近衛の試験
修学旅行の日程が近いことから、試験日はすぐに設定された。
会場は北の海沿いの街だ。試験に名乗りを上げた近衛と、チュルカ様とティフォルナ様、エルタニアの新兵のみが乗船口にいる。
率いているアルバ様は妖精の作った『遠くまで声を届けられる装置』で声を響かせている。
「船内にはすでに海軍の兵が乗っている。諸君らが乗船した後、いつ、どこで、誰が敵になるのかはわからないように隠されている。
指導役の腕章がついた近衛が先生役だが、彼らは必要に応じて指導のみを行う。戦いはしない。
新兵諸君は自由に過ごして良いが、自分の身を守るために何をすれば良いかをよく考えて行動するように。新兵考課も同時に行われている」
この試験を女王陛下や軍務大臣、各部署の上長などが見学中なことは通知されている。
意気込む者も、反対に静けさを保つ者もいるのを横目に見た俺たちの前で、アルバ様が声を上げた。
「それでは乗船開始だ。指導役、あとは任せたぞ」
俺たちも腕章のついた近衛に従って桟橋を通り、船の中へと進んでいく。
生徒らしいざわざわとした喋り声の中でティフォルナ様と一緒に歩くチュルカ様は、小さく息を吐いている。
「絶対に危険になるってわかってる船に乗るの、嫌だね。……殺人事件が起こるのがわかってる密室に、わざわざ自分から入っていく感じ?」
「あら、これは密室殺人の犠牲者になりに行くというより、初めて行くお化け屋敷みたいなものじゃないかしら。
ふふふ、この名探偵の手にかかれば船上の不可解な出来事も全て解決、お見通しだもの。密室とは到底言い難いわ」
「ティーちゃんがいつも通り落ち着いてるのが心強いね……。
えっちゃんも、気がもたなくなっちゃうからね。いつ開始かも知らされてないから、あまり緊張しないでいこうよ。ねっ」
柔らかく微笑むチュルカ様だって、自分から嫌だと言い出した通り緊張している。
それでも俺を気遣ってくれる彼女だからこそ、笑い返せた。
「そうですね。いつも通り、学校で近衛の仕事を続ける感覚でいます」
「うんっ、それがいいよ。
そうだ、私たちの部屋なんだけど、当日と同じく個室なんだって。男子は雑魚寝部屋で枕投げ可能、女子は個室で四人部屋。
……枕投げいいなぁ……私たちは夜番の近衛が一緒になるから、結局ティーちゃんと二人部屋なんだよね」
「仕方がないでしょう、狭い船内ではその方が護衛しやすいんだから。
……そうそう、護衛しやすいようにではないけれど、私たちもなるべく部屋から動かないつもりよ。
移動の間にカードを遊んだり、やりたいこともたくさんあるんだから。今日は試遊よ、試遊」
「でもティーちゃん、お部屋にこもってばかりもいられないよ。お昼ご飯と夜ご飯は食堂で、その時だけは移動が必要なんだって。
もしかして夜までやるのかな……演習の日程、確か三日くらい用意されてなかった?」
姫君たちの賑わう声を聞きながら、周囲にも気を配りながら、船室へと続く廊下を歩く。
ティフォルナ様を担当予定のセガルとも一緒だが、彼も緊張が表情に出ているから姫君たちがほぐそうとしていた。戦闘よりも情報収集が得意な能力だから、荒事を想像するのは苦手だと聞いている。
「えっと、お部屋番号は……」
チュルカ様が旅のしおりを広げて、俺たちにも見せてくれる。元々の船室の場所には新しく番号が貼られている。
船室は今回も当日も、先生方が予約している部屋番号は使わない。
内部で入れ替えを行っているから、秘密裏に旅のしおりに挟み込まれている番号を使う。これも襲撃対策の一つだ。
四人全員で部屋に入ったけれど、近衛は一人が室内を検め、一人は閉めた扉を塞ぐように内部で待機する。
今回はセガルが扉を背にして警戒し、俺が室内を検めた。
――窓は見取り図などで確認していた通り、一つだけしかない。接着されて開きそうもない小さな丸窓は押し引き出来ず、景色の鑑賞にしか使えない。
換気口はあるが網などは取り付けがしっかりなされており、こちらも全く動かない。
扉の他に外部につながるものはないし、室内も細かく検めたが不審物も見当たらなかった。
「室内、異常なし。続けて警戒にあたる」
「承知した。廊下も現在、異常なし」
