湯煙の防衛戦とお姉さん
女性士官用宿舎の地下へと続く階段を降りると、そこには石造りの重厚なアーチと、ほんのりと硫黄と薬草の香りが混ざり合った温かい空気が漂っていた。
魔導熱源を利用した王都自慢の『魔導温水大浴場』。
脱衣所で素早くバスタオルを巻いた俺は、立ち込める真っ白な湯煙の中に足を踏み入れ――その瞬間、石造りの床に両足を縫い付けられたように硬直した。
(し、死ぬ……! これは精神修養だ……! 前世も含めた男の誇りを賭けた、絶対に負けられない防衛戦だ……ッ!!)
湯煙のベールを割って現れた光景は、三十代独身元メカニックの理性を一瞬で消し炭にする破壊力を秘めていた。
まず、カリン。
普段はかっちりした軍服の襟元を正しているが、服を脱ぐと凶悪なまでのプロポーションを誇っていた。豊かな胸元が湯気の中でたわわに揺れ、濡れた髪が色っぽく白いうなじに張り付いている。
次に、セシリア。
日頃の厳しい鍛錬を感じさせる引き締まったしなやかなウエストと、透き通るように白い肌。すらりと伸びた長い脚はまさに貴族の令嬢といった優美さだが、湯気でほんのり桜色に染まった肌が妙に艶めかしい。
そして、ミア。
野生味あふれる健康的な肢体に、水に濡れてぺたりとした赤褐色の三角耳と、水滴を弾くふさふさの尻尾。
(視線固定! 天井の梁を数えろ! 一、二、三……だめだ、四方八方が絶景すぎて視界の逃げ場がねえええええッ!!)
心の中で激しく警報を鳴らし、俺はそそくさと湯船の最も遠い隅っこへ移動して体育座りで縮こまった。
だが、そんな俺の必死の防衛線を、カリンが無慈悲にも笑顔で突破してくる。
「レオナちゃん、おいで? まずは綺麗に頭を洗いましょ」
「ひっ……! い、いいよカリンさん! 自分の頭くらい自分で洗えるって!」
「ダメよ。戦続きで埃も被っていたでしょうし、レオナちゃんの綺麗な銀髪が傷んじゃうわ。ほら、こっちの椅子に座って」
「ちょ、押すなって……!」
有無を言わさず洗い場の木製椅子に座らされる。
カリンの柔らかい指先が、たっぷりの泡と共に俺の頭皮を包み込んだ。
ふわりと広がる甘い柑橘系の香り。ぬるめの湯が心地よく頭を濡らし、巧みな指圧で頭皮のコリがほぐされていく。
――めちゃくちゃ気持ちいい。
気持ちいいのだが、背中に時折カリンの柔らかな感触が押し当てられ、俺の心拍数はとっくにレッドゾーンを突破していた。
「ふふ、レオナちゃんってば、身体を強張らせちゃって可愛い。くすぐったい?」
「う、うぐ……っ、いや、その……」
「本当にシルクみたいにサラサラな髪ねぇ……。お人形さんみたいで、ずっと触っていたくなっちゃうわ」
耳元で囁くような優しい声に、顔がカッと沸騰しそうになる。
普段は冷静沈着で厳しい主任技術官の面影はどこへやら、完全に「可愛い妹を愛でるお姉ちゃん」モード全開だ。
そこへ、背後からミアが濡れタオルを両手で握りしめ、目をキラキラさせながらすり寄ってきた。
「レオナ様! ウチ、お背中流します! 力加減なら任せてくださいっす!」
「痛いのは勘弁な……!? っていうかミア、距離が近い! 尻尾ペシペシ当てんなって!」
「えへへ、レオナ様の肌、すっごくすべすべで柔らかいっす……! あんなに強いのに、本当に女の子の身体なんだなぁ……」
「当たり前だろ! ……って、ちょ、脇腹は……っ、ひゃん!?」
くすぐったい急所を撫でられ、俺の口から情けない甲高い声が漏れてしまった。
慌てて両手で口を押さえる俺。
その瞬間、湯船に浸かっていたセシリアが、バシャッと湯面を揺らして立ち上がった。
濡れた金髪をかき上げ、顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけてくる。
