカル番組のマスコットキャラクターが描かれていたが、うろ覚えで咄嗟に名前が出てこなかった。
「にゃんにゃんがいい……」
ダメ元で聞いてみたのだが、案の定断られた。
しかし、先ほど父親から「お利口にしてるんだよ」と言ってくれたこともあり、もう少し押してみる。
「早く帰って、夕希の好きなご飯作ってあげたいな」
「……にゃんにゃんが、いい!」
食べ物に釣られる事もなく、むしろ諦めるように言われたことに少々ムスッとした表情できっぱりと断った。そんな娘の様子に、望美はそれ以上は何も言わずまた目の前の電車を見送るのだった。
しかし、こんなふうに頑固な態度を見せるのはネコ電車の時だけで、どうしても時間に余裕がない時は空気を察して諦めてくれるし、義実家に預かってもらっている時などは驚くほど聞き分けが良い。
ワンオペで時間に追われ少しでも早く用事を済ませたいのはやまやまだったが、それを思うと娘の数少ない要望を聞いてやりたいという気持ちもあった。
今回から新しいエピソードになります。
引き続き、最後まで見届けてもらえたら嬉しいです。