内部を検めた者は、扉を見るようにしながら窓際で待機する。何かあった場合は姫君たちを身をもって庇う役割を担う。
セガルが守る扉は木製で、一人だけが通れる幅だ。注意すべきは押し入りだから、廊下側の警戒は怠らない。
ティフォルナ様も自分の能力で船内を探っていた様子だけれど、肩をすくめた。
「今のところは何も起きていないわね。船の中は正常な運行に使う言葉しか交わされていないわ。
それじゃカードでも遊びましょうか。修学旅行じゃ今頃、みんなで遊んでいるはずだもの」
「うん。……私たちは何も知らない学生役だもんね。よし、遊ぼう、ティーちゃんっ」
チュルカ様とティフォルナ様は荷物を置くと、ご友人と遊ぼうと思っていたカードを広げて試遊を始めた。
賑やかなゲームの合間にティフォルナ様が音を探っているらしいけれど、特に何かあるわけではない様子だ。
やがて彼女が顔を上げて、集中し始めた。
「お昼だから食堂に集合、なんて声が聞こえてくるわね。
……足音も多くなってきたわ……食堂に全員を集めて、何かする気かしら」
「食事の会場には、近衛や護衛も多く配置される予定なんだよね。
私たちだけを狙って、何か事態を起こすのは難しいと思うんだけど……」
話していると部屋の扉がノックされた。
外から声がするけれど「昼食の時間だ。食堂に移動するように」という指示だけでその場を去った様子だ。気配が部屋の前から離れていく。
ティフォルナ様も音をずっと探っているけれど、ため息が答えだ。
「駄目ね、忙しそうな食器の音と足音ばかりでうまく聞こえない……。
外はもうお昼に見えるし、予定通り昼食も出すと言われていたから、まだ船内は普通に動かしているのかもしれないわ」
「近衛の集中力が切れてきた時にこそ、兵が動きそうだよね。やっぱり日が落ちてから行動するつもりなのかな……。
先生に集合って言われてるのに行かないのもおかしいし……セガル、扉の外はどう?」
「……人波も引きましたが、廊下でまだ話している学生が三人います。女性が二人に、男性が一人です」
「あれ? 廊下にいたってことは、先生にも会ってるはずだよね。……直接言われても動かない反抗的な学生、ってこと?
確かにいそうだけど……芸が細かすぎない? ティーちゃん、どうかな」
「……話の内容は至って普通よ。
……足音に紛れてよく聞こえないけれど、最近の訓練の内容を話しているわ。内容は全て、初歩的なことばかりに聞こえる……」
「……なかなか離れませんね。彼らとは距離もありますから、出ましょうか。
私が先に行きます。エリクセルは殿を務めてください」
扉を開けたセガルが外部を確認し、扉を開けたままにして警戒しながら先を行く。
俺も扉のそばに立ち、姫君たちが出たのを追いかけて進もうと、二人に先を譲る。
「ねえそろそろ食堂行かないと、先生に怒られちゃうんじゃない?」
「やっだぁ、うちら最後になっても困るんだけどぉ」
「ああ、そろそろ行こうぜ。食いっぱぐれても困るからな」
セガルが扉の外に出たことを見て、溜まっていた生徒役も歩き始めたらしい。
扉の前についた俺からも、私服の男女が食堂に向かう、つまりこちらに歩いてくるのが見える。
チュルカ様が少し早めに部屋から踏み出して、ティフォルナ様も続こうとした。
扉の向こうにいたセガルから、声にならない音がした。
咄嗟にチュルカ様とティフォルナ様を掴んで引き戻す。
扉の中に一息に蹴り込んできた男がいて、男が入ると同時に扉を閉めた女が見える。
目元まで金髪に埋まっている男は首に下げていた笛を吹いて、口の端を上げた。船内が一気に慌ただしくなり、悲鳴が聞こえる。
背中に二人を守る俺の前では、男が小瓶を取り出した。
「突破完了。……これで俺の仕事も終わりだな」
扉に何か液体がかけられて、一気に固まっていく。
瓶が転がったけれど、男の動きには油断がない。侵入者は音がしないよう腰ベルトに隠していた短剣を見せて、笑いながら状況を把握させようとしている。
「この船はこのまま進路を変えて東へと進む。
密室のまま、人質をとったままな。……残念だがお前たちの負けだ」
チュルカ様が歯を食いしばって、背中の向こうから声を上げた。
「三対一になって、自分が倒されないとでも思っているの?
