日常の中
学校がお休みの日の、お昼頃のこと。
俺は練兵場で自主的に訓練をしていた。
普段は学校で近衛として勤務しているけれど、警戒が主になっているから戦うための勘などは磨かれない。アルバ様との朝練があるからこそ、わずかずつでも前に進めている。
しかしご厚意に甘えるだけではいけないし、兵の多くが休日でも訓練に参加して体を鍛えている。
俺も今日は休暇日だが、同僚と共に筋力増強術に勤しんでいた。チュルカ様も医師としての勉強をしているそうだ。
不意に練兵場の兵がざわついた。
顔を上げると、書類と錫杖を手にして歩いてきたラフィネル陛下がいる。
桃色の髪を風に靡かせ、空色の瞳を練兵場の兵に向けた黒ドレスの女性はアルバ様を見つけると、すぐに書類を振ってみせた。
「アルバ、少しいいか。先ほど修学旅行の予定表をもらったんだ。近衛の配置について打ち合わせの時間が欲しい」
「わかった。しばらく席を外すが皆は訓練を続けるように。フィンキット、指導を頼む」
「はっ、お任せください」
アルバ様は近衛兵の副兵長に声をかけると、陛下と共に練兵場の奥へと離れた。チュルカ様の修学旅行の予定表が出たことで、細かなすり合わせも本格化していくのだろう。
任された副兵長は指導を続け、俺も汗を滴らせながら訓練についていく。
重い剣を用いた素振りにも必死でついていくと、次の器具を箱から出した副兵長が全員に配った。
「この伸縮布を巻いて体を動かせ。
剣の型で同じ動作をする時に苦心している者もいたな、負荷なく繰り返せるまで鍛えろ」
指導を任された副兵長の指示通り、伸び縮みする布を使って筋肉を鍛える。
巻いて体を動かすだけなのに、反発力がある布だから鍛えたい場所に効いてくる。
しかし、しばらくして……俺が巻いていた布は、疲れが出た体から滑ってしまった。
「あ」
外れた布が空を飛び、放物線を描いて練兵場の二階席の窓に入っていく。
反発力が強い布だから、かなりの距離を飛んだのを同僚とも見送ってしまった。
「あー、地面に落ちたならまだしも面倒な場所に入ったな……エリクセル、壁は登れるか」
「いえ、妖精兵の皆さんのようには登れません」
「あそこ、近く見えて意外に遠いんだよなぁ。
ものは試しだ。エリクセル、そこの階段から二階に行けるぞ。行ってこい」
「はい、すぐに取ってきます」
練兵場は円形で、武闘大会などでも使えるよう二階には観客席が設置されている。
内部は少しだけ入り組んでおり、女王陛下専用席など重要な場所につながる階段は隠されている。
まだ慣れない建物内ではあるが、走って二階に上がり、先ほど飛んでいった布の場所へと向かう。
「……」
練兵場の二階席では、椅子に座ったアルバ様が女性を膝に乗せて抱き合っていた。
何が起こっているのかを把握できず、失礼いたしましたと言う間もなく、唇に人差し指を当てたアルバ様が静かにするよう合図するから、俺も声は喉の奥へ押し込める。
腕の中にいる女性は、顔をアルバ様の胸に押し付けているから、こちらからは誰か見えない。
しかし風に少しだけ揺れる桃色の髪も、執務用のドレスも陛下のものに見える。手にしていた書類がアルバ様の隣に裏返しで置かれているから、やはりラフィネル陛下のはずだ。
アルバ様の首に回された細腕は力が抜けていて動かないが、肩だけが定期的に上下している。足音を少しだけ立ててしまったはずだが、こちらに気づいているそぶりはない。
(……そうか、ずっとお疲れの様子だったし、朝食の時もこめかみを揉んで頭が痛そうにしていたから、わずかでも寝かせているのかもしれない。
エイル様のこともあって徹夜続きだったのが響いていると、チュルカ様も心配していた)
アルバ様は自分を支えにするよう陛下の背中に腕を回していたが、俺が飛ばしてしまった布を把握していた様子で場所を示した。
すぐに足音を立てないよう向かって取り上げると、踵を返した。
