第9話 白い獣
「よし、セシルもちゃんと手綱に掴まっていてくれよ」
「うん! 任せて!」
馬にまたがり、俺のすぐ前に座ったセシルが振り返って元気よく頷いた。
手綱を握る俺の腕の中に、セシルの身体がすっぽりと収まる形だ。
「オルド、準備はいいか?」
「準備万端ですとも! いよいよグレイウルフ領ですな!」
昨日買ったばかりの斧刃つきの槍を担いだオルドが、意気揚々と馬上で胸を張った。
石造りの大きなオウデーンの街門を抜け、俺たちはグレイウルフ領へと出発した。
グレイウルフ領は、思っていたよりずっと近い場所にあった。
街のすぐ近くに広がる『入口の森』と呼ばれる森を抜ければ、その先はもうグレイウルフ領なのだとオルドが教えてくれた。
「しかしオルド。こんなに近いのに、なぜ誰もグレイウルフへ行かないんだ?」
「巨大な魔獣がいる、という話がありましてな。過去に何度か目撃の報告もありますし、実際にいるとは思うのですが……街には近づいてこないので、危険地帯という扱いに留まっているのです。それに、荒廃した土地でもありますからな」
「ああ、草木も生えない乾いた土地に、黒い水が湧くっていう噂か。もし本当にそうなら、確かに厄介そうだな」
俺たちは周囲を警戒しつつ、馬をゆっくりと進めていく。
だが道中は拍子抜けするほど、のどかだった。
青く晴れ渡った空からは温かい陽光が降り注ぎ、肌を撫でる風が心地よい。
「なんだか気持ちいいね、フェル」
「ああ、本当にそうだな」
セシルが目を細めて笑い、俺も自然と口元が緩んだ。
まるで遠出の気軽な散歩だ。
とてもではないが、これから『呪われた地』と呼ばれる魔境へ向かうのだとは、到底思えないほどの穏やかな空気だった。
やがて、目の前に木々が茂る深い森が見えてくる。
これが『入口の森』か。
「フェルレイド隊長。セシル殿。この森には魔獣も生息しております。お気をつけくだされ」
「ああ、分かった。この森には、どんな魔獣がいるんだ?」
「狼や、猪ですな。ただ、たまに白い獣の目撃報告があるのです」
「白い獣? ……初めて聞くな」
今までいろいろな魔獣と戦ってきたが、白い魔獣というのは俺も聞いたことがない。
いったいどんな姿で、どのような生態をしているのだろうか。
オルドが先頭に立ち、周囲を慎重に見渡しつつ森の中へと進んだ。
俺とセシルが乗る馬も、その後ろへと続く。
森に足を踏み入れると、太陽の光が木々の葉に遮られ急に涼しい陰が辺りを覆った。
湿った土と、青々とした木々の濃い匂いがする。
だが警戒をしながら進んだ森の中で、結局のところ何事も起こらなかった。
目についたのは、木々の間を飛び交う鳥くらいのものだ。
「この森が開けた先が、グレイウルフ領です。念のため、お気をつけを」
引き締まったオルドの声色に、強い緊張感がにじんでいる。
やがて、薄暗い森の出口が見え、視界が一気に開ける。
その先に広がっていたのは——
「これは……?」
「なんと……!?」
「わぁ……!」
三人揃って、思わず声を漏らした。
目の前に広がっていたのは、見渡す限りの草原だった。
草木一本も生えないと噂に聞いていた荒地とは、まったく異なる美しい景色がそこにある。
遠くには川が流れ、その向こうにはまた別の森が見える。
川のほとりには、崩れかけた石造りの小屋がいくつか点在していた。
「なんか……拍子抜けだな」
「いやはや、これは想像と違いましたな……しかし、数十年前は確かに荒地だったという報告があったはずですが」
「数十年か。それだけ時間があれば、土地の様子も変わるってことか」
かつて何があって不毛の荒地と呼ばれ、そして長い年月の間に何があって再びこれほどの自然が戻ったのか。
今の俺たちには知る由もない。
少なくとも現時点でこれだけ緑が豊かなのは、これから領主となる俺にとって大きな朗報だった。