あなたを倒して船の中の味方と合流すれば、まだ勝ち目はある。
えっちゃん、ティーちゃん、突破して食堂に合流しようっ」
「おいおい、倒されない自信があるからこそ、この配置なんだろう?
……言っておくが、俺はお前が愛した男と愛する妹、そのどちらも潰していいと聞いている。
片方でも捕まえて痛めつければ、人質として諦めもつくだろう。反抗的なら、そうしてやってもいいんだぜ」
チュルカ様もナイフを見せる男に歯噛みするしかない。
何かを食らって倒れたはずのセガルは、室外にいて様子がわからない。
近づいてくる動きに合わせて俺もチュルカ様とティフォルナ様を下がらせたけれど、背の高い男は肩をすくめている。
「部屋に踏み入らせてしまった以上、お前たちに出来るのは選ぶことだけだ。
他の仲間が船内を制圧するのを待つか、それとも無理にでも脱出しようとするか。……なあお姫様。頭に血がのぼっている状態だとどうなるのか、教えてやろうか」
重い何かを引きずる音が聞こえた。
音は遠ざかっていって、部屋の前はしんと静まり返っている。引きずられた何かが、扉の近くに倒れたはずのセガルだなどと、音を目で追っているチュルカ様にも容易に想像がつく。
「……っお願い、治療をさせて。少しだけでいいの。頭をぶつけていても危険だから……っ」
「駄目だ、あいつは見せしめに使える。
……いいか、お姫様。あんたが無理に逃げようとすれば、婚約者か妹が同じ目に遭う。
今のあんたはお願いすらできる立場じゃない。状況は理解できるな」
セガルが扉を開けて待っていた時間なんて、ほんの僅かだ。
金髪を目深にしている男が廊下を瞬く間に駆けて部屋に押し入ってきたが、身のこなし自体が尋常じゃなかった。
姫君たちがいる部屋を制圧するのに、何があっても戦える相手を送り込んでいる。……海兵の中でも、かなり手練れだ。
チュルカ様もティフォルナ様も戦えるとはいえ、狭い部屋で撹乱してくる相手と戦う経験は積んでいないだろう。
目の前の海兵を相手に抵抗して……誰かが捕まったが最後だ。ナイフを持った相手が躊躇しないなら、自分から癒しの能力を使う事態になる。相手は戦いにも、誰かを傷つけることにも慣れている。
なら……この状況で出来ることは一つだけだと、覚悟を決めて息を吐いた。
「……大丈夫ですよ、チュルカ様、ティフォルナ様。このまま助けを待ちましょう」
「えっちゃん!?」
「こちらは相手に向かえません。距離を開けたのを躱されては、お二人が危険になりますから。
しかし反対に、相手が向かってくるのをいなすだけなら三対一のままです。このまま俺の後ろに隠れていてください」
「……っ……だめよえっちゃん。チューの言う通り、どうにかして脱出した方がよくないかしら。
私たちを守ったって時間稼ぎにしかならないわ。外にいるのは新兵だけよ。
対して船内は全員がうちの海兵。どうあったってこのままでは巻き返してなんてくれないわ。
負ければえっちゃんも試験を不合格にされるのに、それでもいいの?」
「負けたっていいんです。お二人に傷がつかなければ」
後ろの姫君たちが息を呑んでいるが、目の前にいるのは彼女たちの母親を王として頂く、本物のエルタニアの海兵だ。海賊などとは統率力も動きも違う。
目の前の男も合理的ではある様子だが、特別に残虐なわけではない。
しかし二人が抵抗すれば簡単に攻撃を返すだろう。傷つけてもいいと口にした通り、海軍としてさまざまな経験をしてきた彼らは流儀をわかっている。癒しの妖精がいる限り、痛みを伴っても傷は必ず消える。
「俺の役目は勝つことではありません。チュルカ様とティフォルナ様を『守ること』が俺の役目です。
大丈夫、このまま待ちましょう。目の前の敵を倒せないなら、倒せるようになるまで待つのも仕事です」
「でもえっちゃん、っ、私だって痛い目に遭ったって戦ってきたよ。怯まないようにって色んな訓練も積んだよ!」
「彼一人を倒せたところで、この船全体の掌握は難しい。扉の外にはいまだにもう一人女性兵がいるはずです。制圧した場所は順次、兵を置いて固めている……具体的な敵の数もわかりません。
アルバ様も戦うことではなく『守られること』が役目だとお二人に伝えたでしょう? ……俺を信じて、今は抵抗せず、逃げ出す時のために力を蓄えていてください」
ゆっくり、しかしはっきり伝えた言葉に、父親を思い出したらしいチュルカ様が息を吐いて、肩に入っていた力が僅かだけでも抜ける。
ティフォルナ様もそんな姉姫に寄り添って、ひたすら情報を集めてくれている。
