第16話 グレイウルフ領の新領主
俺はグレイウルフ領の広大な草原を眺めていた。
足元には青々とした草が広がり、土の香りを運ぶ風が頬を撫でていく。
数日前まで、ここにはカン、カン、カンと木材を叩く音が響き渡っていた。
今となっては、その騒がしさすら少し懐かしい。
とはいえ、オウデーンの商人や冒険者たちが総出で手伝ってくれたおかげで、あっという間に立派な住居が完成したのだ。
建設の喧騒は終わり、現在のグレイウルフ領に残っているのは俺たちだけだ。
俺とセシル、それからグルルとルーア。
オルドは元々オウデーンの住人なので、今は街へ帰還している。
兄のベルグラン卿が執務でオウデーンを離れるらしく、その間はオルドが非公式の代理を務めなければならないそうだ。
別れ際、オルドは「ぐううう! これからもっと面白い事が起きそうなのに!」と声を上げ、本気で悔しがっていた。
いや、別に面白いことなんて何も起きないと思うが……オルドは俺のことを、芸人とでも勘違いしているのだろうか。
「フェルー! お昼ご飯できたよー!」
背後から、セシルの明るい声が届いた。
「ああ、今行くよ!」
俺は住居の方へ振り返り、ゆっくりと歩き出した。
セシルと出会ったばかりの頃、セシルは生活に関する知識を何も持っていなかった。
薪の良し悪しも分からず、料理のやり方も知らない。
王城で王女の影武者として生きてきたセシルにとっては、当然の事だ。
だが今は薪の選別どころか、火の扱いも覚え、見事な料理を作るまでに成長している。
しかも、その味は文句なしに美味い。
適当に塩や香草を放り込むだけの俺の料理とは大違いだ。
木の香りが残る家の中へ入ると、すでにテーブルにはセシル、ルーア、グルルが着席して待っていた。
温かいスープの匂いが部屋中に満ちている。
俺も席に腰を下ろして、全員が手元のフォークを握った。
『いただきます!』
皆の元気な声で、今日の昼食が始まる。
ガツガツと肉を頬張るグルルに、ルーアが横から声を掛けた。
「こらグルル。もうちょっと落ち着いて食べなさい。ほら、セシルみたいに綺麗に。いただいた上等な服が汚れますよ」
「ふわぁーい!」
口の中に肉を詰め込んだまま、グルルが元気よく返事をする。
今、グルルはモコモコでフワフワの着ぐるみではなく、フリルのついたお嬢様のような可愛らしい服を着ていた。
オウデーンの商人たちが居た際、獣の着ぐるみを着た子どもについて余計な噂が立つといけないので着替えさせたのだ。
セシルが服を選び、髪を丁寧に梳かして整えたグルルは、見違えるほど綺麗な少女になっている。
「まあ! グルル、凄く似合ってるよ! お姫様みたい!」
あの時、セシルは嬉しそうに手を叩いてグルルを褒めていた。
いや、本物のお姫様はセシルだろう。
と、俺は心の中でそう突っ込んだが、もちろん口には出さないでおいた。
褒められたグルルは照れくさそうに笑い、それを見守るルーアはさらに嬉しそうな顔をしていた。
食事が終わり、グルルとルーアが並んで食器を洗ってくれている。
二人は、いつも一緒だ。悲しい別れにならず、本当に良かったと思う。
ルーアは、このグレイウルフ領に居る間だけ人間の姿を維持できるそうだ。土地に宿る豊潤な魔力が必須条件らしい。
俺は外へ出て、再びグレイウルフ領の景色を見渡した。
一面の草地と新しい住居、澄んだ水の流れる川。遠くには深い森と険しい山々がそびえている。
グレイウルフ領の土地は広大だ。しかも森と山のさらに奥は、帝国領へと繋がっている。
あのトラーグ砦で、五年間も俺たちが命がけで戦い続けた連中の国だ。
「フェル、何してるの?」
ふと昔の記憶に浸っていると、セシルが隣に歩み寄ってきた。
「ああ、このグレイウルフ領の今後をどうしようかと思ってね」
「なるほどね~。さすが領主様だね。何か良い考えが浮かんだ?」
セシルが、茶目っ気のある笑顔を向けてくる。
「しかし、本当に何もない土地だからな。いったい、これからどうしようかと思っていたところだよ」
「何もない、か」
——しまった。
何もない、という言葉はセシルの前では厳禁だ。
セシルはずっと自分のことを『何もない人間』だと思い込み、深く気に病んでいたのだから。
「ねぇ、フェル?」
すると、セシルは俺の正面に立ち、両手を大きく広げた。
「何もないってさ、よく考えたら、これから何でも出来るって事なんじゃないかな!」
雲の隙間から差し込んだ日の光が、セシルの全身を明るく照らした。
その顔には、馬車の荷台で怯えていた時の暗い影は微塵もない。
今のセシルの笑顔には、前を向いて歩む充実感が満ちていた。
俺は、その眩しい笑顔を見て自然と笑みがこぼれた。
「ああ、その通りだな! これから忙しくなりそうだ」
「うんうん! 私もさ、フェルの妻として頑張るよ!」
「え、いや、それはだな……」
セシルが俺の妻だというのは、オルドがオウデーンの商人や冒険者たちに吹き込んだ真っ赤な嘘だ。
誰が見ても容姿端麗なセシルは、その気さくな性格や細やかな気配りもあり、作業現場で瞬く間に大人気となってしまった。
セシルに対して執拗に話しかけたり、食事に誘ったり、さらには結婚を前提としたお付き合いを申し込む者まで続出したのだ。
その有様を見たオルドが、作業員全員の前で言い放った。
「セシル殿は領主であるフェルレイド様の奥方だ! あのヴァルガノスをひとりで葬り、オウデーンのベマスダ商会を震え上がらせたお方だぞ! セシル殿にそういった言葉をかけるのは、どういう結果を招くか考えた方がいい!」と。
その一喝で、セシルの周りから言い寄る輩は一瞬にして消え去った。
だが同時に、セシルが俺の妻だという間違った認識まで深く根付いてしまったのだ。
確かに軽い気持ちでセシルへ近づく奴らは追い払うべきだが、セシルの将来を考えるとこの噂は良くない。
だが当のセシルはそれ以来、この勘違いを面白おかしく活用している。今の様に。
俺の困った顔を見て、セシルがニヒヒと笑い声を漏らす。
その無邪気な様子につられて、俺もふふっと笑い返してしまった。
先ほどのセシルの言葉が、俺の頭の中に響く。
『何もないってさ、よく考えたら、これから何でも出来るって事なんじゃないかな!』
本当に、セシルの言う通りだ。
何もないからこそ、これから何でもできる。
俺とセシルに、ルーアにグルル。
このグレイウルフ領での新しい生活は、まだ始まったばかりだ。