「エリクセル」
小声で呼ばれたのが聞こえて振り返ると、陛下を胸に抱くアルバ様が人差し指を唇に当て、いたずらっぽく笑っている。
「お前が家族だから見せたようなものだ。秘密にしてくれ。……頼んだぞ」
頷いてすぐに去ると、二度と飛ばないように気をつけながら伸縮布での柔軟も念入りに行った。
やはり陛下とアルバ様は、仲が良い。
男女が抱き合う光景をつい思い返してしまったけれど、普段は禁欲的なアルバ様が腕の中で女性を寝かせて慈しむ姿が頭を離れず、自分の集中力のなさに落ち込むしかない。
(アルバ様には包容力があって、やはり憧れるな……俺もチュルカ様を安心させられるような男になりたいものだ)
しばらく経つと、近衛兵長は書類を手に、何もなかった様子で兵の元に戻ってきた。
近衛の同僚とも訓練を繰り返し、夕方になって終わったことから汗を流して着替える。
部屋に向かう途中の廊下で、チュルカ様とティフォルナ様に出会った。
「あ……っ、えっちゃんっ」
「奇遇ね。えっちゃんも今日の訓練はおしまい?」
「はい。今から部屋に戻るところでした」
「じゃあ荷物は持って帰ってあげるから、チューはえっちゃんとお話でもしてきたら?
……何その顔。えっちゃん何してるかなぁ、なんて休憩のたびに言っていたじゃない。
耳にタコができそうだから、今日何があったのかはここで聞いてきてちょうだい。いいわね」
チュルカ様は明かされて慌てているけれど、ティフォルナ様にも事情があったらしい。
勉強道具を受け取った妹君が手を振って離れると、チュルカ様が俺を見上げたから中庭を示した。
「では、そこの中庭はいかがでしょうか。来客用にベンチが置いてあったのを記憶しています」
「う、うんっ、あるよ、行こう……っ」
エルタニア王城に勤める庭師が誇る庭に入ると、花を見られるベンチに座る。
生垣も綺麗に整えられているし、白い花が咲いていて見応えがある。王城の中庭は時期によって別の花が顔を見せると父上からも聞いていた。
休日のため可愛らしいシャツを着て、細身のジーンズを履いているチュルカ様も俺の隣に腰かけると、照れくさそうに笑った。
「今日はね、私はいつも通り。先生の論文のお手伝いして、研修して、お勉強してたんだ。
えっちゃんは? 何か楽しいことあった?」
「久しぶりに同僚と実戦形式で戦いました。やはり妖精兵は強いですね……能力なしで剣だけで戦ったのに、実力に驚かされました。
ワイアットとも戦いましたが、何手も及ばない感覚でしたよ」
「私もワイアットには全然勝てないんだ。
近衛ってね、父様が護衛対象より強い相手じゃないと付けないって決めてるみたいで、エイルについてたリンデルなんて、のんびり屋さんに見えてすっごく強いんだよ。
最近は執務室の警護についてるのを見たってティーちゃんが言ってた。一番大事な場所でも任せられるくらいの実力なんだって」
「戦ったことはありませんでしたが、警護中にどれだけ時間が経っても芯がぶれないと思っていたので……納得しました」
今日あった失敗の話などもした。伸縮布を空高く飛ばし、同僚にも揶揄われたことだ。間抜けな話だが、想像したチュルカ様は笑ってくれた。
「あの布、すっごく反発力が強いんだよね。ニアが体全体を使って引き絞って、弓みたいに放って遊ぶから叱られてたこともあったよ。
……あれ? えっちゃん、どうしたの?」
話が続けば思い出したこともあって、チュルカ様と見つめあっている。
「……少しだけ、チュルカ様に触れてもいいですか」
婚約者は黒の瞳を丸くした。
それでも気恥ずかしそうに頷いてくれたから、彼女の腰を抱き寄せる。
「……っ!?」
黒のお団子頭を俺の胸につけて、腕に包んだ。
アルバ様とラフィネル陛下がしていたのとは違って膝に乗せたりはしないけれど、それでも抱きしめられた婚約者は耳まで真っ赤になっている。