「お姫様の言う通り、状況終了まで待っても勝ち目はないけどな。
……このまま待ちぼうけではつまらない。焦らせてやろうか」
男の言葉と同時に、はっきりしていたはずの意識が揺らいだ。
咄嗟に舌を噛んだが、目の前の揺らぎが治っても、胸の内を掴んで掻き回されているような不快感が続く。寝起きを間違えたような頭痛がひどい。
「えっちゃんっ、っ、えっちゃんに何をしたのっ」
「俺の能力を少し味わわせてやっただけだ。ただし、時間が経つほど症状がひどくなる。
時間をかけていいものかは、体と相談すればいい。のんびりしていて、いいことばかりか……体験してみろよ」
チュルカ様が俺に触れたけれど、彼女が能力を使っても体が楽になることはない。
傷をどこかに受けているわけじゃなく、精神系の能力だ。チュルカ様も状況を必死に把握しながら呟いている。
「体のどこかに異常があるわけじゃない、でもえっちゃんの脈だけ異様に早くなってる……何、何の能力……?!」
「大丈夫ですよ、チュルカ様。平気です。このまま待ちましょう」
船酔いとは異なる気持ち悪さが込み上げてくる。
それでも呼吸を整えて、目の前に集中した。大きく息を吸って吐くと、少しだけ不快感が楽になる。
「バンドクウサギに噛まれた時ほどの絶望感ではないです。だから大丈夫」
「……バンドクウサギ?」
「その名の通り、あらゆる生物に効く毒を持っているんです。
俺もただのウサギに噛みつかれた、軽症だと思っていたら、腫れて熱が出て大変でした」
笑え。
……そうだ、笑え。
大熊に襲われたあの日、陛下が大丈夫だと、背中に隠した俺に笑いかけ続けたように。
背中の姫たちに笑顔で話を続けろと、自分に言い聞かせながら、口角を上げた。
「あの時噛まれた痛みと苦しさに比べたら、なんともありませんよ。だから大丈夫です」
たとえ自分が強いと思っていたとしても、チュルカ様たちはまだ十二歳。
……襲われたのなら、怖いはずなんだ。
怖がる女性たちを守れるのは、同じ室内にいる俺だけになった。
あの日、十歳の俺と共にいたのもたった一人だった。
誰より守られるべき女王陛下が、他国の幼い王子でも守ろうと、背中に俺を隠して立ち向かってくれたように。
笑え。
呼吸を整え、精神を落ち着ける。
アルバ様なら出来るし、シャグマ様も身につけていると父上に教わった。
平然としていること。笑顔で落ち着いていること。……目の前の誰にも負けないと、自信を持つこと。
海兵は俺たちの様子を見ながら、揺れる船内でも平気で立っている。
「……海に慣れていると聞いていたが、そのうち船酔いもくるぞ。
体調が狂えば、いつも通りとはいかなくなる。逃げ出す機会もなくなるんじゃないのか」
「船から吐きながらでも逃げなくてはならないことがあったので、それも大丈夫です。不調があっても戦えますよ」
「え。えっちゃん、船から逃げ出したことがあるの? 手紙にはそんなこと書かれてなかったよ?」
「チュルカ様との手紙には書けませんでしたが……父上に、女性ばかりの海賊船に放り込まれました。
王子の子が欲しければ捕まえろと言われて、一日目でなんとか縄を切り、二日目で隠れながら逃げ出す手段を作って、三日目で逃げました」
目の前の男の口が開いたが、事実しか言っていない。
「三日三晩まともに寝られず、船の上を逃げ回って海に飛び込みました。
最後は意識も飛んで漂流していましたね……海流から流れ着く場所は父上にわかっていたらしいですが。まさしく恐怖体験でした」
「チュー。今度レイト王に会ったら文句言わないといけないんじゃない?」
「絶対に言う。……わかったよえっちゃん、この気持ちを燃やして待つよ。絶対に帰って、絶対にレイト王を叱ってやる……っ」
チュルカ様も、どうやら他に気が向いたようだ。俺も苦労した甲斐があったらしい。
男の言っていた通り、胸の中に指を突っ込まれているような、心臓を握りしめられているような不快感が増していく。
それでも後ろに守っている相手がいるのに、弱音を吐いてなんていられない。
ティフォルナ様は状況を把握して、唇を噛んでいる。どこかから笛の音が一度、二度と響いて近づいてくる。
「船内の状況は悪いわ。どんどん取り押さえられて静かになっていっている。
投降して捕虜になった人もいるみたいね……この笛の合図も、状況終了ってことじゃないの?」
「全員を捕縛完了した。つまり、俺たちの勝ちだ。
……さて、最後に聞こうか。
お前たちは決して逃げ出せない。動けば姫君の命はない。この状況からどうするつもりだ?