「警戒しつつ、あの崩れた小屋まで行ってみよう。もしかしたら、誰か住んでいるかもしれないしな」
「確かに、その可能性は否定できませんな!」
「よし、行こう。セシル、ちゃんと捕まっててくれ」
「うん!」
俺たちは風を切って、草原を馬で駆け抜けた。
目的の石造りの住居までやってくる、壁や屋根の一部が崩れ落ちていた。
だが、何の気配も感じられない。
「これは随分と前に建てられたもののようですなぁ」
「ああ。木の部分がすでに朽ちているな。……俺が馬を降りて中を確認してくる。オルド、セシルの傍についていてくれ」
「承知いたした。フェルレイド隊長、くれぐれもお気をつけて」
俺は手綱をセシルへと渡し、馬を降りた。
「フェル、気をつけてね……」
「大丈夫。何かあったらすぐに逃げ帰って来るよ」
不安そうに眉を寄せるセシルの心配顔を見て、俺はセシルを安心させようと笑顔を向けた。
そして表情を引き締め、静かに背中の剣を抜く。
俺は剣を構えたまま住居の入口へと足音を殺して近づいた。
まずは建物の周囲、そして裏手にも回ってみたが、これといって不審な気配はない。
安全を確認し、俺は朽ちかけた扉を押し開けて住居の中へと足を踏み入れた。
入ってすぐの広間の奥に台所。さらには小さな風呂場まである。
思っていたよりも、内部に荒らされた形跡はない。むしろ綺麗すぎるくらいだ。
広間の奥には、三つの部屋が綺麗に並んでいた。
「……よし、何もいないな」
剣を鞘に収めて住居の外へと出た俺は、馬上で待機するセシルとオルドに向かって大きく手を振る。
こちらの合図に気がつき、二人は安心した表情で馬を進めて近寄ってきた。
「中には何もいなかったよ。思ったより綺麗だったし、これなら少し手を入れるだけで住む事もできそうだ」
「なんとっ!? フェルレイド隊長、まさか、ここに住むおつもりで?!」
「いや、今日明日すぐにというわけではないよ。安全が確保できてからの話だ。今日のところは、長居せずに一度オウデーンの街へ戻ろうか」
のどかな景色が広がっているとはいえ、ここは未知の魔境なのだ。
こういった場所で安全だと油断し、無防備に長居する事は大きな危険が伴う。
日を改めて何度か出入りを繰り返し、時間帯や天候によって変わるグレイウルフ領の色々な顔を知っておくことが何よりも重要だ。
それに今回は荒廃した土地だと思っていた場所が、緑豊かだったという事実だけで素晴らしい収穫だった。
俺は再びセシルの乗る馬へまたがり、来た道を戻っていく。
そして俺たちは無事にオウデーンの街まで帰還を果たした。
街の門を潜ろうとしたところで、門番が慌ててオルドに声を掛けてきた。
「オルドさん、ご無事でしたか!?」
「むっ? どうしたのだ? そんなに慌てふためいて」
「え、ご存知ないんですか!? また、あの『入口の森』に白い獣が現れたんですよ!」
そういえば、森に入る前にオルドが言っていたな。
あの『入口の森』に、正体不明の白い獣が現れるという話を。
それはつまり、俺たちが通ってきた森に白い獣がいたという事だよな?
だとすれば、いつの間にか、すぐ近くですれ違っていたのかもしれない。
「オルド。その白い獣っていうのは、一体何なんだ?」
「正体は分からないままなのです。森の奥に、遠目でちらりと見える程度でして。大きさは人間の子どもくらいらしいので、それほど脅威にはならないとは思うのですが……」
白い獣か。森の中では相当目立つはずだ。
だが、目立つはずの獣が、俺たちに一切気取られずに移動していたということになる。
これは一度、この目で確かめておく必要がありそうだ。
「オルド、肉と果物を少し多めに用意してくれるか?」
「おや、フェルレイド隊長。何やら妙案が浮かんだ、というお顔ですな……!」
「ああ。俺に良い考えがある」