(今日はワイアットに負けを認めたが、チュルカ様を守るために、俺はもっと強くならなければならない。
その決意のために手を伸ばしたはずだが……これでは安心させてもらっているのは、俺のほうだな。
チュルカ様を抱きしめるだけで、疲れも何もかもが吹き飛ぶ気までする……彼女のそばにいるのはいつだって心地良い……)
静かな中庭の風は爽やかで、身動き一つしないから花の擦れる音だけが聞こえる。
少しと伝えたのだから腕の中の少女を離すと、チュルカ様は赤くなった顔を上げた。
「俺のわがままに付き合わせてしまってすみません。
ですがチュルカ様を腕に抱けて良かったです。ありがとうございます」
首が横に振られて、お互いに言葉もなくベンチに座り直している。
風で頬を冷ましているチュルカ様が、同じく顔の熱を感じている俺を見上げて……思い切ったように、俺の肩にもたれかかった。
「……私ね、えっちゃんのことが大好きだよっ」
肩に頭を預けている少女から、気恥ずかしそうな声が聞こえる。
「今はこれだけで精一杯だけど、私だってえっちゃんとぎゅってするの、……したかった。
だからね、今のはえっちゃんだけのわがままじゃないよ。
私だって、したいことだったから……してもいいんだよ」
一途に愛してくれる婚約者は、振り向いた俺と目が合うと黒の瞳を揺らした。
でも見つめあったまま、力が抜けた様子ではにかんでいる。
「えっちゃんにぎゅってされるの、すっごく嬉しかったんだ。
ドキドキしちゃった……私がえっちゃんの彼女だよって言ってもらえてるみたいで……えへへ、まだ腕の感触が残ってる気がするよ……っ」
恥じらいながら自分の体を抱くチュルカ様を見るだけで、顔が熱い。
肩に寄り添う婚約者の頭を撫でると、くすぐったそうな声が聞こえた。艶やかな黒髪の手触りを感じる俺まで、心が弾むようだ。
「俺もチュルカ様のことが大好きです。彼女どころかそれ以上の、最愛の婚約者ですよ」
「さっ、最愛……っ!?」
「ええ。何よりも、誰よりも、俺はチュルカ様のことが大好きです」
見つめ合うだけで幸せな相手は、彼女だけだ。
チュルカ様と一緒にいる時間に胸を高鳴らせるうちに、空だってあっという間に夕暮れから夜の青へと変わっていく。
(……もっとそばにいたいが、ままならないものだな)
エイル様と共に帰った日の色だ。
夜の帳がチュルカ様との話の終わりを告げている気がして、俺から先に立ち上がった。
振り返ると、寂しそうに胸を押さえる姫君に手を差し出す。
「名残惜しいですが、そろそろ戻りましょうか。お部屋までお送りします」
「あ、う、うんっ……じゃあお願いします、エリクセル殿下。
でもえっちゃんは近衛としてはお休みだから、お部屋くらい一人で帰るよ。すぐそこだもん」
「休暇中だからこそ今はあなたを心配し、送り届けたい一人の男として送らせてください、チュルカ様。
……送り届けなければいけないことが残念なくらい、実は離れがたい気持ちなんです。
だから……廊下を歩く時間だけでもいい、もう少しだけ俺のそばにいてください」
心のままに伝えると、真っ赤になったチュルカ様が頷いて、手を取ってくれた。
手を繋いだままお部屋にお送りしたけれど、……彼女と過ごす平穏な日々は、一旦ここまでになった。
鍛えておいてよかったと思える事態が起きるのは、いつも何気ない日常の中だ。
「近衛兵諸君に伝達事項がある。
今回、チュルカとティフォルナが修学旅行でサイルア島に向かうが……同伴する人員に関しては選抜試験を行うことになった」
アルバ様が朝の全体朝礼で言い出したことに、兵がざわついた。
選抜試験を通らなかった者は、修学旅行には同伴できない。
不合格の者は王城勤務となる。
つまり。
……チュルカ様が待ち望んで叶えたい夢、一緒に修学旅行に行くという夢を叶えられるのかは、真実、俺の実力次第となった。