「な、な……っ! レオナ、何を破廉恥な声を上げていますの! それにカリン少尉もミアも、甘やかしすぎですわ!」
「まあセシリアさん、そんなに怒らなくても。セシリアさんもレオナちゃんの背中流してあげたらどう?」
「わ、わたくしがそんな平民の背中など……! そ、それに……!」
セシリアは、泡まみれで小さく丸まっている俺の華奢な肩や、湯気で上気した白い肌をチラリと見て、悔しそうにギュッと唇を噛み締めた。
「……っ、そんな無駄に整った愛らしい身体をして、油断ばかりして……見ていて調子が狂いますわ! もっと自分の立場と身だしなみを弁えなさい!」
「理不尽すぎるだろ! 俺はされるがままで被害者だぞ!?」
「口答えをなさらないの!」
セシリアはツンとあごを上げてそっぽを向き、再び湯船の奥へと沈んでいった。
だが、その耳の先まで真っ赤になっているのは湯気の熱さのせいだけではなさそうだった。
頭と身体をすみずみまで洗い流され、すっかりピカピカにされた俺は、ようやく広々とした湯船へとドボンと浸かった。
肩までお湯に沈むと、思わず深く長いため息が漏れる。
「生き返るぜぇ……」
手足を伸ばせば、熱い湯が心地よく筋肉を解きほぐしてくれる。
故郷の村を出てからというもの、帝国の追撃を振り払い、アイギスを振り回し、王都まで駆け抜けてきた。知らず知らずのうちに限界まで張り詰めていた神経が、じんわりと湯の中に溶け出していくようだった。
「ふふっ。本当にいい顔をするわね、レオナちゃん」
隣に腰を下ろしたカリンが、湯面を手で掬いながら穏やかに微笑んだ。
「今日まで、ずっと張り詰めていたものね。……怖くなかった?」
「……ん? まあ、怖いっていうか……必死だったからなぁ。目の前の敵をぶっ倒すことしか考えてなかったし」
俺は湯船の中で自分の手のひらを見つめた。
小さく、白く、前世のゴツゴツとした職人の手とは似ても似つかない。
けれど、この手には確かに他の人とは違う強力な力が宿っている。
「母さんを探す手がかりを掴むためなら、明日の査問会でどんな偉そうな学者や将軍が出てこようが関係ないさ。小娘一人でアイギスが動かせるってこと、きっちり証明して見せてやるさ」
強がりでも何でもなく、ただ真っ直ぐに前だけを見据える翡翠色の瞳。
その凛とした横顔を見た瞬間、カリンも、ミアも、そして少し離れた場所で耳を澄ませていたセシリアも、息を呑んでレオナを見つめていた。
小さくて、可憐で、まるでガラス細工のように儚げな少女。
けれど、その胸に宿る覚悟と気骨は、誰よりも熱く、揺るぎない。
「……ふふ。そうね、あなたならきっと大丈夫よ」
カリンが愛おしそうに目を細め、湯の中でそっとレオナの肩を抱き寄せた。
「明日は、私も技術士官として全力であなたを援護するわ。アイギスの設計思想とあなたの力を、あの石頭たちに思い知らせてやりましょう」
「ウチもっす! 査問室の外で待ってますから! もしソイツらが変な真似しようとしたら、ウチが力づくでレオナ様をお守りします!」
「……ふん。近衛騎士のわたくしがいる前で、物騒なことを言うんじゃありませんわ」
セシリアが湯船の向こうから、いつものツンとした調子で扇子の代わりに手首を軽く振った。
「ですが……筋の通らない難癖をつけられた時は、わたくしの名において異議を申し立ててあげます。精々、わたくしの面目を潰さないように堂々と振る舞いなさい」
「ありがと、隊長さん」
俺が笑いかけると、セシリアは「べ、別にあなたのためではありませんわ!」と再び顔を背けてしまった。
温かな湯煙が満ちる大浴場。
肌を寄せ合い、同じ湯に浸かりながら、4人の心は静かに、けれど固く結ばれていくのだった。