お前が判断を誤ったことで船は東に向かい、姫君は二度と国に帰れなくなったぞ」
試験だからこそ、尋ねてくる。
そんな男に、俺の答えなんて最初から一つしかない。
「それでも待つしかないでしょう。巻き返せないからこそ、抵抗してお二人に傷を負わせるわけにはいかない」
「……王子らしい、ただの日和見の昼行灯か」
「いいえ。今は演習だから助けも何もない。しかし本番はエルタニア海軍の船が随伴する。
……あえて誰も言わなかったのでしょうが……人質を取られているとしたって、陛下がチュルカ様とティフォルナ様を攫われるような危険を犯すはずがない。
つまり、この状況すら起こりようがない……俺はそう信じています」
エイル様を旅に出したことをようやく受け入れられた陛下が、それでもチュルカ様とティフォルナ様が修学旅行に行くのは許している。
アルバ様に傷を負わせてでも探したい気持ちで執務室にこもっていた彼女が……それだけ我が子への思いが深い陛下が、無計画に旅行になど行かせるものか。
「陛下は自分の手元に我が子がいるのであれば、守り切れる自信がある。
俺たちは負けが必至の状況で、どう動くのかを見られていた。
……そう考えているので。チュルカ様とティフォルナ様が落ち着いて後ろにいてくれたことは、試験的にも良かったのではないかと考えています」
アルバ様も愛する娘二人を『演習に行け』と危険を知りながら送り出した。
後ろで息を呑んでいる姫君たちは大人の姿に見えて心は若く、父親たちに似て強いから、なんでも出来る気がしてしまうけれど……ワイアットにまだ勝てないとチュルカ様本人が言っていたように、彼女にだって勝てない相手はいる。
不意に体が楽になって、先ほどまでと違う感覚に目が回る。
それでも目の前の相手から視線を外さずにいると、男は扉をいくつか叩いて、外側から開けさせた。
「試験結果を決めるのは軍の上層部だ。俺たち海兵は結果を決める立場にない。
ただ一つ言えるのは、俺は守るべき姫君にこのナイフを使わなくて良かったってことだ。愛好会に恨まれるからな」
「アリッサム、船を着岸させる準備が整ったってさ。行くよ」
「それじゃあな、人間の王子。俺たちもあんたも全力でやり合った。幸運を祈るぜ」
金髪を目深にしていた男は部屋から出ていった。
それでも油断なく構えていたけれど、足音が遠ざかって……扉を警戒しながら開けたけれど、近くには誰もいなくなっていた。
不意に、弾けるように泣き出す声に息を呑む。
顔を俯かせたチュルカ様から涙が溢れて、ティフォルナ様が震える姉の体をぎゅっと抱きしめている。
「大丈夫よ、チュー。終わったわ。
何事もなくて良かったじゃない。えっちゃんも無事、私も無事、もちろんチューも無事。怪我一つなく終わって良かったわ」
それでも複雑な感情が込み上げるのだろう、チュルカ様は顔を覆って泣き続けている。
俺も扉を閉めて戻ると、姉を慰めながらも落ち込んでいるティフォルナ様ごとお二人を抱きしめた。
「俺が弱いばかりにすみません。きっとアルバ様なら、誰もを倒して船ごと制圧すると思いますが……今の俺に出来ることは、この程度でした」
「何を言っているのよ。私たちはそれでもえっちゃんがいいから、みんなで頑張ろうって決めたんじゃない。
でも私たちがいたって、何もできなかったわ。……チューもそれが、一番悔しいのよ」
戦えると意気込んでいたけれど、相手の実力の方が上だった。
何も出来ずに守られるしか出来ないのが辛い気持ちは、俺もよく知っている。
お二人から体を離すと、父上が俺にそうしてくれたように、泣きじゃくる彼女に手を伸ばす。
抱き上げた軽い体の主がこぼす涙を受けながら、瞬きのたびに水滴を落とす黒の瞳を見つめた。
「チュルカ様、試験に落ちた場合の俺の日程を伝えてもいいですか」
「……っ……」
「近衛の仕事は休暇をとって、先にサイルア入りします。
まだ観光にも行っていなかったので、空色硝子のいいお店も見つけておきます。
だから、現地でお会いしましょう」
きょとん、とした彼女の涙が止まる。
俺も近衛として旅のしおりは読んだ。彼女には現地で自由行動の日があるのも知っている。
「俺は『パルムクル王国の第二王子として』水着で街歩きして、日頃の疲れを癒しながらチュルカ様をお待ちします。
自由行動の日は、お互いに待ち合わせて海にでも行きましょうか。水着は現地でも借りられるそうですからね」
先ほどまでの絶望感が、理知的な脳内ではすぐさま希望に切り替わるはずだ。
何度でも思い描いたエルタニアの青空と、白い砂浜。広大な海を見ながら一緒にサイルアを歩く。
もしかしたら水着姿の自分たちも思い浮かんだのを揺れた黒の瞳で感じながら、先ほどまで涙が流れていた頬を撫でた。細い肩が跳ねたのを見ては、意識してもらえている実感も湧く。
「お忘れかもしれませんが、俺も王子の端くれです。高級リゾートで羽も伸ばせます。
その場合、修学旅行の多くの時間は大切なご学友とお過ごしください。予定を知っていても、さすがに同じ日程では動けませんからね。
代わりに俺は旅先で、ほんの少しあなたを独り占めする時間をいただきます。……あなたを守る近衛ではない。もちろんただのエリクセル、婚約者として、ですよ?」
泣き顔の赤い頬が、別の種類の赤に変わるのを見ている。
「心からの本音です。俺はそれでも構わないと思っています」
笑顔を見せるとチュルカ様の体から力が抜けて、顔が俺の肩に埋められた。
まだ十二歳のうぶな少女の背中を撫でていると、見上げていたティフォルナ様がため息を吐いたのが聞こえた。
「気が抜けたわ。……そうよね、えっちゃんが近衛になりたかったのはチューのためだものね。
修学旅行とはいっても、どうせ大半は移動時間なのよ。一緒に行けないなら別の手段を使えばいいんだわ。……私ともあろうものが、なんて単純なことに気づかなかったのかしら……」
「俺が考えついていないような態度だったから、かもしれませんね。
……ですからティフォルナ様も責任など感じないでください。あなたは俺よりも、ずっと頑張ってくださいましたよ」
「落ち込んでいる女性に忘れず優しい声をかけることにも、やっぱりレイト王の影響を感じるわね。
……はーあ。私もまだまだよ。えっちゃんの計画は知らなかったもの……用意周到、絶望する隙すらなかったなんて……自分で気づきたかったわ」
「旅は思いもよらない出来事で、計画が破綻することもつきものですから。俺のことならご安心ください、第二案などは事前に用意しています」
「ということは……大変よ、チュー。あなた、水着にされちゃうわよ。
えっちゃんと海ですって。水着を借りるってことは現地の派手な水着を着るのかしら。やだぁ、おとなぁ」
「え。え? 水着って、借りなくても学校のやつ持っていけばいいんじゃないの? サイルアじゃ浮いちゃうってこと?
あれっ、どうして笑ってるの二人とも……派手って柄のことでしょう? 違うの?」
こうして可愛い婚約者の疑問符と、彼女に真実を伝えて叱られる俺たちの笑い声と共に試験は終わった。
結果は後日の通知と言われて城に返されたが、後悔はしていない。
チュルカ様とティフォルナ様が元気で、無邪気で、笑顔でいてくれる。……そんな今を守れたことが一番、俺にとっての成果だからだ。




